44.夏の終り

 子供の時分から、何かあるたびに結核を疑われた。

 小学生時代。ツベルクリン反応では要検査に廻されるもいつも何もなし。面倒なので、注射された日は家で注射された場所を手でこすって、だいたい良さそうな大きさの赤い丸を注射痕に作っていた。

 

 中学になると成長期なので体の成長に体の機能が追い付かないのかして、時々貧血状態になっていた。2年生のころ、微熱が続くので診療所に行くと、やはり結核を疑われた。検査するも何もなし。なぜか頭に中国伝来の針を刺された。その医者、その頃、中国鍼灸がマイブームだったのだろう。

 

 高校1年のとき、体育の時間でハンドボールをしていたときのこと。相手チームの仲の良い友人がシュートをしようとしたときに、誰かがその友人を引っ張った。で、彼はバランスを崩し、運悪く、放ったシュートの軌道がそれて、至近距離から私の左目に直接当たった。

 

 脳震盪。

 

 しばらくして立ち上がったが、どうも左目がもやもやして見にくい。別に痛くもかゆくもないが、視界に白黒のオーロラが架かっているようで、目の中で何かゆらゆら揺らめいている。高校から家に帰って、やっぱりおかしいので親に言って眼医者に行く。そうしたら眼底出血しているのでまずい、今日はとにかく風呂も入らず安静にしろ、ここではどうしようもないので大学病院紹介するから明日すぐに行け、そうでないと失明するぞ、と散々脅かされた。

 

 でも、痛くもかゆくもない。目を開けていても目をつぶっても、いつもオーロラが見えるだけ。

 

 失明するのも、やだから、翌朝、紹介された私立大学の大学病院に電車とバスを乗り継いで行く。その日は眼科の診察日では無いらしく、インターンに見てもらった。

 目薬を差される。といっても、目に潤いを与えるためではなく、これから目の奥を見るので、光を当てても瞳孔が閉じなくするための薬であった。効き目が出てくるまで待つこと30分。だんだん瞳孔開いてくるので、待合で本も読めなくなる。瞳孔開ききった状態でインターンに見てもらうも、左目いじりながら、

 「あっ、しまった!」

とか言いよる。何ミスってんだよ、ミスっても患者の前で声に出すなよ、と思うが、未熟そのもののインターンだから仕方がない。やつも医者になったのだろうか。

 

 数日後、正規の医師の診察の日に再び大学病院を訪れる。結果は網膜剥離眼球振盪と硝子体出血。網膜剥離して眼球に血がわっと飛び散って、それが固まって糸くずのようなものになって、それが集団になってうごめいてオーロラのような、いつも影が見えるようになっている。眼球の血を取り出すわけにもいかず、40年近くたった今も、左目の視界にはオーロラが揺れている。

 

 どうやら模範的な眼底出血だったらしく、何度か大学病院に通ううちに、ある日、眼科医である大学教授が診察するときにインターンだか学生だかを大勢引き連れてやってきて、

 

「綺麗な眼底出血だからよく見ておくように。」

 

とか何とか言って、学生たちに薬で瞳孔開ききった私の左目を順々に覗き込ませよる。なかにはスケッチしている奴もおる。なんなんだ、大学病院。

 

 眼底検査では他の病気も見つかることが多いらしい。そこで、やはり、おきまりの結核を疑われた。なんで、眼底覗き込んで結核がわかるのかは知らないが。そこで、目の治療に加えて結核検査に回されるも、やはり異常なし。もはや、馬鹿々々しく感じるレベルに達していた。

 

 結核と言えば、咳して喀血して早死に、という沖田総司石川啄木太宰治なんかの偏ったイメージしかなかったので、いつも結核かと疑われると、二十歳までには死ぬのかと思っていた。ちょっと歴史好きで、戦国時代の竹中半兵衛重治が良いなぁと思っていた頃だった。竹中半兵衛結核だった。四国松山の正岡子規結核だ。そもそも筆名の「子規」はホトトギスのことで、中国の故事では、蜀の皇帝になったある男が、帝位を譲ってから亡くなったあとホトトギスに化身したが、蜀が秦に滅ぼされ、悲しみの余りそのホトトギスは血を吐くまで鳴き、くちばしが朱くなったと言われており、それで、結核で喀血していた正岡子規が自分の筆名を「子規」とした、と聞いたことがある、のかどうだったか、後年、松山の記念館に行ったときに解説を読んだのか、したことがある。

 吐血は黒いが、喀血は朱い。

 自分も二十歳で喀血して死ぬ。

 しかし、予想は全く外れた。

 

 哺乳動物の寿命は、だいたい心臓の鼓動が 20 億回くらいで一定していると読んだことがある。「こんな計算をした人がいる。・・・寿命を心臓の鼓動時間で割ってみよう。そうすると、哺乳類ではどの動物でも、一生の間に心臓は二十億回打つという計算になる(ゾウの時間ネズミの時間、本川達雄、中公出版)。」ヒトの心拍数は1分間 60 から70 くらいだそうだ。間を取って 65 とすると、20 億回拍動するための時間は

 

  2000000000 (回) ÷(365.25 (日/年) × 24 (時間/日) × 60 (分/時間) )÷ 65 (回/分)

   = 58.50 年

 

となり、寿命は 58.5 歳となる。なんだ、合ってないじゃないか。ちょっと短い。平均寿命 80 歳とすると、27 億回くらい拍動してくれないと困る。

  2700000000 (回) ÷(365.25 (日/年) × 24 (時間/日) × 60 (分/時間) )÷ 65 (回/分)

   = 78.97 年

 

これでほぼ 79 歳の寿命だ。

 

 子供のころから人より心拍数が多かった。小学校や中学校で踏み台昇降なんかしたら、1 分間に 170 回くらいの脈拍になって驚かれていた。今でも、1 分間の脈拍は安静時に 80 回を下回らない。ということは

 

  2700000000 (回) ÷(365.25 (日/年) × 24 (時間/日) × 60 (分/時間) )÷ 80 (回/分)

   = 64.16 年

 

ちょっとやばいぞ。こんな計算せずとも、

 

    78.97:(1 / 65)= x :(1 / 80)

 

から、

 

    x = 78.97÷80×65 = 64.16

 

と、比の計算で出る。二十歳ってことは無いが短そうだ。でも。

 予想は全く外れる。

 ことにしておこう。

 それよりなにより、心臓の鼓動一定の法則があるのなら、運動せずに常に安静にしておいた方が心拍数は少なく抑えられるので長命になるはずだが、適度の運動は健康に良いというは、なんなんだかなぁ。まぁ、第0近似くらいに考えておこう。

 

 二十歳までに結核で死ぬのかと思っていた中学時代。中学 2 年のことだ。2 年のクラスは 7 組だったが、2 年 7 組の近くに 1 年生の何組かのクラスの教室があった。休み時間などに必然的に 1 年生とも出会う。

 その中に、今で言うところのイケメンの男の子が居た。カッコいいというか。中 1 だから可愛いというか。カッコ可愛いというか。何か気にかかった。

  

 1 級下の T 君。小学校は同じだったのだろうが、いかんせん、私は小学 5 年の 1 月に転校してきたので、300人近くいる同級生ですらよく知らない。ましてや、1 学年下にどんな子が居るのか知る由もなかった。中学に入って 2 年たって、初めて見かけた。

 

 中学校に入学した早々、同級生の W 君と知り合ってギターを教えて貰っていたころのことだ。W 君が貸してくれた LP レコードに入っていたオフコースの「夏の終り」をよく聞いていた。いきなりサビの A メロ(ディ)で入り、間奏置いて B メロで進行する。そのあとサビに戻るのかと思いきや、短く別の C メロが挿入されてからサビの Aメロに戻るという構成だった。C メロのところが気に入っていた。

 

 中学 3 年になった。生徒会の役員選挙が 4 月にあったが、2 年生になっていた T 君が立候補した。3 年になっていた W 君も立候補した。全校生徒による選挙で 2 人とも当選した。私は、学級代表になっていて、学級代表で組織する議会の議長に選ばれた。議会の議長も生徒会執行部入りして、生徒会役員とともに生徒会運営をすることになっていた。それで、1 級下の T 君と直接話をし、彼の声をきくようになった。

 

 すぐに仲良くなった。生徒会の集まりだけでなく、休みの日に一緒に自転車で出かけることもあった。学年が違っていたが、何だか安心して話ができた。学年は違うとはいえ生徒会室などで話をしているのに、家で電話で話をすることもあった。あの頃のこと今では、曖昧な記憶と鮮明な記憶がないまぜになっている。何を話していて盛り上がっていたのかは、もう覚えていない。

 

 一足先に中学を卒業し、1 年後、T 君も中学を卒業した。お互い、別の高校に進んだ。それでもよく電話で声をきいた。学年が違い、高校も違うのに、何をそんなに話があったのかも覚えていないが、中学卒業後も交流が続いていた。

 

 高校在学中から、T 君は劇団に所属するようになった。並行してモデルの仕事も始めた。電話でそんな話を聞いていた。そりゃぁ、カッコいいもんなぁ。量販店の広告の服のモデルをしたとか、カラオケで流れる映像に出演したとか、色々活動を聞かせてくれた。ばったり彼を何かの媒体で目にすることを楽しみにしていた。

 

 T 君が高校 3 年生になっていた頃、私は家を出て、大学 1 年であった。それでも、二人で会って話すことがあった。あるとき、T 君は大学進学をしないことにしたと言った。周りの友達が大学進学をして過ごすであろう 4 年間、劇団で演劇に賭けてみたいんだと言った。驚いたが、そんな生き方もあるのか、大変な決断だなと思った。

 

 T 君は高校を卒業し、劇団で本格的に演劇をするようになっていた。あるとき電話がかかってきて、公演があるから見に来てくれないかと言った。主役であった。帰省していた高校時代の仲の良い友人、そう、高校 1 年の時にハンドボールを左目に命中させた彼を誘って、T 君が主役の芝居を見に行った。舞台の上、T 君はそこにそのままで輝いていた。誘った友人はその劇を見て、猛烈に感激してくれていた。誘った甲斐があった。

 

 T 君が高校を卒業してから 4 年たった時には、私は大学院に進学して 1 年がたっていた。T 君はその後も役者の道を続けていたと思う。ほどなく T 君は結婚され、私は大学院で勉強や研究を続け、大学院修了とともに別の大学に職を得た。結婚した T 君は転居し、私も転居し、結婚し、海外に出て、帰国し、転居を重ね、時はさらさら流れていき、いつの間にか T 君の住所も分からなくなってしまった。T 君も同じなのだろう。年賀状のやり取りも途絶えてしまった。

 

 子供が中学に進学した。しかし、自分の中学時代はすぐこの間のように感じる。

 

  T 君との遭遇も青春の物語の断章となった。

 すでに、人生、朱夏の時代も終わりに近づきつつある。

 駆けぬけてゆく夏の終りが近い。