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54.オーストラリアと寺田寅彦

 オーストラリアで国際会議(国際学会)があり、自分の研究の口頭発表ができることになったので、出かけることにした。正直、南半球に行くのは初めてなので、そちらの興味の方が強かった。9月半ばのことだ。時差は30分から1時間程度だが、季節が逆という不思議な体験をしてみたかった。

 アデレードという町で国際会議は開かれた。シドニーで飛行機を乗り継いでアデレードまで飛んだが、なんか感覚としては、四国は土佐の東洋町から安芸市くらいのつもりだった。ところが、飛行機で2時間ちょっとかかる。オーストラリア、広い。

                    

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 お昼時に南に向かって街を歩いていると、自分が歩く方向、南側に影が伸びている。自分の影を辿って南に向かうのは、新鮮な感覚だった。太陽は北にあった。太陽は東からのぼり、北側を通って西に沈む。さすが南半球。

 

 南半球に行くことは稀だろうから、奥さんと中学生の子供と出かけた。2人は先に帰るので、3日ほどだけ中学校は休ませることにした。息子は水泳をやっているので、飛行機とあわせて5日も泳がないというのも何なんで、アデレードでプールを見つけて連れて行って、一人で泳がせた。一つのレーンを往復するのだが、日本はレーンの右側を泳いですれ違うのに、オーストラリアは逆だった。息子はそのことを最初は知らずに日本式に泳いでいたが、だんだん混んできて1レーン2人で泳ぐことになった時、オーストラリアのおじさんに、泳ぐ方向が反対だと注意されていたようだった。ガラスがあるので観覧席からは全然聞こえないけれど。しかし、そのおじさん、息子の泳ぎの上手さに驚いたようで、そりゃあ、四国大会では1位か2位を取り、全国大会の標準記録を切って東京辰巳国際水泳場で泳いできたこともあるのだから上手くて速いのは当たり前なのだが、兎に角ビックリしたのだろう、息子になんか話しかけて、さっきまでは、しかめっ面で注意していたのに、笑顔まで出して話し始めていた。息子は中学1年なので英語はそうできるとも思えないが、あとで聞くと、どこから来たのかとか、Japanと答えると東京かとか聞かれたりとか、それなりに受け答えして会話していたらしい。まぁ、それだけでも来た甲斐あって、いい経験になったか。

 

 二人が帰国した後に自分の講演も済ませた。国際会議最終日に講演を聞いていると、原子核物理の医療への応用のところで、粒子線治療のブラッグピークの話が出てきた。加速された粒子を体に当てると、最初、粒子は体表面を透過するのに、あるところで急に吸収される。これをブラッグピークと言う。体の表面から癌などの患部までの深さを知っておくと、照射する粒子のエネルギーを調整してブラッグピークを幹部の深さに合わせ、患部に粒子線が吸収されるようにして治療する。この話の流れで、「ブラッグピークは、ここアデレードで1904年に発見されたのです」と講演者が話し、驚いた。さすがにそこは英語でも聞き取れた。へぇー、そうだったのね。ブラッグピークはブラッグの親の方によって、アデレードで発見されている。

 講演の後、アデレード市内をアデレード大学の方へ散歩しているときに、胸像を見つけた。ブラッグ親子の胸像だった。ブラッグ親子はX線回折を利用して結晶構造を解析する方法により、ノーベル賞を得ている。

   

               

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         ブラッグ父            ブラッグ子

 

 ところで、1913年、高知の生んだ物理学者、寺田寅彦は「On the Transmission of X-Rays through Crystals(結晶を通してのX線の透過について)」という論文を東京数学物理学会の学術誌に英文で書いている。その前に、同じ1913年だが、「X-Rays and Crystals(X線と結晶)」という論文も書いていて、Natureという海外の学術誌に掲載されている。ところが、同じ研究がブラッグ親子によって為されていた。彼らは、「結晶による短波長電磁波の回析」という題で1912年11月11日にケンブリッジ哲学協会で口頭発表しており、さらに1913年1月10日付けでProceedings of Cambridge Philosophical Societyという学術雑誌に論文が掲載された。寺田寅彦は、丁寧に、東京数学物理学会の学術誌に掲載された自分の論文の最後に、脚注として「After the paper was read, I have received the paper of Mr. W. L. Bragg entitled “The diffraction of short electromagnetic waves by a crystal”, read before the Cambridge Philosophical Society on Nov. 11, 1912, and printed on Jan. 10, 1913, and became aware that my way of reconstructing Laue's photograms and of explaining the shape of the spots on them was essentially not new.」と記した。自分より先にブラッグ親子が自分と同じことをしていたと公正に記載したのだ。「私の方法は・・・not new (新しくなかった)」。

 ブラッグ親子は1915年、第15回のノーベル物理学賞を得る。

 寺田先生は漏れた。