91.CP対称性の破れ

 前回、鏡のこちらと向こう側では自然法則は同じでなくなり、こちらの世界で起きる事象が、あちらの世界では禁止されることがあることを、コバルト 60 の放射性崩壊を例にして、見た。最後に指摘しておいたように、さらに、粒子・反粒子を入れ替えると、鏡のこちらでも向こうでも自然法則が同じになることも見た。

 鏡に映す操作は、空間座標をすべて反転させる操作と同じになるので、空間反転と呼ぼう。特に名前がついていて、パリティ変換という。頭文字をとって、P 変換と呼ぶことにする。粒子・反粒子を交換する操作は荷電共役変換と呼び、C 変換と呼ぶ。荷電が“チャージ”なので、頭文字の C をとって C 変換。P 変換して、続いて C 変換する操作を CP 変換といい、前回みたように自然法則が CP 変換で不変になったので、“C P対称性がある”という言い方をする。

 

 ここから少し専門的になってしまうが、後のために少し書いておこう。

 

 ミクロの世界では“量子力学的状態”というもので、状況が指定される。ある状態を

 

    | Ψ(x,y,z) >

 

としよう。空間を反転させると

 

    | Ψ(-x,-y,-z) >

 

という状態になるが、“量子力学的”に事象が起きる“確率”は状態 |Ψ> の“絶対値の 2 乗”に比例する、と言うのがミクロの世界の“掟”なので、空間反転すると

 

    | Ψ(x,y,z) > (空間反転:P変換)→ α | Ψ(-x,-y,-z) >

 

と、絶対値 1 の定数 α がつくことが許される。α は複素数で良い。もう一度空間反転して見よう。

 

    | Ψ(-x,-y,-z) > (空間反転:P変換)→ α| Ψ(x,y,z) >

 

となるはずだから、2 回空間反転して

 

    | Ψ(x,y,z) >(空間反転:P変換)→ α | Ψ(-x,-y,-z) >

         (空間反転:P変換)→ α×α | Ψ(x,y,z) >

 

となる。2 回空間反転すると元に戻るはずだ。2 回鏡に映すとこちらの世界と同じになるんだから。そうすると最後の

 

    α×α | Ψ(x,y,z) >

 

は、もともとの

 

    | Ψ(x,y,z) >

と同じでないといけない。というわけで

 

   α×α | Ψ(x,y,z) > = | Ψ(x,y,z) >

 

だから、

    α×α = 1 、つまり α = ±1

 

であることがわかる。こうして、世界の状態は 2 つに分けられた。

 

    | Ψ(x,y,z) > (空間反転:P変換)→ | Ψ(-x,-y,-z) > (α=1)

    | Ψ(x,y,z) > (空間反転:P変換)→ -| Ψ(-x,-y,-z) > (α=-1)

 

ここで出てきた α = 1 または-1、を、その状態が持つ“パリティ”と呼ぶ。

 

 さて。

 

 K 中間子という素粒子がある。その中で、電荷が 0 の K 中間子を K0 、その反粒子K0 と書くことにしよう(反粒子は、本当は上に棒線を付けるのだが、フォントがないので下に付けた)。K 中間子の状態は、空間反転で、符号を変える側、パリティマイナスである。いちいち、“(空間反転)→”と書くのも、あんまりなので、空間反転、パリティ変換を P であらわし、

 

    P| K0 > = -| K0 > 

 

と書く。続いて、粒子・反粒子を変える C 変換を施すと、

 

    C P| K0 > = -| K0 >  ・・・(1)

 

と、マイナスが付いたまま、反粒子 K0 の状態 | K0 > になる。同じように

 

    C P | K0 > = -| K0 >  ・・・(2)

 

だ。“量子力学的状態”は粒子の“波動性”から、重ね合わさる。普通の波が二つ、右と左からやって来たら、重なり合うようなものだ。そこで、

 

    | KS > =  (| K0 > -| K0 > ) / √2

    | K>  = (| K0 > +| K0 > ) / √2

 

と、元の K 中間子の状態を重ね合わせた状態を考えると、(1)、(2)式から

 

    CP | KS > = | KS >

    CP | KL > = -| KL>

 

のように、CP 変換で元の状態に戻り、かつ決まった符号を持つことが分かる。| KS > 状態は CP=プラス 1、| KL> 状態は CP=マイナス 1だ。

 

 さて、K 中間子はパイ中間子に崩壊する。電荷が 0 のパイ中間子は、空間反転するとやっぱりマイナスが付いて元に戻る。

 

    P | π0 > = -| π0 >

 

電荷が 0 のパイ中間子反粒子は、自分自身になっている。というわけで

 

    CP |π0 > = -| π0 >

 

K 中間子は、2個、または 3  個のパイ中間子に崩壊する。そのとき、自然界がCP 変換で不変であれば、崩壊前の CP の値と、崩壊後の CP の値は保存されて同じはずだ。π 中間子の CP はマイナス 1なので、2個に崩壊するときには(-1)×(-1)= + 1、3個に崩壊するときは(-1)×(-1)×(-1)= -1 という CP の値を持つ。こうして、CP が +1 の KS  状態は2個のパイ中間子に、CP が-1 の KL 状態は3個のパイ中間子に崩壊することになる。

 KS 状態は KL 状態より短い時間で2個のパイ中間子に崩壊する。KS 状態は KL 状態より寿命が短いというわけだ。ということで、十分時間を置いておけば、KS 状態は2個のパイ中間子に崩壊してしまって、もはや残っておらず、長時間後は KL ばかりになので、3個のパイ中間子にのみ崩壊する。

 

 ところが。

 

 KL 状態なのに、2個のパイ中間子に崩壊する事象が見つかってしまう。1964 年のことだ。実験で発見したクローニンとフィッチは 1980 年にノーベル賞を貰う。この発見が何を意味するかというと、自然は CP 変換の下で不変ではない、CP 対称性は“破れる”ということだ。

 

 なかなか手ごわい。

 

 どうして CP 対称性が破れるか。それを明らかにしたのが、小林誠さんと益川俊英さんの、小林・益川理論で、クォークが 6 種類あれば説明できるというものだ。1973 年のことだ。小林・益川両氏も 2008 年になってからノーベル賞を貰う。

 

 さてさて。

 

 理論的に確実なのは、さらに時間反転させてやると、必ず自然法則は不変になる、というものだ。時間反転を T 変換ということにすると、これは CPT 定理と言って、空間反転、荷電共役変換、時間反転を続けて行うと、必ず自然法則は不変になるという強力な定理。

 ということは、CP 対称性が破れているということは、必然的に T 変換、つまり時間反転対称性も破れているということだ。だって、T 変換だけ破れてなかったら、CPT と続けて変換したとき、CP の破れのみ残って、元に戻ってくれなくなるから。

 というわけで、K 中間子の CP 対称性の破れから、時間反転対称性も破れていなければならないということが言える。

 

 某大学で学生をやっていた時代、一人ずつ執筆する 4 回生の卒業論文というものは無く、8人のグループで1年間かけて一つの課題に取り組む“課題研究”という方式がとられていた。理論も実験も行って、最後に8人で纏めるというもの。私は、“時間反転対称性の破れの検証”みたいな、原子核反応を扱う課題研究を選んだ。4回生の学生実験なので、まぁ、画期的な結果は出ないだろうが、総合的にいろいろ学ぶということが大切だった。時間反転の理論を学び、実験では回路や真空技術や検出器作成や加速器などについて学んで、実際に実験を行った。自分たちで検出器を作ったり、原子核をぶつけるターゲットを作ったり。検出器は SWPC(Single Wire Proportional Chamber、単芯比例計数管)を作り、実際に作用することを確かめた。多芯(Multi Wire)にしたかったんだけれど。でも、まだ、実験の才能はかすかに残っていた。実験としては、炭素12、12C 原子核重水素原子核、d を衝突させて、炭素 13、13C 原子核と陽子、p に変える原子核反応実験を行う。時間反転した事象は、炭素 13、13C 原子核に陽子をぶつけ、炭素 12、12C 原子核重水素原子核、d を生成するということになる。

 

    12C + d  ⇔ 13C + p

 

こうして、両側からの原子核反応の割合を比較して、時間反転不変性が成り立っているか、破れているか、破れているならどれくらいかを調べようという実験であった。炭素12はありふれた元素なので、ターゲットは食品ラップを使った。サランラップはポリエチレン(炭素と水素がつながったもの)以外にいろいろ添加されていたので、原子核反応ではノイズになる。クレラップは、ポリエチレンのみで作られていたので、それを採用した。炭素 13 は自然界にそうないので実験担当の教員にねだって買ってもらった。実験の結論は、時間反転対称性は、まぁ、破れていないし、破れているとしても、これこれ以下というものだったと思う。

 何より思い出に残っているのは、本実験で、タンデム・ヴァンデグラフ加速器という加速器を動かし、実際に原子核反応を起こさせたことだ。実験データを取るために検出器の設定、ターゲットの設置、複雑な回路を組むといったことを行う。回路を組んでいるときに、あぁ、自分はやっぱり実験屋は無理だと悟った。現在はT帝国大学教授になってしまった Y 君が、複雑な回路をちゃっちゃと繋いで、モジュールを組んでいった。今でも立派な素粒子物理学実験屋さんだ。加速器のマシンタイムもそう呉れないので、一旦動かしたらできるだけデータを取りたかった。8 人のグループだが、一人欠け、二人下宿に帰り・・・で、1日徹夜で実験したが、さらに夜が明けた翌日も 1 日実験し、最後まで加速器棟で加速器を動かしてデータを取っていたのは、Y 君と私だけになった。順方向と逆方向の原子核反応のデータを検出器の角度を変えたりしながら兎に角溜めた。1晩寝ていない上に 2  晩目の深夜。さぁ、私たちの学生実験グループに割り当てられている実験の時間も終わるので、終了しなければ、という時間になった。朝、明け渡すので、そろそろ終わろうと Y 君と相談したのは、おそらく徹夜 2 日目に入った午前3時ころだったか。加速器棟には、最初に加速器から加速された原子核ビームを引き出すときの調整とか、専門的な技能を持った技官の方がいたが、そんな深夜なので当然帰宅されている。そこで、実験担当の教員のご自宅に電話した。そんな深夜なのに。で、実験終わりましたが、加速器立ち上がったままなんですが、技官の方もおられないのでどうしましょう、と相談すると、そんな深夜なので、お前ら2人で加速器止めとけ、というお達し。加速器運転のマニュアルがどこそこにあるから、その手順通りにやったら良い、との仰せ。加速器止めるなんて…。どっかで手順間違えて、加速器壊したら何億円なんだ?という当然の疑問には、加速器壊れても構わないから2人でやってみなさい、とのこと。

 

 教育だなぁ。指導教員、度胸あるなぁ。

 

 まぁ、加速器の更新が近かったからなのかもしれないが、でもまだ、加速器を動かして実験する予定はあったはずだ。

 

 で、Y 君とマニュアルを探して、加速器本体に入った。普通だったら学生は絶対入れてくれない聖域だ。放射線濃度も高いし。なんやらわんわん音が鳴っている中、マニュアルに従って、加速器を止めていく。結構な手順があった。途中、ゴムの靴がおいてあって、それに履き替えて作業することになっていた。高電圧を止めないといけない場所で、感電しても触った手から体を通って足を抜けて地球に電流が流れていって死んでしまわないための防護だった。ひぇ~っ。

 しかし、そこは将来優れた実験物理屋になる Y 君がいたので心強い。間違えずに、順々に加速器の停止に向けて作業を行い、無事にシャットダウンできた。

 放射線量計とか返して、加速器棟の電気消して、鍵かけて、バイクのY君とバイバイ。

 その後は下宿で爆睡だった。