23.100分の2秒と10分の3秒

 自分の子供を謙遜して言うとき、謙遜ですぅ、のときには男の子なら「愚息」と言う。出来の悪い息子ですぅのときには「豚児」なんて言い方もある。娘に関しては寡聞にして知らない。うちには息子が一人いる。誓って豚児ではない。

 

 さて。

 

 息子の父親はろくに泳げない。高校1年の時、25メートル泳げないやつらが夏休みに集められて、補講を受けさせられた。午前にずっとプールで泳ぎの練習させられて、昼は学食でオムライスを食べる高校1年の夏。おかげで平泳ぎならなんとか25メートル泳げるようになった。ついでに背泳も覚えた。運動の基本はあごを引くこと、と、スポーツといえば野球しか人気のなかった時代だったので、そう刷り込まれていた。が、背泳であごを引いたら沈んでいったのを良く覚えている。今では怖くて背泳はできない。

 

 日本は周りを海に囲まれているので日本人は泳ぎが得意だ、外国人はそうはいかない、と聞かされていた。が、研究者になってフランスのコルシカ島で2週間の研究会があったとき、真ん中の1日が遠足だったが、みんなで小さな船で地中海に出たら、西欧人はどんどん海に飛び込んで泳いでいた。私は泳ぎに自信がないので見ていたが、泳いで向こうの洞門までいったりして、西欧人も泳ぎが達者なことを痛感させられた。

 誰だ、うそを言うのは。

今では、カナヅチ、というのでもなく、ただ、脂肪で浮いている。内臓脂肪でないことを祈る。

 

 息子、もとい、愚息の幼稚園時代。幼稚園のプール遊びで、すいすい楽しんでいるのに気付いた奥さんが、息子を近くのスイミングスクールに入れた。まぁ、学校上がって泳げるようになってたら、親父のように補講とか、青春真っ只中の夏に呼び出されずに済んで良いか、なんて考えていた私。何ができたら何級で、何で何メートル泳げたら何級で、といって、級があがるとバッジが貰える。一通り貰い終わって小学3年生辺りから、日本水泳連盟、その下の県水泳連盟主催の水泳大会に出てみないかということで、ときどき出場したりするようになった。でもまぁ、予選2組とかの早い組で、決勝には当然残れないので、そう期待もせず、大会会場まで朝早くに車で送ったら、そのあと弁当届けるか、帰り時間に迎えに行くまでは親は会場には現れず、かつ居らず、泳ぎを見ることもあまりなかった。朝6時台の早い集合時間に遅れるとコーチに怒られて、体育会系怖いよねって感じ。だって、集合場所の大会会場まで車で30分もかかるのに。まぁ、なんせ、ゆるーい親。ステージパパ・ママのようには、なにも必死にならない。たまに競技を見ていて、予選の最終組でない組で泳いで上位でゴールしたら、それで喜んでいた。

 

 小学生低・中学年の頃。B・C級の大会があって出場した。ところが、B・C級(というのが、なんだか今でも良く判らないままではあるが)の最高タイムより速いタイムでゴールしてしまい、せっかく優勝したのに、タイムが早すぎて上のクラスのタイムだから参考記録なのよと言うことで、メダルを貰えなかった。あとで聞くと、メダル狙いでわざと下のクラスにエントリーする子がいるので、その対策だそうだが、そんなことは当時は知らない。がんばって優勝したのに、メダルなしの参考記録はないだろうと思って、コーチに文句言っても始まらないけど、Iコーチに「変ですよね!!」と興奮して言ったら、コーチも「おかしいと思います。抗議しています」と言って下さって、その後、記録証が発行されるようになった。このとき、一緒になって本気で怒ってくれたIコーチのこと、全面的に信頼できるようになった。

 

 リレーのエントリーにも入れてもらって、いつのまにか入賞の賞状を貰ったりするようになった。本人は3位までのメダルや、大会最優秀選手が貰えるトロフィーに目がくらんでいたが、賞状に名前が書かれているだけでも親には十分だった。

 

 スイミングスクールで選手育成コースに上がらないかという話があり、別に大会でいい線いくわけでもないが、水泳大会で先輩や同輩や後輩の仲間と弁当やらお菓子やら食べたりするのが楽しいらしく、本人がやりたいというので育成コースに上がった。なぜIコーチが上がらないかと誘ったかは謎であった。特段速くもないのに。ただ、Iコーチのクラスから離れるのが少し不安で寂しかった。

 

 しかしながら、Iコーチはほどなく選手育成コースのコーチになってくれた。一安心。そのうちIコーチから、バタフライを専門にやってみたら、と言われ、バタフライが速くなればクロールも速くなるということで、バタフライを専門にすることになった。専門の泳ぎをスタイルワンというらしい。50メートルバタフライ、小学3年生の頃のタイムは55秒台。箸にも棒にもかからなかった。どこをどうして「育成」するのか、Iコーチの考えも謎で、親にはわからないことだらけだった。なんせ25メートルひぃひぃの親父には、やはり理解不能であった。

 

 しかし、小学4年、5年と水泳連盟の水泳大会に出場するたびに、泳ぎの記録は自己ベストを更新していった。水泳連盟の大会があるたびに自己ベスト更新。なんだかなぁ。でもまだ、決勝に残ったりしないので、無名ではあった。

 

 自己ベスト更新ペースは相変わらず直線的な傾きで、5年の終わりになると50メートルバタフライ33秒台まで来た。でも、タイムとしてはまだまだ。

 

 ところが。

 

 6年生になっても、ぐんぐん記録が伸びた。夏の初め、県の小学生では、50メートルバタフライ、とうとう県のランキング1位になった。6年生の夏休み、日本水泳連盟の地方大会、〇国学童水泳大会があった。小学5年の終わりには33秒台だった無名の選手が、自己ベストの29秒82のタイムで四〇大会の覇者になった。2位は他県の選手で、29秒84。100分の2秒差での優勝だった。すぐに表彰式があり、真ん中の一番高いところで金メダルを貰った。あこがれのメダルがいきなり金色だった。

 

 地元の新聞は、「早起き野球」みたいな素人野球の試合結果は載せるのに、れっきとした日本水泳連盟の四〇大会の結果を報道しないので、ここに記しておくことにした。

 あるいは、学校は地元新聞社主催の種々のコンクール結果はお便りで知らせるのに、歴とした日本水泳連盟の〇国大会の結果を伝えないので、ここに記しておく。

 

 50メートルを29.84秒で泳いだ2位の選手は、平均秒速50 m / 29.84 s =1.6756m/s 。わが子は50m / 29.82 s =1.6767 m/s。1秒当たり1.1ミリメートルだけ速かった。秒速1.1mm/s 速かったということ。1秒当たり1.1ミリメートルって何よ。100分の2秒差ということは、距離にして1.6756 m/s ×(2/100) s =0.0335m。息子と2位の子の差は、わずか3センチ4ミリだったと計算できる。

 その話を息子にしたら、「コーチが100分の1秒はこれくらいっていつも言う」と言って人差し指の第1関節を指した。1.5cmくらい。さすが、Iコーチ、名伯楽である。なんで見抜いたんだ、Iコーチ。じゃの道はへび、という格言をいつも思い出す。

 

 翌日の100メートルバタフライは、四国で2位であった。1位は100分の2秒差で50メートルバタフライ優勝を逃した彼であった。前日100分の2秒差で苦杯をなめて、きっと燃えたんだろう。同じ目標を持つ二人、県が違っても、初めて出会った二人はすぐに友達になったようだ。いいなぁ。

 なんせ息子は去年まで無名で、すでに前から注目株の彼と大会で顔を合わせることはなかったんだから、去年までは知り合いようもない。

 

 スイミングスクール、Iコーチのクラスの仲間と出場した200メートルメドレーリレーでは、12年ぶりに県記録を塗り替えた。おめでとう。

 大会記録を出した息子達とその親達とIコーチで祝勝会をしたときに、Iコーチが、自分が選手を指導し始めた12年前のスイミングスクールの子達が目の前で県記録を塗り替えたのを良く覚えている、と仰っていた。自分もいつかは県記録を塗り替える子達を育てられたらと思った、とも仰っていた。ちょっと恩返しできたかな。

 

 50メートルプールは長水路、25メートルプールは短水路というらしい。長水路の50メートルバタフライの県の学童(小学生)記録は29秒46である。学童長水路最後の機会に、県記録に挑んだ。今度は11・12歳というカテゴリー分けだったので、中学1年生もいる。

 それでも優勝した。

タイムは、自己ベストであった。

 が、県記録には 0.3秒及ばず、29.76秒であった。中1を抑えて優勝したのに、がっくりきていた。優勝したのに悔しい、普通の人にはできない経験じゃないか。1年前は優勝どころか、6位入賞も大変だったのだから上出来である。

 

 50 mを29.76 s で泳いだので、秒速 50 m /29.76 s =1.6801 m /s 。0.3秒足りなかったということは、あと、1.6801 m / s ×0.3 s=0.50 m。50センチ足りなかった。秒速にしてあと、1.7 cm / s速ければ県記録更新であった。

 

 でも、今や県レベルではなく、日本全国レベルで50メートルバタフライ学童ランキング20位近くまできた。親馬鹿な馬鹿親は愚息を鼻高々で見ているぞ。