93.授時

 第69回で、宇宙観の進展について備忘した。どうしても西洋中心の宇宙観になってしまうが、中国ももちろん古くから進んでいた。

 初期中国では、宇宙の空間的構造としては 3 つの説が唱えられていた。1 つ目は天地は平面的とした蓋天(がいてん)説。天と地は平行であり、離れた2点から太陽の高度を図り、天の高さは 80,000 中国里、多分およそ 5,700 kmと見積もっていた。後に天はお椀をかぶせた形に変更している。2 つ目は渾天(こんてん)説で、天界は鶏卵の殻の様に天球から成っていて、大地は鶏卵の黄身にあたるような宇宙の形だと考えた。3 つ目が宣夜(せんや)説で、宇宙は無限の虚空であり、天体は自由な空間に浮かんでいるとした。

 西洋の天動説に近いのは 2 番目の渾天説だ。

 

 キリスト紀元 78 年に生まれ、139 年に亡くなる中国、後漢時代の大科学者、宮廷天文官であった張衡(ちょうこう)は、渾天説に立っていたようだ。しかも、地球は宇宙に浮いた球体で、九大陸を持つと考えていた。彼は、それまでにあった天体観測用の天球儀を改良したうえで、天体観測を行って星々を記録していったようだ。それに飽き足らず、水力で動く天球儀を作り、締め切った部屋の中で水力により天球儀を回転させ、動く天球儀にあわせて、これこれの位置に今、何々の星が南中するはずだとか昇ってくるはずだとか指令を出し、部屋の外で観測している者が本当に、水力で動く天球儀の予言通りに星々が現れたりするか確認したところ、張衡の言う通りだったそうだ。

 張衡はまた、地動儀、現在言うところの地震計を発明している。青銅でできた甕の周囲に 8 匹(8頭?)の龍がついていて、それぞれの口に青銅の球を加えており、地震が来て揺れを感じると、龍の口から球が落ち、下で待ち構えている青銅製の蛙の口に入るというようになっている。地震で落ちる球は 1 つで、これにより震源の方向も分かるらしい優れものだ。後漢書に、「一つの球が落ちたが感じる揺れは無かった。ところが、数日後に都にやってきた使者が、都から(今の距離で) 640 km 離れた場所で地震があったと伝えた」とあり、実際に機能していたようだ。

 

   f:id:uchu_kenbutsu:20190422085244j:plain 

        国立科学博物館、張衡「地動儀」の復元模型

 

 張衡はまた、円周率πの値の計算も行っている。彼は、およそ3.16と与えた。後に、紀元 400 年代末、500 年より少し前に、祖沖之(そちゅうし)が、円に内接する正24,576 角形の辺の長さを計算し、それが円周の長さに近いものとして、円周率は3.1415926 と 3.1415927 の間だと結論づけている。西洋文明がこの結果を得るのは、紀元 1,600 年頃なので、この時点で 1,100 年くらい先んじていた。

 

 さて、張衡は文人でもあり、例えば 6 世紀に編纂された「文選」に彼の「帰田賦」が収められている。後漢の安帝に召されるも、安帝は宦官の専横を許して政治が乱れ、次に宦官に擁立された順帝のときに職を辞して故郷に帰るときのことを謳った賦が帰田賦だ。というわけで、「都住まいも永くなるが、世の中を良くする助けもできず、川に臨んで魚を取ることを願い、河が清く澄む時世を未だ待つ」といった感じで始まる。政(まつりごと)は乱れている。

 その文選であるが、清少納言枕草子にも「書は、文集。文選、新賦。史記、五帝本紀。願文。表。博士の申文。」とあり、「書(ふみ)は白氏文集。文選、特に新賦が良い。(以下略)」と言っているので、公家の常識だったのだろう。遡って飛鳥から奈良時代の知識人である大伴旅人も、6 世紀に編まれた文選は当然知っていただろう。万葉集の梅花歌三十二首の序を書いた大伴旅人大宰府に居てそれを編んだそうだが、何故太宰府かと言うと、当時権力を握っていた藤原四兄弟、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)に左遷されていたという説があるようだ。梅花歌が詠まれる前に、藤原四兄弟が無実の罪で長屋王を追い詰め自殺させるという長屋王の変が起きている。まつりごとは乱れていた。

 

 もう、語り尽くされていることではあるが、備忘として記しておこう。

 

 大伴旅人は、梅花歌序で「于時 初春令月 気淑風等和」と記す。「初春の麗しい月であり、気候も良く風は穏やかだ」と。これは、張衡の帰田賦の「於是仲春令月 時和気清」(これにおいて、春半ばの麗しい月、時節は和やかで、大気は澄んでいる)を踏まえているのだろう。梅花歌自体は花を愛でるような歌だが、大伴旅人は序を書くことで読者に張衡の帰田賦を想起させ、張衡が都を離れて故郷に帰らざるを得なかったと同じく、乱れた政治の世であることを意識させる装置を仕込んでおいたようだ(「「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ」品田悦一(東京大学総合文化研究科教授))。さすが、万葉集の研究家。指摘は鋭い。

 

 古代中国では、天子(皇帝)は天帝の天命を受けて「宇宙」、宇は空間、宙は時間のことであるが、これらを支配するものとされた。時間を支配する具体として、人民に暦を授けていた。暦作成のために天文官を置き、詳細な天体観測を行っていた面はある。これを観象授時と呼ぶ。支配者や王朝が変わった時には、新たに天命を受けたとして改暦を行う。天の命が革(あらた)まったときには王朝を倒す革命が起きるというわけだ。

 張衡が亡くなってから 50 年後に、後漢の少帝が殺され、統治機能を失う。さらに 30年後に、後漢は滅び、魏、呉、蜀が並ぶ三国時代に入る。