14.投射体の運動

 中学校は新設校であった。生徒数が巨大なマンモス校となってしまった近隣の学校から分離する形で、新しい中学校とその校区が設定された。我が家はぎりぎり新設中学校の校区となった。

 もともとの中学のほうが近かったんだけど。

 中学校まで30分の道のりを歩いて3年間通った。まぁ、冬は田んぼを対角線に横切って歩いたので28分。田んぼを正方形と仮定したとき、歩く速さを4km / 時として、田んぼの面積を求めよ[(227.6m)2 =5.2ヘクタール ]。

 

 小学6年生のときに新しい中学校が開校したので、我々は開校2年目に入学した。卒業年次で言えば、4期生になる。4期生は分離独立したとはいえ、7クラスあった。開校2年目に中1だったので、すぐ上の先輩は開校1年目からこの中学に通っていた生粋の母校生であるが、3年生はそれまで1年間通っていた中学から強制的に移らされていた。だから、体操服のデザインが違った。

 

 中1と中3は体格的に明らかに違う。自分が中1の朝礼で中3の先輩が朝礼台で挨拶していたが、大人だった。生徒会長が朝礼を仕切っていた。生徒会の任期は5月1日から10月31日までの前期と、11月1日から翌4月30日までの後期と、ちょっと変則だった。だから、新設校1期目の最初の生徒会長さんは見たこともなく知らないが、2代目は我々が入学した4月はまだ任期中、4月30日まで任期だったので、2年生から3年生の持ちあがりの生徒会長、N村先輩だった。

 入学した直後、4月中にすぐに生徒会選挙があって、5月1日から任期の第3代生徒会長は中3のT井先輩。中1の後期、11月からは1級先輩、当時中2のS田先輩が第4期を襲った。とにかく、中学草創、創生期であった。戦後30数年、とにかく選挙で物事を決めていた。

 

 先生方も新鮮だった。中学1年のときの理科の先生、多分大学出てすぐに先生になって新設校に廻されたようだったので、我々が入学した新設校開校2年目と言うことは、教師2年目、大学卒業後、1年経って2年目を迎えた若い先生だった。と思う。年の頃なら23、4。K庭先生としておこう。中1、入学した当初、K庭先生は、ご自身が好きだという映画の話を授業中によくしてくれた。授業全部を使って、45分、映画の話だった。

 

 楽しかった。

 

 ヒッチコックの「The Birds(鳥)」にはいわゆる映画音楽が使われていないとか、時にはホラー映画の話で、「シャワーからお湯出そうとしたら・・・・シャワーのノズルの穴からミミズがわーっと出てきて~~」などという恐ろしい映画を1本、45分かけて語ってくれた。

 そうかと思うと、クラスのみんなを連れて、学校そばのため池に散策に連れ出してくれた。ため池の周りを回る。1周まわると大体40分くらいでちょうど良い。理科の先生だから、池の周りに咲く花や、生えている草花の解説を、、、しない。

 ただ、ぶらぶら、クラスのみんなと歩いて時間を過ごす。

 

 楽しかった。

 

 中学3年間、理科はずっとK庭先生だった。

 

 中学2年のとき。生徒会会長選挙で、第5代の会長に、1級先輩の中3の正行先輩が当選した。テニス部のキャプテンだった。私は写真部だったので、特に関係はない。生徒会選挙よりずっと前、体育大会(体育祭)の時に突然話かけられて恐縮した覚えがある。中3と中2は、やっぱりそれほど差があった。先輩は優しそうなのに威厳があっていい感じで、テニス部のキャプテンであることは知っていて、なんとなく憧れていて、だらんとたらした左腕の、その腕の左ひじを右手で掴む姿勢をよく真似した。中2の後期に生徒会入りして、そのとき会長だった正行先輩と少しだけ帰り道が一緒だったので、嬉しかった。一緒に歩く短い帰り道で、話をしたことが幾度かある。私のことをいつも「うぬ」と呼んでいた。「うぬはまだわからんやろうけど、あと1年経つと高校受験、しんどいぞ」みたいな感じ。

 

 正行先輩とは一瞬だけすれ違った感じがする。だが、結構影響された。と思う。

 

 自分が中3になった。クラスの委員というものが当時幾つかあった。体育委員に文化委員に整備委員に・・・あと何とか。中3の前期に学級代表なるものに選ばれた。1年から3年までの体育委員が集まる委員会が体育委員会で、代表は体育委員会委員長。これは、生徒会の執行部に入ることになっていた。学級代表の集まりは、『評議会』と呼ばれていた。

 

 ちょっとかっこいい。

 革命でも起こしそうである。

 

 評議会の代表は「委員長」ではなく『議長』であった。

 革命『評議会議長』。

 なんかやるじゃん。

 

 議会の長なのに、生徒会執行部の一員になることになっていた。三権分立していない。生徒会会長・役員という行政府と、評議会という立法府が一体なのはどうかと思ったが。生徒会執行部は、生徒会長1人、生徒会役員5人(6人だったかな)、あと体育委員会委員長など5人、評議会議長1人で構成されていた。戦後35年目くらいで、まだまだ民主主義を掲げていた。今の日本国政府や一部都道府県政令指定都市の僭主制とはちと違う。

 

 そんな「評議会議長」に選ばれて、生徒会活動を中3の前期にしていた。

 

 生徒会の顧問はK澤先生男と、T村先生女。どちらも20代の若い先生。

 数学を教えているK澤先生には色々やられた。生徒会室で、文化活動発表会(文化祭)をどのように企画するか考えていたとき、

「お前、休んでるやろ。」

と、のたまう。

「一所懸命、考えてますよ!!」

と反論すると、

「下手な考え、なんとかって言うやんけ。」

こんな調子。

 

 K澤先生に数学を担当して貰ったことはないが、生徒会室での雑談で色々話を聞いた。こんなことがあった。

「ここで、水平に鉄砲撃つやろ。どーっんっていうて、向こうのほうに行くやんけ。」

「えぇ」

「そん時、打った瞬間に、おんなじとっから、おんなじ鉄砲のたま、そっと落としてみたとするやろ。」

「はい。」

「ほんなら、そっと落とした玉が地べたに着くのと、鉄砲撃って向こうのほうで鉄砲のたまが地べたに落ちるのと、どっちが速いと思う?」

「鉄砲のたまは、長い時間すんごい距離進んでから、めっちゃ向こうで落ちるんやろ。でも、ここで落とした玉は、瞬間的にすぐに地面に着くやん。そやから、ここでそっと落とした玉のほうが先に地面に着くんちゃうん。」

「お前、あほか!!そんなこともわからんのか!! 答えは同時や!!」

「うそぅ、また、先生変なこと言うてる。絶対、ここで、そっと落としたほうが先に着くわ。」

「君、わかってないな。」

「じゃぁ、なんで?」

「そんなこと、知るかぁ!!」

で、終わり。K澤先生の言うことが正しいかどうか、鉄砲を持たない身なので、実験するわけにはいかない。

 

 そこで、理科のK庭先生に聞きにいった。

「Kせん(K澤先生の渾名)、こんなことを言うてるんですけど、ほんまですか?」

すると、K庭先生は、黒板に図を書き出して説明してくれた。

「そっと手を放すやろ。そしたら、物体はこんな風に、最初はひと目盛り、次は三目盛り、って落ちていく。だんだん速くなって落ちていくのはわかる?授業でやったやろ?」

「はい。」

と、図のような絵を黒板に書いた。

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「そしたら、今度は真横に投げてみよう。横にはいつも同じ速さで進んでいくのは良いか?」

「うん」

「でも、横にはいつまでもおんなじ速さで進むけど、下にも落ちる。」

「うん。」

「下に落ちるのは、最初はひと目盛り、次は三目盛り。だんだん速く落ちていく。」

「えぇ。」

「じゃぁ、この物体は横に進むのと下に落ちるのと、あわせて考えるとこんな風にならんか?」

と言って、下図のような絵を黒板に描いた。この図はうまく再現できなかったので、

フリーハンドで汚いけど。

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 「ほら、これが放物線と言って、物体が落ちていく軌道や。」

 「はい。」

 「そしたら、ほら、ここでそっと手を放しても、横に投げても、おんなじ時間で『落ちる距離』は同じやろ。」

 「うん。。」

 「そしたら、鉄砲を水平に撃った弾が落ちるのと、そっと手を放したときに落ちるのと、落ち方は一緒やろ。」

「はい。」

「ということは、どっちも地面につく時間は?」

「おんなじ。」

「ということ。」

 

 K澤先生にはまたしても、してやられた。

 

 

 K庭先生に聞いたのは15の春か夏の頃、それから35年は経っているが、よく、「何故物理に興味を持ったのか?」と、教えている大学生に聞かれる。多分、原点は、K澤先生にからかわれたことがきっかけで、K庭先生に質問して、納得の解答を聞いたことで、理科はすごいと思ったことにあると思う。その質問とK庭先生の解答が、理科のうちでも、生物学でも地学でも化学でもない「物理学」の分野であったのだ。中3には「物理」という認識はなかったけれども、高校になって、K庭先生に解説してもらったのは理科の中でも「物理」の分野だとわかって、その後は物理学にはまっていった。ようだ。