105.コミュニケーション

 1998 年 7 月 8 日に日本を出て、香港経由で翌 9 日にシャルル・ド・ゴール空港に降りたった。その日から 1 年間、フランスはパリで暮らすことになった。空港には、1 年間お世話になるパリ第 6 大学、またの名をピエール・エ・マリーキュリー大学 ( Université Pierre et Marie Curie ) 大学の Dominique Vautherin(ドミニク・ボートラン)教授が迎えに来てくれた。いつもファーストネームで呼んでいたので、以下、Dominique と記させていただく。Dominique はパリ近郊、近郊鉄道の RER で 30 分ほど南に行ったところにある Orsay 研究所からパリ第 6 大学へ移ったところで、Dominique のところで研究がしたかったので、滞在先をパリ第 6 大学にして、仁科記念財団海外派遣研究員に応募したのだった。応募書類には「意見を伺える方」を記入する欄があり、Dominique を紹介してくれた M 先生や、仁科記念財団の理事を長くされていた原子核理論の大家である M 先生などにお願いして「意見を伺える方」の欄にお名前を記入したおかげで採用された。たぶん。

 奥さんと二人、Dominique の車に乗せてもらって、空港からパリ市内のアパルトマンまで送って貰った。車中から、大きなスタジアム、Stade de France が見えたころ、少し雨模様になった。奥さんが、「 il pleut 」とフランス語で話しかけたら、Dominique が「フランス語が話せるのか」と驚いていた。

 アパルトマンに着いたら家主さんとアパルトマンの管理人さんを紹介してもらい、ひとしきり話をした後、Dominique はとりあえず近所の boulangerie、パン屋さんでパンを買ってみせてくれた。明日の朝はこれで大丈夫。

 生活が始まると、奥さんがスーパーをいくつか見つけてきた。買い物袋を持った人が増えてくると、その近辺にスーパーがあるという発見をしたそうだ。パリの街では、スーパーの入口も街並みに溶け込んでいて、ちょっとわからない。そのうち、INNO(イノ)という大型のスーパーマーケットも見つけてきた。アパルトマンからは、Boulevard Raspail、ラスパイユ大通りにすぐに出て、道を渡って Cimetière du Montparnasse、モンパルナス墓地に沿う Edgar Quinet、エドガー・キネ通りを Gare de Montparnasse、モンパルナス駅に向かって歩いたところにあった。モンパルナス墓地といっても公園の雰囲気があった。

 渡仏したのは、サッカーワールドカップフランス大会が佳境を迎えるときであった。ワールドカップに日本が初めて参加した記念すべき大会であった。我々がパリに着いた頃には日本代表チームは日本に帰ってはいたが。パリのアパルトマンに落ち着いてすぐに、ワールドカップの決勝があった。決勝戦は、シャルル・ド・ゴール空港からのDominique の車から見た Stade de France で行われた。決勝はフランス対ブラジルとなり、開催国フランスの優勝で終わった。

 

 7 月 14 日は、革命記念日、Le Quatorze Juillet、巴里祭だ。Avenue des Champs-Élysées、シャンゼリゼ通りに革命パレードを見に行った。Arc de triomphe de l'Étoile、凱旋門の上を、三色旗の色を吹き出しながら複数の戦闘機がシャンゼリゼ通りの上を通り過ぎた。当時の大統領、Jacques René Chirac、ジャック・シラクもオープンカーでパレードをしていた。すぐ近くで初めて見る国家元首だ。とりあえず、写真を撮っておいた。

 翌日、パリ第 6 大学の研究室で、Dominique に「 I saw the president Jacques Chirac 」といったら、「すごいな、会ってきたのか、look ではないのか?」とにやにや笑いながら突っ込まれた。英語を間違えていて、お会いした、see ではなく、遠目に「見た」だけなので、look が正しい。

 

 お昼は 2 時少し前に研究室の面々と大学内の食堂に行くのが常だった。Dominique とBenoit Loiseau (ブノア・ロアゾウ) 先生、この人は、現象論的な核力である「パリポテンシァル」を作った一人だ。大学院時代の研究室は、核力研究では「玉垣ポテンシァル」と呼ばれるガウス型の核力ポテンシァルを作られた玉垣先生の研究室だったので、パリポテンシァルやらボンポテンシァルやら、核力の話は何となく聞きかじっていた。その、パリポテンシァルの大家と食事をほぼ毎日していた。

 核力のパリポテンシァルといえば、ポテンシァルの創始者、ミシェル・ラコンブ、Michel Lacombe 先生もパリ第6大学におられた。いつもお優しい Lacombe 先生は、お昼は自宅で食事をするために帰られるのが常だった。

 それと、Nicolas Borghini(ニコラ・ボルギニ)も昼食に一緒に行っていた。彼はまだ若く、博士号取得を目指す大学院生であった。パリ市内の交通がストで止まっていた時には、家から大学までスケートボードで来たりしていた。Nicolas は博士号を 1999 年に取ってすぐ、2006 年に上海で会った時には、すでにドイツのビールフェルト大学の正教授になっていて驚いた。ブラジルからの留学生、Pacheco(パシェコ)ともいつも食事に行っていた。彼の母国語はポルトガル語だが、ポルトガル語とフランス語は近いので、研究室の電話にも出ていた。よく、「 Ne quittez pas 」、「切らないで」という声を聴いていた。食事中は気を使ってみんな英語で話しているが、話が込み入ってくると、フランス人 3 人はフランス語になった。Pacheco はフランス語を理解できるし。英語であれば、なんとか、会話についてはいけた。「お前は仏教徒 ( Buddism ) か、神道( Shintoism ) か」とか聞かれるが、答えるのは実に難しい。「12 月 31 日は仏教の寺に行って鐘の音をきいて、翌 1 月 1 日には神道の神社に行くからなぁ」みたいなことを英語で説明したりしていた。

 数か月、ポーランドから Loiseau 先生のところに来ていた若手の Robert Kamiński(カミンスキー)ともしばらく昼食を共にしていた。日曜日に奥さんとパリ市内を散策していて、セーヌを渡る橋の上で、ばったり、カミンスキーが彼女と歩いているところに遭遇し、「やぁ」とあいさつをしたこともあった。奇遇だ。土日は良くパリの街を歩いた。アパルトマンを出てすぐに Jardin du Luxembourg、リュクサンブール公園に入り、公園内を北に向かって歩き、上院が置かれている Palais du Luxembourg、リュクサンブール宮殿を抜け、Église Saint-Sulpice、サンシュルピス教会を通り、Quartier Saint-Germain-des-Prés、サンジェルマンデプレを抜けてセーヌまで歩いて行けた。サンシュルピス教会の一画には、ドラクロワが描いた天井画があった。教会なので、誰でも無料で入れるので、よく見ていた。

 Loiseau 先生とは共同研究はしなかったが、色々気を使っていただいた。誰かの講演会があるからと、大学に近いコレージュ・ド・フランス、Collège de France に連れて行って、中に入れてくれた。Collège de France はかつて電磁気学アンペールが教授をしていたところだ。アンペールが住んでいたところは、アパルトマンから大学への通学路途上にあった。また、ノーベル賞の David Gross の講演があるからと連れて行ってもらったり、パリ天文台で研究会があるから来ないかということで、ふつうは入れない天文台の中まで連れて行ってくれたりした。

 

 Dominiqueといると、色々な人に出会えた。エコール・ポリテクニーク、École polytechnique にも連れて行ってくれた。院政時代に勉強した場の理論の教科書、ItzyksonとZuberの教科書の著者の一人、Zuber が Dominique のところに来た時には、挨拶だけした。修士 1 年の時に読み込んだ原子核物理の教科書、Ring-Schuck の著者の Schuck にも会い、アメリカブルックヘブン研究所の Larry McLerran とも知り合った。後年、McLerran 先生には、息子が生まれた後、一緒に写真を撮ってもらった。パリで知り合ったおかげだ。また、コルシカ島で研究会があったあと、ナポレオンが生まれた Ajaccio、アジャクシオの空港で McLerran 先生と会った時、向こうから「・・・」と話しかけられたが聞き取れず、「ゆっくり言って」と頼んだら、「 Where are you going ?」と言っていただけだった。アメリカ人特有の発音で、ジャパニーズスタイルの英語と違って、ほんとに母音が入ってないので聞き取れない。いつか、High Intelligence City の我が大学にいらしたインド出身のサントシュ先生と食事会で隣り合った時に色々お話しさせてもらったのだが、その際インド英語で「アメリカ人の英語が一番聞き取れない」と仰っていたが、その通りだ。ラテン系の人は何となく母音が混じる。

 

 パリ第 6 大学でも、みんながバカンスで消える時期があったが、こちらは 1 年間のバカンスみたいなものだから、気にせず研究室で仕事をしていた。食事は、たまに、売店で jambon et fromage、ハムとチーズを baggett、フランスパンにはさんだものを買って、大学からすぐ近くの教会、Cathédrale Notre-Dame de Paris、ノートルダム大聖堂の裏手の公園で食べたりもした。大学は la Seine、セーヌ川に面しており、セーヌをほんの少し西に行くとノートルダム大聖堂があった。歩いて 5 分とかからない。

 

 アパルトマンではテレビを見るが、もちろん全編フランス語だ。よく聞くフレーズなのだがうまく聞き取れず、こちらの語彙にない音のようなときには、良く、Dominiqueに聞いていた。「「ぷれざんぽくとん」とテレビでよく聞くのだが、何?」と聞くと、Dominique はしばらく考えて、「おそらく、très important、トレザンポルタン、「とても大事」だろう」という具合。

 

 パリ第 6 大学で研究の傍ら、当時、高校の物理教育プログラムを策定していたJacques Treiner(ジャック・トレイナー)と昼食に行った際に、Dominique が日本では物の数え方が特殊だという話を振った。犬は1匹だが、象は1頭と数える、とかなんとかといった話になると、Jacques は混乱していた。同じ動物なのに、どこで線引きするのだ、となるので、まぁ、大きさだと答えるも、ウサギは1羽と呼ぶと言ってさらに混乱させて楽しんだ。フランス人、ウサギを食べるから。椅子は1脚とか、魚は 1 匹とか、ペンは 1 本とか・・・色々話していると、Jacques はとうとう、「若い女の子はなんと数えるんだ?」と、落ちをつけておしまい。

 

 大学の研究室は、Basarab Nicolescu(バサラ・ニコレスク)教授と同室だった。が、彼はほかにも研究室があるらしく、ほとんどパリ第 6 大学には現れなかった。それでも、1 年いたので、しばしば顔を合わせていた。1 年がたち、日本に帰る数日前にNicolescu に研究室で会ったので、お礼のつもりで、「あなたと同じ部屋で話ができて楽しかった」とフランス語で言ったつもりなのだが、ホテルで部屋を予約するときには「部屋」を chambre というので、「あなたと同じ chambre で楽しかった」と言うと、Nicolescu を含めたその場に居合わせたフランス人は大爆笑していた。笑いながら、Nicolescu が「お前とchambreを共にした覚えはない」という。ひとしきり笑い終えると、「 chambre は寝室のことだ。言いたいことは、「同じ bureau 」だろ?」ということだった。Bureau はオフィスのことだ。

 

 学生さんによく言うのだが、流暢な英語が話せること、イコール、コミュニケーション能力ではないと思う。コミュニケーションが不調な時にどう解決するか、対応できるかがコミュニケーション能力が発揮される場だ。ポルトガルに滞在するときには、スーパーマーケットで食べ物を買うことが多いのだが、毎回、レジでは何やらポルトガル語で聞かれる。コミュニケーションできないので、わかるまで聞き返すのも有りかもしれないが、後ろに人も沢山並んでいるし。レジに並んでいる最中によく観察していると、何やら聞かれた後にカードを出しているお客さんがいるので、ははぁ、「ポイントカードを持っているか?」くらいのことしか聞いてないんだろうと当たりをつけて、聞かれたら não (ナオン)、no と言っておいたらいい。そんなに重要なことをレジで聞かれているはずはない。

 また、流暢な英語が話せることが、国際人でもない。英語はうまいが、話す中身が空っぽでは頂けない。外国に出ると日本のことをよく聞かれる。うまく説明できるだろうか。

 

 まぁ、英語が話せない者のひがみではあるが。

 

 フランスから帰国したのが、1999 年 7 月 7 日。パリ生活から、ほぼ 20 年。

 2019 年 4 月 15 日、大学の研究室からふらりと散歩でよく行ったノートルダム大聖堂が火災に見舞われ尖塔が崩落する。

 2019 年 9 月 26 日、フランス革命記念日で“見た”ジャック・シラク元大統領が亡くなる。大統領経験者はノートルダム大聖堂で葬儀が行われるところを火災のため使えず、サンシュルピス教会で葬儀が行われ、モンパルナス墓地に葬られたとのことだ。

 いろいろ思い出した。