63.物理と笑い

 朝永さん(朝永振一郎、1965年ノーベル物理学賞)の随筆「鳥獣戯画」に、複製で良いので実物大、巻物になったのがほしいと思っていたところ、長年の望みかなったという話がある。そのなかで、「鳥獣戯画」の場面の描写がある。長くなるが引用しよう。

『絵巻は猿や兎が競泳をしている谷川の情景から始まる。・・・(中略)・・・途中で一ぴきの猿がおぼれたようで、川の中の大きな岩に助け上げられ、仲間の猿がそれを介抱しているが、岩の上には兎も一ぴき立っていて、ちょっと心配そうな顔つきだ。どうやらこの兎は猿の溺れるのを見、あわてて陸からかけつけたらしく、手に柄杓などを持っている。水に溺れ、たっぷり水を飲んだ猿にまた水を飲まそうとでも思ったのか、とにかく気が転倒し、見当ちがいの柄杓などを咄嗟に持ち出したのであろう。人間でもこういうときやりそうなことである。』f:id:uchu_kenbutsu:20170505173335j:plain

 12から13世紀頃の作品で、京都の高山寺に伝わる国宝「鳥獣戯画」に溺れた猿のシーンがあり、朝永さんはその様子を描写している。

 

 出自が大阪なので、ついつい、漫才を思い出してしまう。関西の漫才師「中川家」のネタで、犬の散歩中に水難事故を見たという話がある。文字で書くと、「中川家」の面白さが伝わらないが、一部抜粋しよう。河川敷を犬を連れて散歩していたら、川でおぼれて流されている子供を見つけ、河川敷を流されている子供と一緒に声を掛けながら、走る。川の流れがうまいことなって、子供が川岸に流れ着き、助ける。

「川の流れがうまいこといってね、僕が子供をぱっと抱きかかえてね」

「びしょびしょやな」

「そんなこと言うかあほ。あたりまえやないか。つかっとんのに」

「心臓マッサージ、心臓マッサージ」

「俺がするねん。お前出てくんな!」

「心臓マッサージ」

「心臓マッサージ俺がやるねん。だーってやったら、水をピューっと出して、はぁはぁ」

「はぁはぁ」

「お前おらんやろ。はぁはぁなんか言いたそうにしてんねん。俺が言うてん。『落ち着きや、大丈夫やからな』」

「とりあえずコップ1杯の水飲みや」

「たらふく飲んどんねん。溺れてんねんから」

「すっとするから」

「すっとせえへんわ」

まだまだ続くが、ここは鳥獣戯画の兎と同じだ。柄杓がコップになっているが。

 

 学生さんが研究室の机を配置し、向かい合わせに机を並べるが、お互い顔が見えないように机と机の間に衝立を置いたことがあった。そこに画鋲やら何やらでメモを張っておけるので便利とのことだった。出自が大阪なので、冗談に、

「長い鋲を使ったら、相手の顔の真ん前に、鋲の先が出たりして。釘打ち込んだら隣の家の阿弥陀さんの首の横やったりするやろ」

と言ってみるも通じない。落語の「宿替え」の積りだったんだがなぁ。

 高校生の頃、桂枝雀の落語が面白くてラジオでよく聞いていた。彼が演じる噺の中に「宿替え」というのがあった。夫婦がある長屋に引っ越すのだが、旦那さんの方がちょっとおっちょこちょい。風呂敷に荷物を入れすぎて持ち上がらず、「一番上の竹とんぼ置いといてくれ」とか、ひと騒動ある。長屋に引っ越した後、奥さんから、箒をかける釘を打っておいてと頼まれて釘を打つが、なんだかんだと一人でしゃべりながらくぎを打っているうちに、結局打ち込んでしまう。お隣の壁から釘の先が出ていたら危ないから、お隣に行って謝ってくるように奥さんに言われるも、「横手の壁に釘を打ち込んでしまいまして、ひょっと先が出ていませんか」というと、「お隣に行きなさい。うちはあんたとこの向かいです」とかのやり取りの後、お隣に行く。どこに打ち込んだかお隣さんに聞かれるも、「いや、簡単です。日めくりの暦の掛けてあるところ」とか言う。それではわからないので、家に帰って壁を叩いてみろと言われて壁を叩くと、お隣の仏壇が揺れる。お隣さんが仏壇を開けると、祀っている阿弥陀さんの喉の真横に、にゅっと釘の先が出ていたという噺。それをみたおっちょこちょいの旦那は、

「おたく、あんなところに箒を掛けるんですか」

「うちは掛けませんよ。あれはあなたの釘ですよ」

「あら、私の釘ですか。困ったなぁ。」

「なに困ってなさんねん」

「明日から毎日ここまで箒を掛けに来なければ」

というのが、さげ。

 

 枝雀さんはしばしば「笑い」とは「緊張の緩和」だと言っていた。緊張していたときに、ふっと緩む。そこに笑いが生まれるという感じなのだろうか。

 

 寺田寅彦の随筆に「笑」というものがある。自分の経験や癖から説き起こして笑いとは、というところにまで話が進むが、笑いを分析する中で、純粋な「笑い」として子供の笑いを取り上げ、『・・・ともかくも精神並びに肉体の一時的あるいは持続的の緊張が急に弛緩する際に起るものと云っていい。そうして仔細に考えてみると緊張に次ぐ弛緩の後にその余波のような次第に消え行く弛張の交錯が伴うように思われる。しかし弛緩がきわめて徐々に来る場合はどうもそうでないようである。』とある。弛緩とあるが緩和とほぼ同じだろう。物理学者と噺家、同じようなことを言っている。

 

 物理学と笑い。縁があるのだろうか。