102.戦後74年

 お風呂メインで行っているスポーツ施設で、お風呂上りに、4 台あるマッサージ機のうちの 1 台でぐりぐりしていたところ、別の 2 台にご老人がお二人並んで、ぐりぐりされておられた。年齢は違っているようだが、お一人がもう一人に話しかけていた。聴くつもりもなかったが聞こえてくるので聴くともなしに聞いていた。

 

 「午前中にレッスンが有ったら、出たり出んかったり。もう 80 も超えると、いつもレッスンに出るのも大変やきねぇ。」

 「いくつになられました?」

 「82。」

 「じゃぁ、丑ですね?」

 

 干支がさっと出てくるのが、世代を感じさせる。

 

 「そう、昭和 12 年。」

 

 戦中派。終戦時、8 歳になられる。

 

 「戦争で、食うもん無くて、いっつも腹すかせてたき。」

 「そうそう。」

 

 通っていた小学校の名前から、市内中心部にお住まいされていたらしいとわかる。

 

 「あるときよ、学校上がる前やったかな、買い出しに朝倉まで行っちょったがよ。三好の親戚から、イモの乾したんとか送ってきよったがやき、たいがい、それ持って行きよったがね。けんど、買い出しっちゅうから、帰りに、たんと朝倉で買(こ)うた食いもん持て帰らんといかんき、何も持たんと行きよったがよ。」

 

 朝倉というのは市内中心部から 6 kmほど離れた、当時の農村地帯だ。そこに、44 連隊があった。また、三好は徳島の地名。

 

 「ほいたら、帰りに、腹が減って、何も食べるもん無いから、一緒に行きよったおばさんが、生のイモ、シュッシュッて拭いて、くれよったきぃ、電車で食べてたら、周りのもんに、なんやぁ、生のイモ食て、みたいに、くすくす笑われて。」

 

 High Intelligence City の住人が「電車」といえば、路面電車のこと。戦争中も路面電車は走っていたということだ。

 

 「何年生のときやったがか、大阪に空襲にでも行きよったがかなぁ、B29 が飛んできて、そいが落ちて、燃えよったがよ。」

 

 話の内容から、High Intelligence City への爆撃時では無いようだ。調べてみたら、昭和 20 年、終戦の年の 6 月 22 日、広島の呉海軍工廠(こうしょう)を爆撃した後の B29 の一機が呉攻撃時に対空砲火で被弾し、マリアナ基地への帰還中に、我が市の上空で火を噴いて、そのまま、市の神田吉野という地名の所に墜落していた。大阪空襲ではないが、おそらくその時の話だろう。

 

 だんだん、聴く耳を立ててしまう。

 

 「ほいで、父親の阿波池田に逃げたけんど、B29 が大阪かどっかへ行く通り道で、こりゃいかん云うて、母親の郷へ逃げたがよ。そんな田舎に爆弾落としよらんやろうけんど、空襲警報なるたんびに、裏山に逃げよったわ。」

 

 「竹藪がようけあって、あるとき、竹を切り出して、綺麗に枝を落としよるんよ。何しよるんやろ思てたら、先を斜めに切って、竹やりをたんと作りよるが。子供ながらに、上を B2 9が飛びよるのによぉ、竹やり何に使うんやろ、思ちょった。」

 

 竹槍で本土決戦を、といった話は聞いたことがあるが、実話なんだと、改めて思った。

 

 終戦をどこで迎えられたのかは知らない。終戦から 74 年、もし、現在のこの国が繁栄しているのであれば、それはやはり、

 

 『人々のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられ』

 

たのであろう(今上陛下)。

 『今、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたもの』なのだろうか。戦没者の多くは、自分の意志とは関係なく、戦争にかり出され、230 万人とも言われる数の軍属が命を落とした。帝国陸軍は南方での戦闘では、食料は現地調達せよと命令を出していたと聞く。兵站(へいたん)、ロジスティクスなど無視した戦争で、230 万人の半数以上は餓死と病死であるという報告もあるほどだ。軍属以外の、問わず語りしていたおんちゃんのような民間人も、80 万人が戦争で犠牲になったという。推定値なのでもっと多いかもしれない。それでも 310 万人の方が命を落とした。戦争で多くの、310 万もの犠牲者があったから、今の平和と繁栄があるのではない。平和と繁栄を築くために亡くなったのではなく、単に死ななくて良かった数のはずだ。そもそも、戦争を避けるのが為政者の務めであろう。

 

 そのうち、古老はマッサージ機での 15 分間を終え、もう一人の方に挨拶して帰って行かれた。

 

 思いがけず、貴重な話が聴けた。