69.宇宙観の進展

 High Intelligence City で行われる「市民の大学」。その運営委員として、宇宙関係の講座を企画した。全15回で、その初回は開講挨拶を兼ねて自分が講師として話をすることにした。題して、「はじめに、宇宙観の展開」。我ながら、大きなタイトルをつけてしまったものよ。

 

 仕方ないので、今までの知識を総動員しながら、講座内容を作る。脇には沢山の書籍を積み上げて、ちらちら確認する。

 

・人は宇宙をどのように考えてきたか (Helge Kragh、共立出版

・人類の住む宇宙 (シリーズ現代の天文学I、日本評論社

・西洋天文学史 (Michael Hoskin、丸善出版

・東洋天文学史 (中村士、丸善出版

・宇宙像の変遷 (村上陽一郎講談社学術文庫

・天の科学史 (中山茂、講談社学術文庫

古代文明に刻まれた宇宙 (Giulio Magli、青土社

 

うーむ、ほかにもあったぞ。

 

 ここに少し記録を残しておこう。

 

 「星はすばる」と言ったのは清少納言であるが、およそ 2 万年前のフランス、ラスコーの有名な壁画には、「牡牛の間」と呼ばれるところに 6 つの点が描かれている。これが、昂、すなわちプレアデス星団を描いたものでは無かろうかと考えられている。20万年前に進化したホモ・サピエンスは、夜空を見上げてすばるを描いていたと思うと楽しくなる。

 

 さて、「宇宙」という言葉であるが、これは中国紀元前4世紀の戦国時代、尸子(しし)の書に、

 「天地四方曰宇、往古来今曰宙(天地四方を宇と言い、往古来今を宙と言う)」

とあり、宇は空間、宙は時間を指している。現在は、「宙」といえば、そらのことを指すのが一般的なようだが、もともとは時間だった。広辞苑で確認すると、

 1.無限の時間。古往今来。

 2.そら。おおぞら。虚空。また、地面から離れたところ。「―に舞う」「宇―」 

 3.そらでおぼえていること。暗記。「―で言う」

の順だ。

 

 英語では「universe」。uniは一つ、verseはvertereで回転する、または変えるという意味のラテン語が起源。「一つに変えた(した)もの」が宇宙だ。ほかに「cosmos」も使われるが、これは、美しい秩序、というギリシャ語由来。化粧品のコスメティックに言葉が残っている。

 

 次に、宇宙創成についての人類の宇宙観だ。これは各地の神話を見ればなんとなくわかる。とりあえず、4 大文明から。まずは、中国。「四書五経」に、

「宇宙の最初、天地も日月もなく暗黒の混沌たる一つの塊り、巨大な鶏卵のようなものであった。・・・やがてそのなかに生き物が一つ芽生え・・・盤古という神になった。・・・ある日凄まじい音がして卵が割れ、内部の軽く清らかな成分は雲をなし、上昇して天空となり、重く濁った成分は下に沈み固まって大地となった。・・・盤古は頭と両手で天を支え、両足で大地を踏みしめ、一日一丈ずつ1万8千年かかって成長し、天と地を分かった。」

とある。

 エジプトでは

「原初の混沌の水は神ヌン (Nun)。ヌンから神アトゥム (Atum) が生まれ、アトゥムから大気の神シュー (Shu) と雨の女神テフェネト(Tefenet)が生まれた。シューが天を大地から引きはがした。大地は神ゲブ (Geb)、天は女神ヌト (Nut) として誕生し、シューがヌトを頭上に持ち上げて天空が生まれ、ゲブは大地となった。」

 ついで、メソポタミア文明を見ておこう。バビロニアでは

「天はアヌ (Anu)、大地と地下の水はエア (Ea)、空気はエンリル (Enlil)。アヌとエアは固く結びついていたが、エンリルが大地から天界を持ち上げたことで分離した。」

 インドはよくわからん。錯綜しすぎ。

 でも、インド以外では、なぜか、ある者(神)が、天と地を分かち、宇宙ができたように読める。

 ちょっと違うのはユダヤで、旧約聖書では神が天と地を創造する。

 

 さて、宇宙創造の時間的神話の次は、宇宙の構造、空間的神話の番だ。中国には3つの説があった。蓋天(がいてん)説と渾天(こんてん)説と宣夜(せんや)説。渾天説は、天界は鶏卵の殻のように天球があり、大地は黄身にあたると考えた。宣夜説では、宇宙は無限の虚空であって、天体は自由な空間に浮かんでいると考えていた。面白いのは蓋天説で、天と地は平行であり、計算から天の高さは約 5700 km であると算出したことだ。下図のように、同じ時間に異なる場所で棒(表と呼んだ)の影の長さを測る。測定した2点間の距離が解れば天までの高さがわかるというわけだ。

 

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 次いで、エジプト。エジプトはその地形から、ナイル川で2つに分かたれた平らな大地があり、その外は大洋とした。大気がなくなる高さに空があり、空は4カ所で支えられている。大地の下にはドゥアト (Duat) という冥界があり、太陽は毎日冥界を西から東に旅し、翌朝東に現れると考えた。

 インドは、巨大亀の上に象、象の上に大地、大地の中央に高い山、須弥山(シュメール)があるとした。日月惑星はこの須弥山の周りを周る。山の南に陸が広がり、その外は海だ。高い山はヒマラヤから連想されているのだろう。ヒマラヤの南がインド亜大陸だから。

 

 神話的世界から脱するのはギリシャ文明からだろう。

 各文明には天文学が発展する。それは主に農耕からだ。

 メソポタミアでは規則的な天体運行と気候の関係に気づき、暦の作成が行われ始める。メソポタミアの暦は月の運行をもとにした太陰暦だ。

 エジプトでは、ナイル川が規則的に氾濫していた。氾濫して土地の区画を流し去るので幾何学が発展したと言われているくらいだ。紀元前 3000 年頃、すでにシリウスが夜明け直前に地平線上に現れる頃、今の6月頃だが、そのころナイル川が氾濫することに気づいてた。こうして、暦の作成に進むが、太陽信仰の強さのせいか、太陽暦が発達する。

 時代が下って、ギリシャでは、紀元前700年頃、ヘシオドスが著した「仕事と日」という書物に、牛飼い座のアルクトゥルスが日の入りとともに昇ってくる頃に葡萄の木を剪定せよ、とか、すばるが日の出とともに地平線に沈む頃、畑を耕せ、とかある。農耕暦であるが、暦の作成に導かれる。

 

 こうして、天体の運行と気候や農耕に関係があり、天体運行から予想できるので、それなら人の運命も天体運行からわかるのではないかと考え、メソポタミア占星術が生まれる。

 

 

 中国では、皇帝、すなわち天子は天帝の意思を受けて政治を行うとされていた。天の意思は「天文」現象に現れるとされ、天帝の意思を見落とさないように、天文官を設けて天体観測を行ったいた。天と天子は密接な関係があり、これを天人相与と呼び、支配者や王朝が変わった時には新たに天命を受けたとして改暦を行った。天の命が革(あらた)まる、すなわち革命だ。また、中国では、このように天帝の意思が天文現象に現れると考えられていたので、宇宙は不変であるとは考えていなかった。そのため、新星の記録も残っている。西洋ではキリスト教が支配的になってからは、神が作り給うた宇宙は不変であるとされ、新星の記録は16世紀のティコ・ブラーエの新星まで見られない。

 

 日本では、古墳時代に「星宿図」が、高松塚古墳キトラ古墳の天井に描かれている。もちろん中国の影響であろう。有名なところでは、藤原定家 (1162-1241) が明月記に超新星の記録を残していることだろう。1054 年の超新星の記録を残しており、こらが蟹星雲のパルサーとして残っているものと同定されている。1054 年は定家が生まれる前なのでもちろん自身の観測ではなく、陰陽寮漏刻博士であった安倍泰俊から聞いたことを書き記していたようだ。

 

 

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           高松塚古墳星宿図(文化庁パンフレット)

 

 さて、ギリシャに戻ろう。当時は、太陽、月と、水星、金星、火星、土星木星の五惑星が知られていた。あとは動かない恒星。これが宇宙。

 紀元前400年頃に生まれ、紀元前 347 年まで生きたエウドクソスは、地球中心の「同心球」モデルを考えていた。たとえば月だと、27.3 日周期で回転する球があり、その球ともども18.6年周期で回転する球がある。27.3 日は 1ヶ月だし、18.6 年周期の回転球で日月食を与えていた。もちろん、1 日周期で回転する同心球も与えて、日周運動も再現する。なかなか良くできている。

 時代が下り、紀元前 384 年から 322 年まで生きたアリストテレスが、その後の 2000年間の自然観を支配する考えを提出する。地球中心はもちろんで、地球は宇宙の中心で不動である。月がまわる月の天球までは、「土」「水」「空気」「火」で代表される4元素で世界はできており、これら4元素は互いに転換可能だとした。月より上の天界は第5元素である「エーテル」から成る完全無欠の世界が広がっている。天体の運動は始まりも終わりもない完全な運動、すなわち円運動と考える。従って、宇宙は「誕生しない」。空間的には有限の拡がりを持つ宇宙を考えた。無限の広がりを持つと、無限のかなたで物体は無限の速度を持たざるを得なく、存在できないと考えたようだ。

 

 これがその後支配的な宇宙観であった。

 

 そうは言ってもすでにギリシャ時代から、アリストテレス的でない宇宙を考えていた人もいる。

 

 アリスタルコス (BC.310頃-230頃)は、半月の時の地球と月、地球と太陽の角度測定から、月までの距離と太陽までの距離の比を求めた(図(A))。また、皆既月食の時に、月と太陽の半径の比を求め  (図(B))、さらに月食の時に地球と月の半径の比を求めた(図(C))。

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アリスタルコスが得た値は地球の直径を 1 として、

  ・月と地球の距離     : 9.5    (30.1)

  ・月の直径     : 0.36    (0.27)

  ・太陽と地球の距離    :180    (11728)

  ・太陽の直径    :6.8     (109.1)

となる。最後のカッコ内の数字は現在得られている値だ。実際よりは小さい数値とは言え、科学的な方法で値を算出しようとしたところは大したものだ。大気による屈折などの影響について知らなかったので小さな値が得られていることがわかっている。得られた値から、アリスタルコスは、月が自分より大きな地球の周りを周っているのであるから、地球が自分より大きな太陽の周りを周っているのではないかと考えた。太陽中心説の幕開けであった。しかしながら、アリスタルコスの貢献は忘れられてしまう。``常識"に反していたのであろう。

 

 

 さて、まだ、地球中心説である。

 紀元前 200  年頃のアポロニウスは、地球中心ではあるが地球は円の中心から少し外れたところに位置すると考えた。これを離心円と呼ぶ。こうしておくと春分から秋分秋分から春分までの日数のずれが説明できる。この離心円を用いてヒッパルコス(BC.190頃ー120頃)は、バビロニア人の残した天文観測記録を、ギリシャの惑星運動論にあてはめて、太陽の運動についてはうまく説明できることを見ている。

 

 地球中心説の集大成は、クラウディオス・プトレマイオス (AD.83頃ー168頃)による書「アルマゲスト(偉大なる統合)」に現れる。マケドニアアレクサンダー大王が大帝国を築き、おかげでギリシャペルシャ・アラビアの各文化を融合したヘレニズム文化の下、エジプトのアレキサンドリアに居たプトレマイオスが、周転円、搬送円(導円といった考えで惑星運行の体系を作り上げる。地球を中心に惑星が円運動しているが、例えば火星は、周転円と呼ばれる円上を運動しているが、その周転円の中心が、地球を中心とする円運動を)しているといったモデルである。太陽には周転円は無いが、太陽と地球を結ぶ線分上に金星と水星の周転円の中心があるようにしているので、金星などは明け方か夕暮れ、いつも太陽のそばにしか見えないことを説明する。また、惑星が周転円上を運行しているので、時々逆行して惑星が動くように見える。

 こうして、惑星の退行運動も説明してしまう。

 また、離心円の考えを用いて、地球は搬送円(導円)の中心にはなく、少しずれた位置にあるとし、ちょうど反対側の点を対心円の中心として、惑星の周転円の中心は対心円の中心から見て一定の速度で運行しているとした(図の右側)。

 こうして、惑星の速さの変化も説明してしまう。

 

アルマゲスト」は以降 1400 年にわたり、``偉大な書"であり続ける。

 

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 とはいえ、世界各地ではプトレマイオスの宇宙体系では十分に観測を表せないことがわかってきていた。例えば、アラビアではアル・バッターニ (858?-929)、インドではアルザケル (1029-1087)、モンゴルでは元帝国のイル汗(カン)が設立した天文台の長であったナースィル・ディーン・トゥースィーが 1272 年に指摘している。また、ヨーロッパでは、プトレマイオス体系があまりにも込み入っていることが問題にされていた。離心円、特に対心円が嫌われたようだ。オーストリアではプールバッハの「惑星の新理論」が 1472 年に著される。現ドイツのレギオモンタヌス (1436-1476) もプトレマイオス体系を批判する。

 

 こうした動きの中、コペルニクス (1473-1543)が、「天球の回転について」を 1543 年に出版し、太陽中心説、いわゆる地動説を展開する。すなわち、地球を含めた惑星は太陽の周りを周っているという体系である。こうすると地球より外の惑星を地球が追い越すときに、惑星の逆行(退行)運動が認められる。また、水星と金星は地球の内側にあるので、いつも太陽のそばに見えるわけだ。しかし、惑星の運行を円運動かつ一様な速さでの運動であることに固執したので、観測を十分に再現することはできなかった。そうして、周転円を復活させることになる。地球が動くことはキリスト教の教義に反するので、「天球の回転について」を出版するのはコペルニクスが亡くなる直前であったらしい。さらに、神学者のオジアンダーが、序文に、太陽中心説は観測結果を計算する便宜に過ぎない、といったことを書き足したので、世界観の転換には至らなかったようだ。

 

 真に太陽中心説に到達するには、ケプラーの登場が必要であった。

 まずは、ティコ・ブラーエ (1546-1601)。デンマーク国王からデンマーク・ウラニボリ天文台を与えられ、1576 年から 1596 年まで、20 年間観測に励んだ。もともとは占星術師で、精度良い占星術を行うには、基となる天体の精度良い運行状況の把握が必要であると考え、

観測に勤しんだようだ。しかし、観測ばかりで占いをして国王を助けないので、そのうち追放される。そこで、ルドルフ 2 世という変わり者の皇帝が治めていた神聖ローマ帝国に移り、雇ってもらう。

 神聖ローマ帝国には数学に長けたヨハネス・ケプラー (1571-1630)がおり、ティコ・ブラーエに弟子入りする。少年の家庭教師をしていたようだが、将来は有名な占星術師になりたかったようだ。

 ケプラーはティコから火星の観測データを渡され、火星の軌道を決定する問題に取り組む。円運動ではダメで、軌道の形を卵型にしてみたりしたようだが、観測を再現できない。計算と観測データが合わなかった食い違いは角度にして 8 分というから、60  分の 8度。虚心坦懐にデータを分析し、辿り着いたのが、

 (0)火星の軌道面と地球の軌道面の交点に太陽が存在する、

ということで、こうして、太陽が中心にあることを確信する。そうして、太陽を周る火星の軌道を求めると、火星は太陽の位置を一つの焦点にした楕円を描いていることを突き止める。初めて円運動の呪縛を脱した瞬間であった。

 (1)すべての惑星は太陽を焦点とする楕円軌道を描く。

次いで、

 (2)太陽と惑星を結ぶ線分が、惑星の運行とともに掃いていく面積は一定である、

ということに気づく。ここまでは 1609 年の著書に記されている。

さらに 10 年後、

 (3)惑星の公転周期は軌道の大きさ(楕円の長半径)の 2 分の 3 乗に比例する、

ことを発見する。

 太陽中心説の科学的な確定であった。

 

 ケプラーと同時代に生きたイタリアのガリレオ・ガリレイ (1564-1642) は、オランダのハンス・リッペルスハイ (1570-1619) が1608 年に発明した望遠鏡を自分で作成し、1609 年にはすでに夜空に向けていた。そこで見たものは、月の表面には凸凹があること、金星は満ち欠けすることであり、アリストテレスの言うように月から上の世界は決して完全な世界ではないと思い知る。

 また、太陽を観測すると、黒点が移動し、一旦裏に隠れてまた反対側から出てくることを認識し、太陽は自転していると考える。太陽が自転しているのであれば、地球も自転していておかしくないと考えるようになる。

 また、木星に4つの衛星があることを発見し、巨大な木星の周りを小さな衛星が4つも回っているのであるから、巨大な太陽の周りを小さな惑星が周っていることに不思議は無いと考える。

 さらに、天の川は無数の星(恒星)から出来ていることを観測し、太陽は数ある星の一つに過ぎないと考える。

 

 こうして、アリストテレスプトレマイオスの宇宙観は革新されていった。

 

 ただ、ガリレイケプラーから著作を進呈されていたそうだが、読んだ気配は無いとのことだ。

 

 ガリレオが亡くなった同じ年の暮れ、アイザック・ニュートン (1642-1727) が生まれる。当時の暦で 12 月 25 日生まれなので、本人はイエスの生まれ変わりと思っていた節がある。それは良いとして、ニュートンは 1687 年にハレー彗星発見のハレーの援助で出版した「自然哲学の数学的諸原理」、通称プリンキピアで、後のニュートン力学の基礎となるニュートンの三法則や万有引力の法則などを記す。ニュートンの三法則と万有引力の法則を用いると、ケプラーの発見した惑星運動が完全に記述できる。ただ、すべての物体間には、両者の質量の積に比例し、両者の距離の2乗に反比例する引力が働くとした万有引力の法則から、宇宙が有限であればやがて物体間の引力によって恒星は集まってきて、ついには宇宙は潰れてしまうと考えた。そこで、ニュートンが考えた宇宙は中心も端もない無限宇宙であった。もちろん、太陽は無限にある恒星のうちの一つであり、宇宙の中心にない。

 

 こうして、ニュートンの時代に至って、太陽は恒星の一つで、宇宙の中心に不動の地球があるわけではないという、現在素朴に私たちが抱いている宇宙観に到達する。しかし、まだまだ宇宙は太陽と土星までの惑星、少しの衛星と、遠くの恒星というものであった。

 

 コペルニクス太陽中心説を記した 1543 年から、ニュートンがプリンキピアで惑星運動を解いた 1687 年までのあいだ、西暦 1600 年前後のことを見ておこう。イギリスの William Shakespears、シェークスピアの Hamlet、ハムレットから、第 2 幕第 2 場、Act II, Scene II, A room in the castle で、ポローニアス(Polonius)が、王と王妃にハムレットがオフィーリアに宛てた手紙を読むシーンを見よう。

 

   Polonius (ポローニアス)

     Doubt thou the stars are fire;  (星が火であることを疑っても)

     Doubt that the sun doth move; (太陽が動くことを疑っても)

     Doubt truth to be a liar;     (真実が嘘だと疑っても)

     But never doubt I love.      (わたしの愛を疑うこと勿れ)

 

ちゃんと韻を踏んでいるところが素晴らしい。

 こう見えて、大学の教養時代の英語の授業はHamletをとり、古英語に悩まされながらもハムレットを原著で眺めたんだからね。まぁ、授業中に当てられて和訳を付けていくという授業だったので、新潮文庫が頼もしい味方ではあった。当てられて和訳を``読む"のだが、日本語と古英語の対応が付かないので読みすぎて、良く教官に

「そこまで当ててな~い!!」

と言われたものだ。新潮文庫、ありがとう。

 

 そんな回顧している場合ではない。当時の教科書を引っ張り出して解説を見てみると、ハムレット上演の最初の記録は 1602 年 7 月 26 日とある。1604 年から翌年にかけて修正され、1623 年にシェークスピアの戯曲集に収録されているということだ。

 丁度、地球中心の宇宙から太陽が中心の太陽系モデルへと変化した時代だ。引用したハムレットの 2 行目には、「太陽が動くことを疑っても」とあるので、そのころにはまだ、不動の地球、その周りを周る太陽、という宇宙観のほうが強かったのだろう。太陽が動くことを疑いだしたということは、宇宙観が揺らいでいたとも思える。

 

 太陽系の中心には太陽があり、地球は1年かけて太陽の周りを周っている、また、すっかりニュートン力学が正しい理論と認められていた18世紀半ばに話を進めよう。

 

 なぜ天の川の方向に多くの星が見えるのかについての探究で、トーマス・ライトは1750 年に星の球殻モデルを考える。星は球殻上に分布していて、球殻の方向を見ると星は沢山見えるが、球の直径方向をみると余り星が見えないと考えた。しかし観測に基づかない考えであった。

 次に、ウィリアム・ハーシェル (1738-1822) は、天空を区切って番地を割り振り、どの番地にどれくらいの明るさの星が何個あるかを勘定していった。妹さんが献身的な助手を務めたようだ。その結果、直径と高さの比が 5 対 1 くらいの円盤状に星が分布していることを突き止める。天の川銀河の発見である。また、太陽は天の川銀河、簡単に銀河系と言われるが、この銀河の中心には無いことも示す。不動の地球中心どころか、太陽も宇宙の中心には無く、私達が認識する宇宙は拡がっていった。また、ハーシェルは2500個に及ぶ星雲の研究も行い、星雲は多数の星の集団であることを明らかにする。その形状たるや、渦巻き状、楕円状などのものがあることもスケッチし、分類した。

ただ、星雲が天の川銀河内にあるのか、銀河の外にあるのかは、星までの距離の測定が

出来なかったので、ハーシェルにはわからなかった。

 

 恒星までの距離測定に挑んだのがベッセルで、図の様に、恒星が有限の距離にあるのならば、太陽系からの距離に応じて、地球が太陽を周っている際の位置、たとえば春分秋分で、恒星の見える方向が少しずれるはずだ。これを年周視差と呼ぶ。ベッセルは1838 年に白鳥座 61 番星を観測し、角度にして 0.314 秒の年周視差があることを観測する。こうして、恒星までの距離が、地球と太陽の距離を単位に初めて測定された。しかしながら、年周視差を用いる方法では、遠方の恒星に対しては視差が小さく、測定誤差に埋もれて距離測定ができない。

 

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 18 世紀末に、セファイド型変光星という星の種類が発見される。星の明るさが規則的に明るくなったり暗くなったりする変光星で、変光周期の長いものほど明るく、絶対光度と変光の周期の対数の間に比例関係があることが発見される。星の見かけの明るさは、星までの距離の2乗に反比例して暗くなるので、セファイド型変光星を見つけて変光周期を観測すれば絶対光度がわかり、それとその変光星の見かけの光度から星までの距離が推定できる。こうして、1924 年にエドウィン・ハッブル (1889-1953)は、アンドロメダ星雲中にセファイド型変光星を見つけ、その星の周期・光度関係からアンドロメダ星雲までの距離を求めた。結果は、アンドロメダ星雲は天の川銀河の外にあるというものであった。こうして、ハーシェルの謎は解明され、宇宙はさらに広がった。

 星雲は銀河系外の遠くにあり、天の川銀河と同様な星の大集団であるという、「銀河宇宙」という考えに導かれることとなった。

 

 ところで、もう一度太陽系に目を向けよう。土星まで知られていた太陽系であるが、1781 年に、あのハーシェルによって、天王星が発見される。天王星の軌道を良く観測すると、ニュートンの法則からのズレが認められた。しかし、ニュートン力学はかなり確立されていたので、ニュートン力学が間違っているのではなく、天王星の外側に、未知なる惑星があるのでは、と考えた人がいた。

 イギリスではジョン・アダムスが、1845 年に未知なる惑星の軌道と位置を計算し、グリニッジ天文台長のジョージ・エアリに探索を依頼する。

 しかし、不幸にも、エアリはそのことを忘れる。

 フランスではユルバン・ルヴェリエが、1846 年に未知なる惑星の軌道と位置を計算し、グリニッジ天文台長のジョージ・エアリに探索を依頼する。

 しかし、不幸にも、エアリはそのことを忘れる。

 ルヴェリエはドイツのヨハン・ガレにも同じことを伝え、新惑星の探索を依頼していた。ガレの探索開始1時間後には新惑星がルヴェリエの予言通り発見される。海王星の発見である。

 

 1915 年には、ローウェルが海王星の軌道がニュートン力学の予想と異なり乱れていることを発見し、海王星の外側に未知惑星Xを想定する。アメリカ合衆国のトンボ―により、1930 年に冥王星の発見に至る。こうして、太陽系の知識が拡大していく。

 

 1951 年には、ジェラルド・カイパーにより、地球と太陽の距離の 35 から 60 倍の距離の所に彗星のもとになる小天体が多数存在すると予想した。現在、エッジワース・カイパーベルトとか、太陽系外縁天体と呼ばれているものである。

 このように、太陽系に対する知識も蓄積され、太陽系と呼ばれる領域もどんどん広がってきている。

 

 最後に宇宙全体についての知識は「銀河宇宙」以降、どのように変遷してきたかを見ておこう。

 ニュートンは自身の万有引力の発見から、宇宙は中心も端もない無限宇宙であると想定した。1778 年に、ビュフォンは「自然の諸時期」という書物で、熱した鉄球の冷却時間を測定し、この結果を地球サイズに外挿して、熱い地球が冷却して現在の地球になったとして、地球の年齢を 7 万 5 千年と推定している。

 20 世紀に入って、アルバート・アインシュタイン (1879-1955)はニュートン万有引力を、時空の幾何学として再定式化した一般相対性理論を 1916 年に発表する。すぐに1917 年に宇宙の問題に適用し、引力で宇宙が潰れるのを防ぐために、ある種の斥力を表す「宇宙定数」を自身の重力場の方程式に導入し、始まりも終わりもない定常宇宙解を作った。しかし、引力と斥力のバランスで定常になっているだけで、不安定な解であることには変わりなく、1922 年には、宇宙項なしのアインシュタイン重力場の方程式をフリードマンが解き、有限の過去に膨張を開始し、膨張し続ける解、及び有限の過去に膨張を開始し、膨張が一旦停止して収縮に転じる解、を構成した。

 1929 年になると、ハッブルにより、遠方のほとんどの銀河は遠ざかっており、その速さは銀河までの距離に比例するという、ハッブルの法則を観測により発見する。ハッブルの法則の意味するところは、宇宙は膨張している、ということであった。

 膨張する現在の宇宙を過去に遡れば、ある時点で宇宙は1点から始まったという結論に導かれる。ジョージ・ガモフが 1946 年に唱えたビッグバン宇宙論である。ビッグバンと名付けたのは、ガモフを批判したホイルであるが。ガモフは、宇宙初期は高温で、それが膨張して冷えて現在の宇宙の姿になっているので、高温の宇宙の時に出た光は、宇宙の温度が下がって波長が長くなり、宇宙の至る所に存在しているだろうと予想した。宇宙背景輻射の予想である。この予想を知らずに高感度の電波受信機を設置していたペンジャスとウィルソンが、どうしても除去できない電波雑音があることに気づき、これがガモフの言う宇宙背景輻射であった。1965 年の発見である。絶対温度にして2.73 度であった。

 

 その後も宇宙の観測技術は進み、私たちの知識は増加している。宇宙背景輻射はほぼ一様ではあるが、若干の揺らぎ(ムラ)が観測される。これが銀河などの宇宙の構造の種になったことがわかっている。また、宇宙にある銀河は一様に分布しているのではなく、銀河が集まって銀河群を造り、それが集まって銀河団を作っている。宇宙を見ると銀河団があるところとはフィラメントの様に繋がっており、また銀河団の無いところも存在している。宇宙の大規模構造の発見であった。

 

 宇宙の進化では、138 億年前に宇宙が誕生し、急速に膨張するインフレーションの時代の後、ガモフの言うビッグバンが起きて現在の大きさの宇宙にまで膨張してきたことがわかってきている。また、近年、宇宙は加速度的に膨張していることも観測からわかった。

 

 宇宙の組成については、4.9 % はいわゆる物質であるが、26.8 % は正体不明の暗黒物質、68.3 %は、宇宙を膨張させている正体不明の暗黒エネルギーであると言われている。従って、宇宙の組成の4.9 %しか理解できていないということだ。

 

 講義は 90 分あったが、15 回の講座の初めだったので挨拶したり講座の概要を話したりしてから「宇宙観の進展」の話に入ったので、5000年間の私たちの宇宙観の変遷、クロマニョン人のラスコーの壁画から数えれば2万年間私たちが宇宙を見て感じ考えてきたことを 70 分程度で駆け抜けてみた。

 

 下にゴーギャンの絵画がある。左肩には次のようにフランス語が書かれている。

      D'où venons nous ? Que sommes nous ? Où allons nous ?

 (私達はどこから来たのか? 私たちは何なのか? 私たちはどこへ向かうのか?)

 

 半年間の「市民の大学」を企画し、この講義は 2017 年 10 月 3 日 18 時 30 分から20時まで行われたのであるが、予想通り、講義中の 19 時頃に、2017 年のノーベル物理学賞重力波の発見に与えられたというニュースがはいり、受講者の方たちに紹介できたことは幸いであった。

 

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68.7か国語

 カナダにある、物理学の或る学術論文誌から査読の依頼が来た。

 

 査読というのは、研究者が論文を投稿した時に、論文誌の編集者がその投稿論文が学術的に意味があるか、間違っていないかなどを、適切な他の研究者に依頼して審査させるというもので、原則匿名、ボランティアである。

 

 カナダのその雑誌には一度も論文を投稿したことは無いのに、なぜカナダから査読依頼が来たのだろうと訝しながらも、まぁ、引き受けることにした。

 

 さすがカナダである。査読依頼の同じ文面が、英語とフランス語で書かれていた。カナダの公用語は英語とフランス語だということを意識させられる。

 

 査読のレポートは長文になるので英語で返答したが、編集者へのちょっとした連絡メモは、英語とフランス語で書いて送り返した。

 

 

 負けん気、強いかンね。

 

 

 高校生の頃、2年生の時の学級担任は英語の先生であった。英語の先生ではあるが、専門はスペイン語だったので、スペイン語の話もしてくれた。スペイン語の母音は日本語と同じで、基本5つであるとか、だから話しやすく聞き取りやすいとか。そんなこともあって、クラスの友人と色々な言語を探し、

「おぉ、7か国語できるようになった」

とか言っていた。学校の図書室にもいろいろどうでも良い本があったのだろう。いまだったら、神様google様か、仏さまYahoo様といった検索エンジンでネットでスマホで簡単に調べられるのだろうが、当時はそんなものの無い時代、丹念に辞書やら文法書やらを図書室で調べる。

 

 今の忙しい高校生と違って、金はないが時間はたっぷりある昔の高校生。

 

 フランス語。「ジュ テーム」 Je t'aime

 スペイン語。「テ ケロ」 Te quiero。

 ドイツ語。「イッヒ リーベ ディッヒ」 Ich liebe dich。

 韓国語。「ナヌン タンシヌル サランハムニダ」

 中国語。「ウォー アイ ニー」 我愛你。

 

 これに英語と日本語を足す。

 

 英語。「アイ ラブ ユー」 I love you。

 日本語。「わたしは あなたを あいしています」

 

「よし、7か国語しゃべれるようになった。」

 

 

 ほんと、馬っ鹿だなぁ。

 

 

 その高校2年の頃。学期末だか年度末だか忘れたが、英語の先生である担任との面談がある。定期試験やら実力テストの成績を見ながら、進路を聞かれる。

 

「おまえ、進路どう考えてるんや。」

「大学行って、物理の勉強しようと思ってます。」

「物理勉強して、どうするんや。」

「できたら、そのまま、研究を続けて・・・」

「そんなん、英語の論文読んだり書いたりせんなあかんねんで。」

「はぁ。」

「お前の英語の成績、これやからなぁ・・・」

「・・・」

 

 まぁ、この程度はかわいいものだ。高校3年、いよいよ大学受験というときに、ある友人は担任との面談の時、

 

「お前、どうすんねん。」

「大学進学ですけど。」

「希望の大学は?」

「まだ決めてなくて。とりあえず。」

 

担任の先生、予備校かどこやらが作っている大学を網羅した資料集をパラパラめくって、

 

「行けるとこ、無いわ。」

 

で、終了。

 

 友人の名誉のためにあわてて付け加えておくが、彼は現役で某帝国大学に進学した。

 

 日本にハラスメントという概念が無かったゆるやかな時代のことである。

67.適応

 人類の進化も面白い。専門家ではないので、色々間違って理解しているところは多々あると思うが、備忘のため記す。

 

 今から300-400万年前、東アフリカにはアウストラロピテクス属に分けられる2種類の猿人がいたそうだ。一つはアウストラロピテクス・アファレンシス、もう一つはアウストラロピテクス・アナメンシスと呼ばれている。

 

 300万年前に赤道地帯の乾燥化が始まると、これらの猿人は環境変化に適応するように、進化を余儀なくされた。

 

 アファレンシスはあごと歯を発達させ、堅い植物の実まで食べられるように進化して、乾燥化に適応しようとする。

 まぁ、勝手に進化するんだから、自分たちでそうしようと思ったわけではないが。

 ついでに、体も発達させ、大きくなった。アファレンシスからは、ジンジャントロプス・アエティオピクス、さらにジンジャントロプス・ボイセイと進化していくことになる。

 

 一方、アナメンシスは、体の大きさそのままに脳を発達させる道を選ぶ。

 まぁ、自分たちでそうしようと思ったわけではないが。

 そして、それまでの植物食から、昆虫食を含む雑食へと変化させ、何でも食べて乾燥化に適応しようとした。

 

 昔、「探偵ナイトスクープ」という関西ローカル番組で、大阪のおばちゃんに食べ物では何が好きかを尋ねる企画があったが、一様に「なんでも食べます」と返事が返ってきたのを不意に思い出す。進化の最終形か?。

 

 アナメンシスからは、ホモ・ルドルフェンシス、さらにホモ・ハビリスへと進化していくことになる。

 

 結局、乾燥化に耐え、後に地球上を跋扈することになるのは、脳を発達させて雑食化したアナメンシスの系統で、後にホモ属が生まれる。他方、大型化してあごを発達させたジンジャントロプスの系統は滅んでしまう。生き延びたホモ属は、ホモ・エレクトッスから我々ホモ・サピエンスへと進化することになる。「食」より「知」が優ったのかも知れない。

 

 アナメンシスは知を増大させるため、脳を大きくする選択をしたことになった。脳は、ニューロンと呼ばれる神経細胞からできている。軸策と呼ばれる1本の長い突起を持つニューロン同士は、微細な間隙を持って結合している。その結合の場所は、シナプスと呼ばれる。電気信号化された情報はニューロンを伝わるが、シナプスでは間隔があいているので、そのままでは電気信号を伝えることができない。

 そこで、シナプスではある種の化学物質を放出することで、次のニューロンに再び電気信号として情報を伝えるようにできている。

 

 この脳に良く似ているのが眼だ。眼は、脳が外界に出ているような感じの器官と言える。網膜は脳の表皮に似ているらしい。実際、発生学的には、脳の一部が突出したものが眼になり、眼は神経系の一部といえる(らしい)。網膜には、桿(かん)細胞と呼ばれる細胞が含まれてる。このあたりは第9回で書いた。網膜で受けた光信号を直接脳に送るのではなくて、ある程度の情報処理を行ってから、視神経を通して脳の視覚野に送られるそうだ。

眼は、一部、脳機能の肩代わりもしているようだ。

 

 ヒトは、極度に脳を発達させたので、突然変異と自然淘汰による進化に任せることなく、脳を使って考えることにより、環境変化に適応するようになったようだ。進化による環境変化の適応速度より、断然早く適応していくことができるのだろう。こうして、現在の文明にまで到達したわけだ。

 

 400万年前に食に勝った知によって、私たちは自然の姿を垣間見ようと現在も努めている。

66.伝わる

 夏は暑い。

 

 第10回で、気体を考えると、絶対温度は気体分子の運動エネルギーの平均に比例して導入されることを見た。

 

    < mv2 / 2 > = (3/2) kB T

 

ここで、mは分子の質量、vはその速度、<・・・> は平均を取るという操作、kB = 1.38×10-23 J/K はボルツマン定数、Tが絶対温度だ。

 

 熱の伝わり方を考えておこう。

 

 熱の正体は運動エネルギーなだから、温度の高い物体と温度の低い物体が接触していたら、大きな速さ v を持つ温度の高い方の分子が、小さな速さ v しか持たない温度の低い方の分子に衝突して、エネルギーを渡す。すなわち、温度の高い方の分子は速さが少し遅くなり、温度の低い方の分子は速さが少し速くなる。これを繰り返していくうちに、温度の高い方の分子の速さは平均的に遅くなり、温度は下がる。温度の低い方の分子の速さは平均的に速くなり、温度が上がる。こうして熱は伝わっていく。熱の伝わり方のこの方法は、熱伝導と呼ばれている。分子が衝突してエネルギーを与える、あるいは貰うだけで、物質の移動は伴っていない。金属棒の端っこを熱すると、だんだん熱が伝わり、金属棒の別の端っこまで熱が伝わるやつだ。

 

 金属ではなく、液体や気体のような、流動するもので考えてみよう。分子はあちらこちら動き回れる。液体を下から熱してみよう。温度の低い部分では、小さな速さの分子があまり動き回らず固まっているだろうが、温度の高いところでは、大きな速さを持った分子が動きまわっている。結果的に分子一つが占める空間の体積は大きくなり、単位体積当たりの重さ、密度は小さくなるだろう。下から熱したので、下の方の液体の温度は高くなって、分子は動き回り、密度は小さくなる。液体の上の方はまだ冷たいので、密度はまぁまぁ大きい。そうすると、下向きに重力が働いているので、密度の小さな軽くなった部分は上に動き、逆に上方の密度の大きい温度の低い部分は相対的に“重い”ので、下に下がる。要するに、液体を下から熱すると、下の分子は上方へ行き、上の分子は下方へ下がる。こうして、温度の高い方から低い方へ熱が伝わる。これが対流だ。たった今見たように、重力があるから対流は起きるので、無重力下では対流が起きないことがわかる。また、下の方の分子は上へ行き、上の方の分子は下に行くので、熱伝導と異なり、物質の移動を伴う。

 

 今年、2017 年は愛媛県国民体育大会があり、お披露目を兼ねてか、新しい 50 メートルプールで四国中学総合体育大会の水泳競技が行われた。県で 2 位以内という条件をクリアして、子供も四国中学に参加できた。2 位以内で 4 県で 8 コース。国体用の新しいプール、“特設”プールと名乗っているので、どんなに“特設”なのかと思いきや、“仮設”プールであった。なんでも、既存の屋内 50 メートルプールでは水深が足りず、国体基準に満たないので、既存のプールのすぐ北側に仮設プールをこしらえたとのことだった。電光掲示も小さな移動式で、屋外の明るさでは見にくいのなんの。途中のラップタイムなんて全く見えない。まさか、「もちっと、ゆるゆる遣って、おくれんかな、もし」というわけで、電光掲示の設置が遅れているわけでもあるまい。折角立派な屋内プールを持っているのだから、そちらのプールを改修して深さを確保し、大きな電光掲示板も設置して、観客席も増設し、VIP 席を設けて、という風な具合にしなかったのか謎である。せっかっく国体をやるのであるから、良いものを作って、国体終了後は県民に還元すればよいものを。仮設なので屋外プール、観客席にも屋根どころか、ひさしの 1 か所もない。おまけに“仮設”なので観客席自体もお粗末で、足場の上にプラスチックの長椅子が設置されている。参加する際には、我が high intelligence な県では、熱中症対策のためにもテントを用意して観客席に張りましょう、ということになっていたのだが、強度が足りないのでテントの設置も禁止された。日影が作れない。太陽光がじりじり暑い。

 

 太陽からも熱が伝わってくる。これは、熱輻射と呼ばれる方法で伝わってくる。太陽の熱によって基本的に電磁波が放射され、この電磁波によってエネルギーが伝わってきている。地球にやってきた電磁波のエネルギーが、熱エネルギーに変わっている。

 

 こうして、熱伝導、対流、熱輻射の 3 つの方法で熱は伝わる。

 

 真夏の太陽光の下、仮設プールの仮設観客席で声援を送っていたところ、台風 5 号接近の影響で空は一転にわかに掻き曇り、スコールの様な雨が叩きつけた。屋根もひさしも隠れるところの全く無い仮設プールの観客は、みんなずぶ濡れになっていた。雷が鳴ったら中止だったろう。「大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけ」ておくわけにもいかんぞな、もし。

 

65.電磁誘導の法則

 「理学部」から「理工学部」に看板を掛け変えたために、新装オープンせざるを得なくなった「物理学概論」という授業。従来、1年間、2学期で行っていた内容を半年で行いなさいと言う厳命が下され、なんとか講義ノートを作った。でも、内容をかなり削減。

 

 短時間で学生さんに印象付けるには、演示実験が良いと思い、幾つか用意する。

 

 ボールに回転をかけると、カーブやシュートする、すなわち曲がる、という現象に似たことを、回転しながら落下する円筒で実際に見せたりするが、カレンダーを丸めて円筒を作ってひもを巻くだけの「実験道具」。強制振動で共鳴を見せるには、長さの違う糸を棒に繋ぎ、その先に穴の開いた50円玉をぶら下げて、実際に揺すってみると、特定の長さの糸に付けた50円玉しか振動を始めないという、強制振動共鳴現象演示マシン。棒代と3つの50円玉込みで、総額250円余り。理論屋なので、簡単なものしか用意できない。

 

 電磁気学で見せて印象に残る演示実験は無いかと考え、フファラデーの電磁誘導の法則を見せることにする。ついでにレンツの法則も。そこで、図書館発行の広報誌に、新入生向けに構造主義の入門書を紹介した実験系の同僚のK先生(第64回に登場)に、演示実験用の用具を作ってもらった。図はポンチ絵。

 

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 長さ1mほどの、アルミニウム製の、磁石にはくっつかないが電気を流す素材でできた筒と、その内径にほぼピッタリの大きさを持つ強力ネオジウム磁石を用意し、上から磁石を筒の中に落とす。磁石が落下すると、その前方、後方で磁石が作る磁場が変化する。精確に言うと「磁束が変化する」。磁束の変化は起電力を産むというのが「ファラデーの電磁誘導の法則」。起電力が生じるということは、要するに、そこに導線を置いておくと電流が流れるということだ。今の場合だと、筒は電気を流すので、筒の表面に電流が流れるということ。電流が流れる向きは、磁場の変化を打ち消す向き。これだけ取り上げて「レンツの法則」と呼ぶ。N極を下にして磁石を落下させると、磁石の進行方向の先ではN極からでる磁力線が増えるので、これを減らす向きに電流が流れる。結果的に増える磁力線に対抗して、落ちる磁石の先に仮想的にN極を上に向けた磁石があるようなものだ。そうすると、N極同士反発し、磁石の落下は妨げられる。こうして、磁石は『ゆっくり落ちる』。この現象を見せて、「ファラデーの電磁誘導の法則」を「視覚化しよう」というわけだ。

 

 Kさんはすべてを理解して、演示実験用の素材を揃えてくれた。おまけに、対照実験用に電流を流さない塩化ビニール製の筒も用意してくれた。これなら磁石はすとんと落ちる。空気抵抗は無視すると、初速 0 での落下距離 s [m] は

    s = (1/2)×g t2

 

だ。g = 9.8 [m/s2 ] は重力加速度。t [s] は時間。1 m 落下する時間は

 

    t = √(2s/g) = √(2×1 / 9.8) = 0.451  [s]    (*)

 

およそ0.5秒だ。しかし、アルミニウムのパイプで実際に磁石を落下させると、きわめてゆっくり落ちるのが見られる。

 

 パイプだと電流が流れる場所は連続的で厄介なので、状況を簡単化して考えよう。それが図のポンチ絵だ。おまけになるべく計算せずに物理量の次元から考えてみる。

 

 まず、電流の流れるところは、幅 h [m] で離散化されているとする。筒の半径は r [m]。図の通り。電磁誘導の法則で落下を邪魔されて、最終的に一定の速さで落下するものとしよう。終端速度というやつだ。この終端測度 v0 [m/s]を求めてみよう。

 

 一定の速度で落下するということは、重力の位置エネルギーの減少分がどこかに行かないといけない。運動エネルギーには、いかない。速度が一定だから運動エネルギー(1/2)× mv2 も一定だ。m  は質量、v は速さ。失われたように見えるエネルギーは、電流がパイプに流れることで発生するジュール熱になるわけだ。

 

 ここまで状況を理解して、準備をしておくと、あとは登場人物である諸々の物理量の物理次元を考えていけばよろしい。

 

 まず、磁石の性質。これは磁石の磁気モーメント

 

    μ  [ Am2 ]

 

だ。単位は、電流の単位であるアンペア [A] に長さの次元、メートルを 2 回掛けたもの。それと、磁石の重さ、質量は

 

    m [ kg ]

 

だ。磁石の落下で発生する起電力 V は、ふつうは「ボルト [V] 」という単位を使うが、これは基本的な単位、m(メートル)、kg(キログラム)、s(秒)、A(アンペア)から組み立てられている。

 

    V  [V]  =  V  [kg m2 / s3 A ]

 

だ。空気中で落下させるので、空気中の透磁率と呼ばれる量も必要となる。これは、誘導された電流が作る磁束を求める際に必要となる量だ。ここでは「真空の透磁率」μ0 で代用しよう。空気中の透磁率も、真空中の透磁率も、値としてはさほど変わらない。

 

    μ0 = 4 π×10-7  [kg m / s2 A2 ]

 

 

 これだけ準備して、まずはエネルギーの収支を考える。一つの導線の輪っかで発生するジュール熱を W としよう。高さ L [m] 落下すると重力エネルギーは mgL 減少するが、その分がジュール熱になっているはずだ。速度一定なので、運動エネルギーは増えないから。h  [m] ごとに導線が1本あるわけだから、高さ(長さ)L の中には導線は

 

    L / h  [本]

 

あるので、エネルギー収支から

 

    mgL = ( L / h ) × W    (0)

 

となる。つまり W = mgh だ。

 

 一方、終端速度v 0 で磁石が動いて磁束密度を変化させ、起電力 V を発生させている。単位時間当たりに発生するジュール熱 Q  [J] は、導線の電気抵抗を R  [Ω(オーム)]として

 

    Q = V2 / R    (1)

 

で与えられる。高さ L だけ磁石が落下した時間を T [s]とすると、単位時間に Q 発生するのだから、落下した時間を掛けたものが発生したジュール熱の総量 W だ。

 

    QT = W    (2)

 

ここで、Q は R に反比例しているので、未知の関数を f として、QT = W =(1 / R )× f の形をしているだろうと推測される。ここで、 f は登場人物、磁石の磁気モーメント μ、筒の半径 r 、(真空の)透磁率 μ0、及び終端速度 v0 の関数として与えられるはずだ。

 

    QT = W= ( 1 / R ) × f ( v0, μ, r, μ0 )     (3)

 

ここから、次元を表すときには [ ・・・ ] という書き方を採用しよう。こうしておくと、(1 ) 式だったら、RQ の次元と V2 の次元が等しいという意味で

 

    [ RQ ] = [ V2 ]

 

と書いて良かろう。こうして、(3)から

 

     [ RW ] = [ RQT ] = [ RQ×T] = [ V ]2 ×[ T ] = kg2 m4 / A2 s5    (4)

 

という次元になることがわかる。V [ kg m2 / s3 A ]と 時間の単位 [s] だから。RW の次元は (3) 式から f ( v0, μ, r, μ0 ) の次元に等しくならないといけないので、関数 f の v0、μ、 r、 μ依存性がわかるはずだ。その依存性を

 

    [ v0] a [μ]b [ r ]c 0 ]d

 

とおいて、次元を比較しよう。今、夫々の次元を勘定していくと

 

    [ v0] a [μ]b [ r ]c 0 ]d  = [kg]d [m](a+2b+c+d) [A](b-2d) [s](-a-2d)

 

と、右辺のようになる。これが (4) 式の [ RW ] の次元

 

    [kg]2 [m]4 [A]-2  [s]-5

 

と一致するには、

 

    d = 2、 a + 2b + c + d = 4、  b-2d = -2、 -a-2d = -5

 

でなければならない。こうして、

 

    a = 1 ,   b = 2 ,    c = -3 ,    d = 2

 

と決まる。すなわち、「比例する」ということを ∝ という記号で表すと

 

    RW = f ∝ v0 μ2 r-3 μ02

 

が得られる。ここで、W= mgh という (0) 式から得られる関係を用いると

    Rmgh = f ∝ v0 μ2 r-3 μ02

 

すなわち

 

    v0 ∝ ( mghR r3 ) / ( μ2μ02 )           (5)

 

が得られる。正確に解けば

 

    v0 = ( 2048 π) / 5 × ( mghR r3 ) / ( μ2μ02 )    (6)

 

が得られるようなので、因子1000 (≒ ( 2048 π) / 5 ) ほど異なるが、物理量の依存性としては正しい。つまり、磁石が強ければ μ が大きいということなので、磁石の速度は小さく、ゆっくり落ちる。円筒に巻いた導線の抵抗 R が小さいと大きく電流が流れ、「レンツの法則」で落ちる磁石と反対向きの磁場を作るので、やはり磁石はゆっくり落ちる。もちろん磁石の重さが重い、すなわち質量 m が大きいと、速度 v0 は大きくなり、磁石は速く落ちる。導線を巻く間隔 h が小さい、すなわちびっしり巻くと、これまた磁石はゆっくり落ちることがわかる。

 

 連続的に巻いてしまってh = 0 とすると v0 = 0 となって磁石の落下速度はなくなってしまうが、これはやりすぎだ。磁石が動かなければ磁束の変化はなく、誘導起電力が生じないので磁石の磁場に逆らった磁場は発生しない。よって、磁石は落ちる。落ちると起電力が発生し、終端速度 h = 0 だと 0 なので、止まってしまうと誘導起電力が生じないから磁石の磁場に逆らった磁場は発生しないので、磁石は落ちるから・・・(続く)と言うことになる。

 

 今、アルミの筒は連続的に導線を巻いたのと同じではあるが、計算できていないので、先ほどの例で、

 

    h = 5 mm

 

位に考えて離散化しておこう。アルミの筒の半径 r が

 

    r = 1 cm

 

位と思うと、``筒に巻いた導線"の長さは円の円周、l = 2πr だ。``導線"を 1 mm 径くらいに考えて、導線の断面積を S = π × (1 mm)2 としておこう。アルミニウムの抵抗率 ρ は調べてみると ρ = 2.824 ×10-8  [ Ωm ] だそうだ。抵抗 R は

 

     R = ρ l / S ≒ 5.6×10-6  [Ω]

 

と計算できる。Ω(オーム)という電気抵抗の単位は、組み立てると、kg m2 / s3 A2。次にネオジウム磁石。調べてみると、この磁石は強力で、B≒ 10キロガウス位の磁場を発生させるようだ。1 ガウスは 10-4 テスラという単位に換算され、1テスラは1 N / Am、N (ニュートン)は、kg m / s2。10 キロガウスということは1 [T (テスラ) ]。単位体積当たりの磁気モーメント(磁化)に直すと、Br / μ0 。磁石の体積は、底面積 10 cm2、高さ 1 cmとして、10 cm3 = 10-5 m3くらいだから、手持ちのネオジウム磁石の磁気モーメントは μ ≒ 8 [ A m2 ]程度だ。

 

    μ ≒ Br / μ0×(磁石の体積) ≒ 1 / {4π×10-7 )×10-5 ≒ 8 [Am2]

 

手許にあるネオジウム磁石の重さは、手で持ってみると、そう、50 グラムくらいだ。

 

    m = 50 g

 

としておこう。重力加速度は g = 9.8 [m / s2 ]、真空の透磁率は μ0 = 4π×10-7 kg A2 / m。(5)式で導いた終端速度 vは (6) のように因子約 1000 が欠けていたので、それまで考慮し、長さはメートル、重さはキログラム、時間は秒、電流はアンペアというふうに単位を揃えて計算すると

 

   v0 ≒1000 × ( mghR r3 ) / ( μ2μ02 )

    =1000×(0.05・9.8・5×10-3 ・ 5.6×10-6・(1×10-2)3 ) / ((4π×10-7)2・8

    ≒ 0.135  [m/s]

 

となった。およそ秒速 14 cm。1m 進むのにおよそ 7 秒かかる。

 

 電磁誘導がなければ(*)式のように、およそ 0.5 秒 だった。この、大雑把な評価でも10 倍余りの時間がかかって、ネオジウム磁石はアルミニウム製の筒をゆっくり落ちていくことがわかる。

 

 演示実験無事終了。

 

64.ぼくの伯父さん

 中学時代の友人、T君が俳優の道に進んでいた頃(44回)、彼の影響もあって、戯曲に興味を持つようになった。といっても、テレビのシナリオである。向田邦子倉本聰山田太一といった人たちのシナリオが書籍として売られていたので、電車に乗って大きな本屋に行って買って読んでいた。「倉本聰全集」なんか、ちみちみお金を貯めて揃えていった。そうこうするうちに、シナリオと言えばシェイクスピアでしょうということで、もちろん日本語訳だが文庫本で読み始めた。大学に入ってからの語学の授業の選択は、戯曲中心にした。英語では、シェイクスピアハムレットピーター・シェーファーのブラックコメディ(暗闇の喜劇)。何だったか忘れたが、能に影響されていたイェイツの戯曲もあった。

 演劇の作劇法、ドラマツルギーにも一瞬だけ興味を持ち、異化効果なんて面白いなぁと思ったりした。なぜかドラマツルギーと映画監督のエイゼンシュテインが自分の中では繋がっているのだが、モンタージュとかの映画の手法で、なにか読んだのかもしれない。

 

 大学では映画好きの友人が複数いた。「天井桟敷の人々」は必ず見ないといけないよと言われ、京一会館という名画座で掛かっていたときに連れていかれたこともある。後にパリで暮らすことになろうとは思いも寄らなかった大学生時代、パリを舞台にした映画が長かったことだけ覚えている。別の友人には、「アンタッチャブル」で乳母車が階段をカタンかたんと落ちていくシーンが印象に残っているという話をちらりとしたら、あのシーンは「戦艦ポチョムキン」のシーンが元ネタだと教えられ、良く知っているなぁ、詳しいなぁ、と感じ入った。その時に「戦艦ポチョムキン」の監督がエイゼンシュテインであることを知る。

 

 高校時代にはT君の影響もあって戯曲に興味を持っていたが、高等学校の現代国語なんかには興味を惹かれなかった。世界史の先生は、やたらとフランス革命を詳しく教えてくれた。昔の高等学校では、選り好みできずにすべての授業科目を一通り取らないといけなかった。高校2年で、すでに物理と数学という理系科目に目覚めていたが、「倫理・社会」、通称「倫社」なる授業科目は面白かった。哲学関係では、いつも通り、ギリシャ哲学、ミレトスのタレスから始まるのだが、万物のもとは何とかである、といった議論が物理に通じていて興味がわいた。1980年代前半だったこともあり、倫社の中の哲学分野はフランス実存主義で終わった。サルトルまでである。その当時は既にレヴィ・ストロースなんかの構造主義が盛んだったとは思うが、いかんせん高校生、そんなことは知らない。

 

 今の大学の同僚である実験系の先生が、新入生向けの読書案内で、構造主義の入門書を紹介していた。贈与とか交換だとか、親族の基本構造なんかの言葉を通してなんとなく構造主義の話も聞きかじってはいたが、信頼できる先生が紹介している本だということで買って読もうと思ったら近くの本屋には無かったので、図書館で借りた。学生向け紹介パンフレットに載っているのに、なぜ大学図書館で借り出されずに残っているのか、ちょっと気になったが。読んでみると面白かったので、注文して買って、手元に置いて再び読み始めた。

 レヴィ・ストロースの「親族の基本構造」では、親・子に加えて母方のおじが基本的な役割を担うことになっている。理由はここでは説明しないが、ふと、以前見たフランス映画を思い出した。1958年の「ぼくの伯父さん (Mon Oncle)」というフランス映画だ。パリから帰ってきて、フランス語が聞きたくなって見た映画だが、おじさん好きの子供とおじさんが織りなすコメディである。おじさんは母方の叔父さんであった。レヴィ・ストロースの「親族の基本構造」は1947年刊行だそうなので、「Mon Oncle」は構造主義の影響があったのだろうか。

 

 今度会ったら、映画好きの友人に確かめてみよう。

63.物理と笑い

 朝永さん(朝永振一郎、1965年ノーベル物理学賞)の随筆「鳥獣戯画」に、複製で良いので実物大、巻物になったのがほしいと思っていたところ、長年の望みかなったという話がある。そのなかで、「鳥獣戯画」の場面の描写がある。長くなるが引用しよう。

『絵巻は猿や兎が競泳をしている谷川の情景から始まる。・・・(中略)・・・途中で一ぴきの猿がおぼれたようで、川の中の大きな岩に助け上げられ、仲間の猿がそれを介抱しているが、岩の上には兎も一ぴき立っていて、ちょっと心配そうな顔つきだ。どうやらこの兎は猿の溺れるのを見、あわてて陸からかけつけたらしく、手に柄杓などを持っている。水に溺れ、たっぷり水を飲んだ猿にまた水を飲まそうとでも思ったのか、とにかく気が転倒し、見当ちがいの柄杓などを咄嗟に持ち出したのであろう。人間でもこういうときやりそうなことである。』f:id:uchu_kenbutsu:20170505173335j:plain

 12から13世紀頃の作品で、京都の高山寺に伝わる国宝「鳥獣戯画」に溺れた猿のシーンがあり、朝永さんはその様子を描写している。

 

 出自が大阪なので、ついつい、漫才を思い出してしまう。関西の漫才師「中川家」のネタで、犬の散歩中に水難事故を見たという話がある。文字で書くと、「中川家」の面白さが伝わらないが、一部抜粋しよう。河川敷を犬を連れて散歩していたら、川でおぼれて流されている子供を見つけ、河川敷を流されている子供と一緒に声を掛けながら、走る。川の流れがうまいことなって、子供が川岸に流れ着き、助ける。

「川の流れがうまいこといってね、僕が子供をぱっと抱きかかえてね」

「びしょびしょやな」

「そんなこと言うかあほ。あたりまえやないか。つかっとんのに」

「心臓マッサージ、心臓マッサージ」

「俺がするねん。お前出てくんな!」

「心臓マッサージ」

「心臓マッサージ俺がやるねん。だーってやったら、水をピューっと出して、はぁはぁ」

「はぁはぁ」

「お前おらんやろ。はぁはぁなんか言いたそうにしてんねん。俺が言うてん。『落ち着きや、大丈夫やからな』」

「とりあえずコップ1杯の水飲みや」

「たらふく飲んどんねん。溺れてんねんから」

「すっとするから」

「すっとせえへんわ」

まだまだ続くが、ここは鳥獣戯画の兎と同じだ。柄杓がコップになっているが。

 

 学生さんが研究室の机を配置し、向かい合わせに机を並べるが、お互い顔が見えないように机と机の間に衝立を置いたことがあった。そこに画鋲やら何やらでメモを張っておけるので便利とのことだった。出自が大阪なので、冗談に、

「長い鋲を使ったら、相手の顔の真ん前に、鋲の先が出たりして。釘打ち込んだら隣の家の阿弥陀さんの首の横やったりするやろ」

と言ってみるも通じない。落語の「宿替え」の積りだったんだがなぁ。

 高校生の頃、桂枝雀の落語が面白くてラジオでよく聞いていた。彼が演じる噺の中に「宿替え」というのがあった。夫婦がある長屋に引っ越すのだが、旦那さんの方がちょっとおっちょこちょい。風呂敷に荷物を入れすぎて持ち上がらず、「一番上の竹とんぼ置いといてくれ」とか、ひと騒動ある。長屋に引っ越した後、奥さんから、箒をかける釘を打っておいてと頼まれて釘を打つが、なんだかんだと一人でしゃべりながらくぎを打っているうちに、結局打ち込んでしまう。お隣の壁から釘の先が出ていたら危ないから、お隣に行って謝ってくるように奥さんに言われるも、「横手の壁に釘を打ち込んでしまいまして、ひょっと先が出ていませんか」というと、「お隣に行きなさい。うちはあんたとこの向かいです」とかのやり取りの後、お隣に行く。どこに打ち込んだかお隣さんに聞かれるも、「いや、簡単です。日めくりの暦の掛けてあるところ」とか言う。それではわからないので、家に帰って壁を叩いてみろと言われて壁を叩くと、お隣の仏壇が揺れる。お隣さんが仏壇を開けると、祀っている阿弥陀さんの喉の真横に、にゅっと釘の先が出ていたという噺。それをみたおっちょこちょいの旦那は、

「おたく、あんなところに箒を掛けるんですか」

「うちは掛けませんよ。あれはあなたの釘ですよ」

「あら、私の釘ですか。困ったなぁ。」

「なに困ってなさんねん」

「明日から毎日ここまで箒を掛けに来なければ」

というのが、さげ。

 

 枝雀さんはしばしば「笑い」とは「緊張の緩和」だと言っていた。緊張していたときに、ふっと緩む。そこに笑いが生まれるという感じなのだろうか。

 

 寺田寅彦の随筆に「笑」というものがある。自分の経験や癖から説き起こして笑いとは、というところにまで話が進むが、笑いを分析する中で、純粋な「笑い」として子供の笑いを取り上げ、『・・・ともかくも精神並びに肉体の一時的あるいは持続的の緊張が急に弛緩する際に起るものと云っていい。そうして仔細に考えてみると緊張に次ぐ弛緩の後にその余波のような次第に消え行く弛張の交錯が伴うように思われる。しかし弛緩がきわめて徐々に来る場合はどうもそうでないようである。』とある。弛緩とあるが緩和とほぼ同じだろう。物理学者と噺家、同じようなことを言っている。

 

 物理学と笑い。縁があるのだろうか。