69.宇宙観の進展

 High Intelligence City で行われる「市民の大学」。その運営委員として、宇宙関係の講座を企画した。全15回で、その初回は開講挨拶を兼ねて自分が講師として話をすることにした。題して、「はじめに、宇宙観の展開」。我ながら、大きなタイトルをつけてしまったものよ。

 

 仕方ないので、今までの知識を総動員しながら、講座内容を作る。脇には沢山の書籍を積み上げて、ちらちら確認する。

 

・人は宇宙をどのように考えてきたか (Helge Kragh、共立出版

・人類の住む宇宙 (シリーズ現代の天文学I、日本評論社

・西洋天文学史 (Michael Hoskin、丸善出版

・東洋天文学史 (中村士、丸善出版

・宇宙像の変遷 (村上陽一郎講談社学術文庫

・天の科学史 (中山茂、講談社学術文庫

古代文明に刻まれた宇宙 (Giulio Magli、青土社

 

うーむ、ほかにもあったぞ。

 

 ここに少し記録を残しておこう。

 

 「星はすばる」と言ったのは清少納言であるが、およそ 2 万年前のフランス、ラスコーの有名な壁画には、「牡牛の間」と呼ばれるところに 6 つの点が描かれている。これが、昂、すなわちプレアデス星団を描いたものでは無かろうかと考えられている。20万年前に進化したホモ・サピエンスは、夜空を見上げてすばるを描いていたと思うと楽しくなる。

 

 さて、「宇宙」という言葉であるが、これは中国紀元前4世紀の戦国時代、尸子(しし)の書に、

 「天地四方曰宇、往古来今曰宙(天地四方を宇と言い、往古来今を宙と言う)」

とあり、宇は空間、宙は時間を指している。現在は、「宙」といえば、そらのことを指すのが一般的なようだが、もともとは時間だった。広辞苑で確認すると、

 1.無限の時間。古往今来。

 2.そら。おおぞら。虚空。また、地面から離れたところ。「―に舞う」「宇―」 

 3.そらでおぼえていること。暗記。「―で言う」

の順だ。

 

 英語では「universe」。uniは一つ、verseはvertereで回転する、または変えるという意味のラテン語が起源。「一つに変えた(した)もの」が宇宙だ。ほかに「cosmos」も使われるが、これは、美しい秩序、というギリシャ語由来。化粧品のコスメティックに言葉が残っている。

 

 次に、宇宙創成についての人類の宇宙観だ。これは各地の神話を見ればなんとなくわかる。とりあえず、4 大文明から。まずは、中国。「四書五経」に、

「宇宙の最初、天地も日月もなく暗黒の混沌たる一つの塊り、巨大な鶏卵のようなものであった。・・・やがてそのなかに生き物が一つ芽生え・・・盤古という神になった。・・・ある日凄まじい音がして卵が割れ、内部の軽く清らかな成分は雲をなし、上昇して天空となり、重く濁った成分は下に沈み固まって大地となった。・・・盤古は頭と両手で天を支え、両足で大地を踏みしめ、一日一丈ずつ1万8千年かかって成長し、天と地を分かった。」

とある。

 エジプトでは

「原初の混沌の水は神ヌン (Nun)。ヌンから神アトゥム (Atum) が生まれ、アトゥムから大気の神シュー (Shu) と雨の女神テフェネト(Tefenet)が生まれた。シューが天を大地から引きはがした。大地は神ゲブ (Geb)、天は女神ヌト (Nut) として誕生し、シューがヌトを頭上に持ち上げて天空が生まれ、ゲブは大地となった。」

 ついで、メソポタミア文明を見ておこう。バビロニアでは

「天はアヌ (Anu)、大地と地下の水はエア (Ea)、空気はエンリル (Enlil)。アヌとエアは固く結びついていたが、エンリルが大地から天界を持ち上げたことで分離した。」

 インドはよくわからん。錯綜しすぎ。

 でも、インド以外では、なぜか、ある者(神)が、天と地を分かち、宇宙ができたように読める。

 ちょっと違うのはユダヤで、旧約聖書では神が天と地を創造する。

 

 さて、宇宙創造の時間的神話の次は、宇宙の構造、空間的神話の番だ。中国には3つの説があった。蓋天(がいてん)説と渾天(こんてん)説と宣夜(せんや)説。渾天説は、天界は鶏卵の殻のように天球があり、大地は黄身にあたると考えた。宣夜説では、宇宙は無限の虚空であって、天体は自由な空間に浮かんでいると考えていた。面白いのは蓋天説で、天と地は平行であり、計算から天の高さは約 5700 km であると算出したことだ。下図のように、同じ時間に異なる場所で棒(表と呼んだ)の影の長さを測る。測定した2点間の距離が解れば天までの高さがわかるというわけだ。

 

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 次いで、エジプト。エジプトはその地形から、ナイル川で2つに分かたれた平らな大地があり、その外は大洋とした。大気がなくなる高さに空があり、空は4カ所で支えられている。大地の下にはドゥアト (Duat) という冥界があり、太陽は毎日冥界を西から東に旅し、翌朝東に現れると考えた。

 インドは、巨大亀の上に象、象の上に大地、大地の中央に高い山、須弥山(シュメール)があるとした。日月惑星はこの須弥山の周りを周る。山の南に陸が広がり、その外は海だ。高い山はヒマラヤから連想されているのだろう。ヒマラヤの南がインド亜大陸だから。

 

 神話的世界から脱するのはギリシャ文明からだろう。

 各文明には天文学が発展する。それは主に農耕からだ。

 メソポタミアでは規則的な天体運行と気候の関係に気づき、暦の作成が行われ始める。メソポタミアの暦は月の運行をもとにした太陰暦だ。

 エジプトでは、ナイル川が規則的に氾濫していた。氾濫して土地の区画を流し去るので幾何学が発展したと言われているくらいだ。紀元前 3000 年頃、すでにシリウスが夜明け直前に地平線上に現れる頃、今の6月頃だが、そのころナイル川が氾濫することに気づいてた。こうして、暦の作成に進むが、太陽信仰の強さのせいか、太陽暦が発達する。

 時代が下って、ギリシャでは、紀元前700年頃、ヘシオドスが著した「仕事と日」という書物に、牛飼い座のアルクトゥルスが日の入りとともに昇ってくる頃に葡萄の木を剪定せよ、とか、すばるが日の出とともに地平線に沈む頃、畑を耕せ、とかある。農耕暦であるが、暦の作成に導かれる。

 

 こうして、天体の運行と気候や農耕に関係があり、天体運行から予想できるので、それなら人の運命も天体運行からわかるのではないかと考え、メソポタミア占星術が生まれる。

 

 

 中国では、皇帝、すなわち天子は天帝の意思を受けて政治を行うとされていた。天の意思は「天文」現象に現れるとされ、天帝の意思を見落とさないように、天文官を設けて天体観測を行ったいた。天と天子は密接な関係があり、これを天人相与と呼び、支配者や王朝が変わった時には新たに天命を受けたとして改暦を行った。天の命が革(あらた)まる、すなわち革命だ。また、中国では、このように天帝の意思が天文現象に現れると考えられていたので、宇宙は不変であるとは考えていなかった。そのため、新星の記録も残っている。西洋ではキリスト教が支配的になってからは、神が作り給うた宇宙は不変であるとされ、新星の記録は16世紀のティコ・ブラーエの新星まで見られない。

 

 日本では、古墳時代に「星宿図」が、高松塚古墳キトラ古墳の天井に描かれている。もちろん中国の影響であろう。有名なところでは、藤原定家 (1162-1241) が明月記に超新星の記録を残していることだろう。1054 年の超新星の記録を残しており、こらが蟹星雲のパルサーとして残っているものと同定されている。1054 年は定家が生まれる前なのでもちろん自身の観測ではなく、陰陽寮漏刻博士であった安倍泰俊から聞いたことを書き記していたようだ。

 

 

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           高松塚古墳星宿図(文化庁パンフレット)

 

 さて、ギリシャに戻ろう。当時は、太陽、月と、水星、金星、火星、土星木星の五惑星が知られていた。あとは動かない恒星。これが宇宙。

 紀元前400年頃に生まれ、紀元前 347 年まで生きたエウドクソスは、地球中心の「同心球」モデルを考えていた。たとえば月だと、27.3 日周期で回転する球があり、その球ともども18.6年周期で回転する球がある。27.3 日は 1ヶ月だし、18.6 年周期の回転球で日月食を与えていた。もちろん、1 日周期で回転する同心球も与えて、日周運動も再現する。なかなか良くできている。

 時代が下り、紀元前 384 年から 322 年まで生きたアリストテレスが、その後の 2000年間の自然観を支配する考えを提出する。地球中心はもちろんで、地球は宇宙の中心で不動である。月がまわる月の天球までは、「土」「水」「空気」「火」で代表される4元素で世界はできており、これら4元素は互いに転換可能だとした。月より上の天界は第5元素である「エーテル」から成る完全無欠の世界が広がっている。天体の運動は始まりも終わりもない完全な運動、すなわち円運動と考える。従って、宇宙は「誕生しない」。空間的には有限の拡がりを持つ宇宙を考えた。無限の広がりを持つと、無限のかなたで物体は無限の速度を持たざるを得なく、存在できないと考えたようだ。

 

 これがその後支配的な宇宙観であった。

 

 そうは言ってもすでにギリシャ時代から、アリストテレス的でない宇宙を考えていた人もいる。

 

 アリスタルコス (BC.310頃-230頃)は、半月の時の地球と月、地球と太陽の角度測定から、月までの距離と太陽までの距離の比を求めた(図(A))。また、皆既月食の時に、月と太陽の半径の比を求め  (図(B))、さらに月食の時に地球と月の半径の比を求めた(図(C))。

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アリスタルコスが得た値は地球の直径を 1 として、

  ・月と地球の距離     : 9.5    (30.1)

  ・月の直径     : 0.36    (0.27)

  ・太陽と地球の距離    :180    (11728)

  ・太陽の直径    :6.8     (109.1)

となる。最後のカッコ内の数字は現在得られている値だ。実際よりは小さい数値とは言え、科学的な方法で値を算出しようとしたところは大したものだ。大気による屈折などの影響について知らなかったので小さな値が得られていることがわかっている。得られた値から、アリスタルコスは、月が自分より大きな地球の周りを周っているのであるから、地球が自分より大きな太陽の周りを周っているのではないかと考えた。太陽中心説の幕開けであった。しかしながら、アリスタルコスの貢献は忘れられてしまう。``常識"に反していたのであろう。

 

 

 さて、まだ、地球中心説である。

 紀元前 200  年頃のアポロニウスは、地球中心ではあるが地球は円の中心から少し外れたところに位置すると考えた。これを離心円と呼ぶ。こうしておくと春分から秋分秋分から春分までの日数のずれが説明できる。この離心円を用いてヒッパルコス(BC.190頃ー120頃)は、バビロニア人の残した天文観測記録を、ギリシャの惑星運動論にあてはめて、太陽の運動についてはうまく説明できることを見ている。

 

 地球中心説の集大成は、クラウディオス・プトレマイオス (AD.83頃ー168頃)による書「アルマゲスト(偉大なる統合)」に現れる。マケドニアアレクサンダー大王が大帝国を築き、おかげでギリシャペルシャ・アラビアの各文化を融合したヘレニズム文化の下、エジプトのアレキサンドリアに居たプトレマイオスが、周転円、搬送円(導円といった考えで惑星運行の体系を作り上げる。地球を中心に惑星が円運動しているが、例えば火星は、周転円と呼ばれる円上を運動しているが、その周転円の中心が、地球を中心とする円運動を)しているといったモデルである。太陽には周転円は無いが、太陽と地球を結ぶ線分上に金星と水星の周転円の中心があるようにしているので、金星などは明け方か夕暮れ、いつも太陽のそばにしか見えないことを説明する。また、惑星が周転円上を運行しているので、時々逆行して惑星が動くように見える。

 こうして、惑星の退行運動も説明してしまう。

 また、離心円の考えを用いて、地球は搬送円(導円)の中心にはなく、少しずれた位置にあるとし、ちょうど反対側の点を対心円の中心として、惑星の周転円の中心は対心円の中心から見て一定の速度で運行しているとした(図の右側)。

 こうして、惑星の速さの変化も説明してしまう。

 

アルマゲスト」は以降 1400 年にわたり、``偉大な書"であり続ける。

 

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 とはいえ、世界各地ではプトレマイオスの宇宙体系では十分に観測を表せないことがわかってきていた。例えば、アラビアではアル・バッターニ (858?-929)、インドではアルザケル (1029-1087)、モンゴルでは元帝国のイル汗(カン)が設立した天文台の長であったナースィル・ディーン・トゥースィーが 1272 年に指摘している。また、ヨーロッパでは、プトレマイオス体系があまりにも込み入っていることが問題にされていた。離心円、特に対心円が嫌われたようだ。オーストリアではプールバッハの「惑星の新理論」が 1472 年に著される。現ドイツのレギオモンタヌス (1436-1476) もプトレマイオス体系を批判する。

 

 こうした動きの中、コペルニクス (1473-1543)が、「天球の回転について」を 1543 年に出版し、太陽中心説、いわゆる地動説を展開する。すなわち、地球を含めた惑星は太陽の周りを周っているという体系である。こうすると地球より外の惑星を地球が追い越すときに、惑星の逆行(退行)運動が認められる。また、水星と金星は地球の内側にあるので、いつも太陽のそばに見えるわけだ。しかし、惑星の運行を円運動かつ一様な速さでの運動であることに固執したので、観測を十分に再現することはできなかった。そうして、周転円を復活させることになる。地球が動くことはキリスト教の教義に反するので、「天球の回転について」を出版するのはコペルニクスが亡くなる直前であったらしい。さらに、神学者のオジアンダーが、序文に、太陽中心説は観測結果を計算する便宜に過ぎない、といったことを書き足したので、世界観の転換には至らなかったようだ。

 

 真に太陽中心説に到達するには、ケプラーの登場が必要であった。

 まずは、ティコ・ブラーエ (1546-1601)。デンマーク国王からデンマーク・ウラニボリ天文台を与えられ、1576 年から 1596 年まで、20 年間観測に励んだ。もともとは占星術師で、精度良い占星術を行うには、基となる天体の精度良い運行状況の把握が必要であると考え、

観測に勤しんだようだ。しかし、観測ばかりで占いをして国王を助けないので、そのうち追放される。そこで、ルドルフ 2 世という変わり者の皇帝が治めていた神聖ローマ帝国に移り、雇ってもらう。

 神聖ローマ帝国には数学に長けたヨハネス・ケプラー (1571-1630)がおり、ティコ・ブラーエに弟子入りする。少年の家庭教師をしていたようだが、将来は有名な占星術師になりたかったようだ。

 ケプラーはティコから火星の観測データを渡され、火星の軌道を決定する問題に取り組む。円運動ではダメで、軌道の形を卵型にしてみたりしたようだが、観測を再現できない。計算と観測データが合わなかった食い違いは角度にして 8 分というから、60  分の 8度。虚心坦懐にデータを分析し、辿り着いたのが、

 (0)火星の軌道面と地球の軌道面の交点に太陽が存在する、

ということで、こうして、太陽が中心にあることを確信する。そうして、太陽を周る火星の軌道を求めると、火星は太陽の位置を一つの焦点にした楕円を描いていることを突き止める。初めて円運動の呪縛を脱した瞬間であった。

 (1)すべての惑星は太陽を焦点とする楕円軌道を描く。

次いで、

 (2)太陽と惑星を結ぶ線分が、惑星の運行とともに掃いていく面積は一定である、

ということに気づく。ここまでは 1609 年の著書に記されている。

さらに 10 年後、

 (3)惑星の公転周期は軌道の大きさ(楕円の長半径)の 2 分の 3 乗に比例する、

ことを発見する。

 太陽中心説の科学的な確定であった。

 

 ケプラーと同時代に生きたイタリアのガリレオ・ガリレイ (1564-1642) は、オランダのハンス・リッペルスハイ (1570-1619) が1608 年に発明した望遠鏡を自分で作成し、1609 年にはすでに夜空に向けていた。そこで見たものは、月の表面には凸凹があること、金星は満ち欠けすることであり、アリストテレスの言うように月から上の世界は決して完全な世界ではないと思い知る。

 また、太陽を観測すると、黒点が移動し、一旦裏に隠れてまた反対側から出てくることを認識し、太陽は自転していると考える。太陽が自転しているのであれば、地球も自転していておかしくないと考えるようになる。

 また、木星に4つの衛星があることを発見し、巨大な木星の周りを小さな衛星が4つも回っているのであるから、巨大な太陽の周りを小さな惑星が周っていることに不思議は無いと考える。

 さらに、天の川は無数の星(恒星)から出来ていることを観測し、太陽は数ある星の一つに過ぎないと考える。

 

 こうして、アリストテレスプトレマイオスの宇宙観は革新されていった。

 

 ただ、ガリレイケプラーから著作を進呈されていたそうだが、読んだ気配は無いとのことだ。

 

 ガリレオが亡くなった同じ年の暮れ、アイザック・ニュートン (1642-1727) が生まれる。当時の暦で 12 月 25 日生まれなので、本人はイエスの生まれ変わりと思っていた節がある。それは良いとして、ニュートンは 1687 年にハレー彗星発見のハレーの援助で出版した「自然哲学の数学的諸原理」、通称プリンキピアで、後のニュートン力学の基礎となるニュートンの三法則や万有引力の法則などを記す。ニュートンの三法則と万有引力の法則を用いると、ケプラーの発見した惑星運動が完全に記述できる。ただ、すべての物体間には、両者の質量の積に比例し、両者の距離の2乗に反比例する引力が働くとした万有引力の法則から、宇宙が有限であればやがて物体間の引力によって恒星は集まってきて、ついには宇宙は潰れてしまうと考えた。そこで、ニュートンが考えた宇宙は中心も端もない無限宇宙であった。もちろん、太陽は無限にある恒星のうちの一つであり、宇宙の中心にない。

 

 こうして、ニュートンの時代に至って、太陽は恒星の一つで、宇宙の中心に不動の地球があるわけではないという、現在素朴に私たちが抱いている宇宙観に到達する。しかし、まだまだ宇宙は太陽と土星までの惑星、少しの衛星と、遠くの恒星というものであった。

 

 コペルニクス太陽中心説を記した 1543 年から、ニュートンがプリンキピアで惑星運動を解いた 1687 年までのあいだ、西暦 1600 年前後のことを見ておこう。イギリスの William Shakespears、シェークスピアの Hamlet、ハムレットから、第 2 幕第 2 場、Act II, Scene II, A room in the castle で、ポローニアス(Polonius)が、王と王妃にハムレットがオフィーリアに宛てた手紙を読むシーンを見よう。

 

   Polonius (ポローニアス)

     Doubt thou the stars are fire;  (星が火であることを疑っても)

     Doubt that the sun doth move; (太陽が動くことを疑っても)

     Doubt truth to be a liar;     (真実が嘘だと疑っても)

     But never doubt I love.      (わたしの愛を疑うこと勿れ)

 

ちゃんと韻を踏んでいるところが素晴らしい。

 こう見えて、大学の教養時代の英語の授業はHamletをとり、古英語に悩まされながらもハムレットを原著で眺めたんだからね。まぁ、授業中に当てられて和訳を付けていくという授業だったので、新潮文庫が頼もしい味方ではあった。当てられて和訳を``読む"のだが、日本語と古英語の対応が付かないので読みすぎて、良く教官に

「そこまで当ててな~い!!」

と言われたものだ。新潮文庫、ありがとう。

 

 そんな回顧している場合ではない。当時の教科書を引っ張り出して解説を見てみると、ハムレット上演の最初の記録は 1602 年 7 月 26 日とある。1604 年から翌年にかけて修正され、1623 年にシェークスピアの戯曲集に収録されているということだ。

 丁度、地球中心の宇宙から太陽が中心の太陽系モデルへと変化した時代だ。引用したハムレットの 2 行目には、「太陽が動くことを疑っても」とあるので、そのころにはまだ、不動の地球、その周りを周る太陽、という宇宙観のほうが強かったのだろう。太陽が動くことを疑いだしたということは、宇宙観が揺らいでいたとも思える。

 

 太陽系の中心には太陽があり、地球は1年かけて太陽の周りを周っている、また、すっかりニュートン力学が正しい理論と認められていた18世紀半ばに話を進めよう。

 

 なぜ天の川の方向に多くの星が見えるのかについての探究で、トーマス・ライトは1750 年に星の球殻モデルを考える。星は球殻上に分布していて、球殻の方向を見ると星は沢山見えるが、球の直径方向をみると余り星が見えないと考えた。しかし観測に基づかない考えであった。

 次に、ウィリアム・ハーシェル (1738-1822) は、天空を区切って番地を割り振り、どの番地にどれくらいの明るさの星が何個あるかを勘定していった。妹さんが献身的な助手を務めたようだ。その結果、直径と高さの比が 5 対 1 くらいの円盤状に星が分布していることを突き止める。天の川銀河の発見である。また、太陽は天の川銀河、簡単に銀河系と言われるが、この銀河の中心には無いことも示す。不動の地球中心どころか、太陽も宇宙の中心には無く、私達が認識する宇宙は拡がっていった。また、ハーシェルは2500個に及ぶ星雲の研究も行い、星雲は多数の星の集団であることを明らかにする。その形状たるや、渦巻き状、楕円状などのものがあることもスケッチし、分類した。

ただ、星雲が天の川銀河内にあるのか、銀河の外にあるのかは、星までの距離の測定が

出来なかったので、ハーシェルにはわからなかった。

 

 恒星までの距離測定に挑んだのがベッセルで、図の様に、恒星が有限の距離にあるのならば、太陽系からの距離に応じて、地球が太陽を周っている際の位置、たとえば春分秋分で、恒星の見える方向が少しずれるはずだ。これを年周視差と呼ぶ。ベッセルは1838 年に白鳥座 61 番星を観測し、角度にして 0.314 秒の年周視差があることを観測する。こうして、恒星までの距離が、地球と太陽の距離を単位に初めて測定された。しかしながら、年周視差を用いる方法では、遠方の恒星に対しては視差が小さく、測定誤差に埋もれて距離測定ができない。

 

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 18 世紀末に、セファイド型変光星という星の種類が発見される。星の明るさが規則的に明るくなったり暗くなったりする変光星で、変光周期の長いものほど明るく、絶対光度と変光の周期の対数の間に比例関係があることが発見される。星の見かけの明るさは、星までの距離の2乗に反比例して暗くなるので、セファイド型変光星を見つけて変光周期を観測すれば絶対光度がわかり、それとその変光星の見かけの光度から星までの距離が推定できる。こうして、1924 年にエドウィン・ハッブル (1889-1953)は、アンドロメダ星雲中にセファイド型変光星を見つけ、その星の周期・光度関係からアンドロメダ星雲までの距離を求めた。結果は、アンドロメダ星雲は天の川銀河の外にあるというものであった。こうして、ハーシェルの謎は解明され、宇宙はさらに広がった。

 星雲は銀河系外の遠くにあり、天の川銀河と同様な星の大集団であるという、「銀河宇宙」という考えに導かれることとなった。

 

 ところで、もう一度太陽系に目を向けよう。土星まで知られていた太陽系であるが、1781 年に、あのハーシェルによって、天王星が発見される。天王星の軌道を良く観測すると、ニュートンの法則からのズレが認められた。しかし、ニュートン力学はかなり確立されていたので、ニュートン力学が間違っているのではなく、天王星の外側に、未知なる惑星があるのでは、と考えた人がいた。

 イギリスではジョン・アダムスが、1845 年に未知なる惑星の軌道と位置を計算し、グリニッジ天文台長のジョージ・エアリに探索を依頼する。

 しかし、不幸にも、エアリはそのことを忘れる。

 フランスではユルバン・ルヴェリエが、1846 年に未知なる惑星の軌道と位置を計算し、グリニッジ天文台長のジョージ・エアリに探索を依頼する。

 しかし、不幸にも、エアリはそのことを忘れる。

 ルヴェリエはドイツのヨハン・ガレにも同じことを伝え、新惑星の探索を依頼していた。ガレの探索開始1時間後には新惑星がルヴェリエの予言通り発見される。海王星の発見である。

 

 1915 年には、ローウェルが海王星の軌道がニュートン力学の予想と異なり乱れていることを発見し、海王星の外側に未知惑星Xを想定する。アメリカ合衆国のトンボ―により、1930 年に冥王星の発見に至る。こうして、太陽系の知識が拡大していく。

 

 1951 年には、ジェラルド・カイパーにより、地球と太陽の距離の 35 から 60 倍の距離の所に彗星のもとになる小天体が多数存在すると予想した。現在、エッジワース・カイパーベルトとか、太陽系外縁天体と呼ばれているものである。

 このように、太陽系に対する知識も蓄積され、太陽系と呼ばれる領域もどんどん広がってきている。

 

 最後に宇宙全体についての知識は「銀河宇宙」以降、どのように変遷してきたかを見ておこう。

 ニュートンは自身の万有引力の発見から、宇宙は中心も端もない無限宇宙であると想定した。1778 年に、ビュフォンは「自然の諸時期」という書物で、熱した鉄球の冷却時間を測定し、この結果を地球サイズに外挿して、熱い地球が冷却して現在の地球になったとして、地球の年齢を 7 万 5 千年と推定している。

 20 世紀に入って、アルバート・アインシュタイン (1879-1955)はニュートン万有引力を、時空の幾何学として再定式化した一般相対性理論を 1916 年に発表する。すぐに1917 年に宇宙の問題に適用し、引力で宇宙が潰れるのを防ぐために、ある種の斥力を表す「宇宙定数」を自身の重力場の方程式に導入し、始まりも終わりもない定常宇宙解を作った。しかし、引力と斥力のバランスで定常になっているだけで、不安定な解であることには変わりなく、1922 年には、宇宙項なしのアインシュタイン重力場の方程式をフリードマンが解き、有限の過去に膨張を開始し、膨張し続ける解、及び有限の過去に膨張を開始し、膨張が一旦停止して収縮に転じる解、を構成した。

 1929 年になると、ハッブルにより、遠方のほとんどの銀河は遠ざかっており、その速さは銀河までの距離に比例するという、ハッブルの法則を観測により発見する。ハッブルの法則の意味するところは、宇宙は膨張している、ということであった。

 膨張する現在の宇宙を過去に遡れば、ある時点で宇宙は1点から始まったという結論に導かれる。ジョージ・ガモフが 1946 年に唱えたビッグバン宇宙論である。ビッグバンと名付けたのは、ガモフを批判したホイルであるが。ガモフは、宇宙初期は高温で、それが膨張して冷えて現在の宇宙の姿になっているので、高温の宇宙の時に出た光は、宇宙の温度が下がって波長が長くなり、宇宙の至る所に存在しているだろうと予想した。宇宙背景輻射の予想である。この予想を知らずに高感度の電波受信機を設置していたペンジャスとウィルソンが、どうしても除去できない電波雑音があることに気づき、これがガモフの言う宇宙背景輻射であった。1965 年の発見である。絶対温度にして2.73 度であった。

 

 その後も宇宙の観測技術は進み、私たちの知識は増加している。宇宙背景輻射はほぼ一様ではあるが、若干の揺らぎ(ムラ)が観測される。これが銀河などの宇宙の構造の種になったことがわかっている。また、宇宙にある銀河は一様に分布しているのではなく、銀河が集まって銀河群を造り、それが集まって銀河団を作っている。宇宙を見ると銀河団があるところとはフィラメントの様に繋がっており、また銀河団の無いところも存在している。宇宙の大規模構造の発見であった。

 

 宇宙の進化では、138 億年前に宇宙が誕生し、急速に膨張するインフレーションの時代の後、ガモフの言うビッグバンが起きて現在の大きさの宇宙にまで膨張してきたことがわかってきている。また、近年、宇宙は加速度的に膨張していることも観測からわかった。

 

 宇宙の組成については、4.9 % はいわゆる物質であるが、26.8 % は正体不明の暗黒物質、68.3 %は、宇宙を膨張させている正体不明の暗黒エネルギーであると言われている。従って、宇宙の組成の4.9 %しか理解できていないということだ。

 

 講義は 90 分あったが、15 回の講座の初めだったので挨拶したり講座の概要を話したりしてから「宇宙観の進展」の話に入ったので、5000年間の私たちの宇宙観の変遷、クロマニョン人のラスコーの壁画から数えれば2万年間私たちが宇宙を見て感じ考えてきたことを 70 分程度で駆け抜けてみた。

 

 下にゴーギャンの絵画がある。左肩には次のようにフランス語が書かれている。

      D'où venons nous ? Que sommes nous ? Où allons nous ?

 (私達はどこから来たのか? 私たちは何なのか? 私たちはどこへ向かうのか?)

 

 半年間の「市民の大学」を企画し、この講義は 2017 年 10 月 3 日 18 時 30 分から20時まで行われたのであるが、予想通り、講義中の 19 時頃に、2017 年のノーベル物理学賞重力波の発見に与えられたというニュースがはいり、受講者の方たちに紹介できたことは幸いであった。

 

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