120.空も飛べるはず
2020年4月、世界的な感染症禍に巻き込まれ、我がHigh Intelligence 大学では新入生を迎えるも、入学式はできなかった。
新入生には、これから 4 年間で大きく羽ばたいて欲しいという願いを込めて、空を飛ぶ話を備忘しておこう。
大学の講義で「ベルヌイの定理」なるものを教える。定理でも何でもないのだが、なぜか定理と言われている。流体に関する一つの法則だ。しかも、理想化される条件がいくつかついた下で成り立つ法則だ。
流体として、水を想像してみよう。ゆく川の流れは絶えずして、もとの水ではなくなるが、1 点に注視していると、その流れ方は時間がたっても何も変わらない場合がある。いつ見ても同じように流れているという状況だ。このような流れを、「定常流」という。また、流体の密度が場所にも時間にも依らず一定である状況を考える。これを「一様な流体」と呼ぼう。さらに、流れに渦がないとする。「渦なし流」と呼んでおこう。ついでに、流体のねばねば加減、粘性を無視してしまう。「定常流」「一様な流体」「渦なし流」の3つの条件の下、さらに粘性を無視すると、「ベルヌイの定理」が成り立つ。
流体の密度を ρ、流れの速度をv、流体の圧力を p、単位質量当たりの位置エネルギーを φ と書くと、単位体積当たりの流体のエネルギーは
( 1 / 2 ) ρv2 + p + ρφ ・・・(1)
と表される。第 1 項は運動エネルギー、第3項は位置エネルギーだ。第 10 回に記したように、(力)×(移動距離)=(仕事)だったが、考えている体積で割ると、体積は(距離(長さ))×(面積)だから、(仕事)/(体積)=(力)×(移動距離)/(体積)= (力)/(面積)になる。(力)/(面積)は圧力 p になるので、こうして第 2 項は、(仕事)/(体積)のことで、単位体積当たりの仕事、つまり単位体積当たりに流体が仕事をされたことにより得られるエネルギーになっている。こうして(1)は流体の持つ単位体積あたりのエネルギーだ。
「定常流」「一様な流体」「渦なし流」の 3 つの条件の下で流体の粘性を無視したとき、(1)式は時間にも場所にも依らず一定の値をとることが示せる。この事実を「ベルヌイの定理」と呼んでいる。時間によらないのはエネルギーが保存量なので分かるが、場所にも依らないことを示すには、ちょっと掛かるのでここでは省略する。かなり理想化された条件だが、まぁ、その条件が成り立つだろうというもとで、色々なことが言える。
上図右は、円柱が中心軸まわりに回転しながら、空中を左方向に進んでいる様子だ。円柱の立場に立てば、風が左から右に吹いているように見える。図で円柱の上側は、風の方向と円柱の回転方向が逆なので、空気と円柱の表面との摩擦で空気の流れは弱められる。つまり、空気の流速はやや遅くなる。一方、図で円柱の下側は、空気の流れと円柱の回転方向が同じなので、空気と円柱表面との摩擦は少なく、空気の流れは妨げられないので、流速は速いままだ。こうして、図で、下側の流速 v下 の方が、上側の流速 v上よりも大きいことになる。空気が円柱を、図で上側から押す圧力を p上、下側から押す圧力を p下 と書けば、ベルヌイの定理が成り立つとき、(1)はある一定の値になっているので、
( 1 / 2 ) ρv上2 + p上 + ρφ上 = ( 1 / 2 ) ρv下2 + p下 + ρφ下
が成り立つはずだ。位置エネルギーは重力によるものだが、上と下で一緒、あるいは極めて近い値として無視すると、
( 1 / 2 ) ρv上2 + p上 = ( 1 / 2 ) ρv下2 + p下 ・・・(2)
となる。こうして
v上 < v下
だったので、(2)から
p上 > p下
でなければ(2)が成り立たないことがわかる。したがって、図で上側の圧力の方が下側の圧力より大きいということだから、円柱は図で下側に押される。左方向へ進む円柱は、図の下側の方へ曲げられるというわけだ。
円柱をボールに置き換えて、ボールが左方向に進んでいるところを真上、つまり天空から見ている図だと思うと、ボールはカーブ回転して、進行方向に対し左方向へ曲がっていくというわけだ。
次に、さっきの上の左の図。飛行機の翼を真横から見たところだとしよう。図の下の方に地面があり、上の方は空だ。飛行機は左方向に進んでいるとする。やはり、図では左から右へ空気は流れていく。飛行機の翼は良くできていて、翼の下側を通る空気の速さ v下 は、上側を通る空気の速さ v上 より遅くなっている。今度は
v上 > v下
というわけだ。こうして、やはり(2)式が成り立つと、今度は
p上 < p下
とならねばならず、下から飛行機を持ち上げる圧力 p下 の方が、上から下へ押し付ける圧力 p上 より大きくなり、飛行機を下から上へ持ち上げる。この圧力による力が飛行機の重力より大きいと、飛行機は浮いたまま飛んでいられるというわけだ。飛行機の翼の面積を S とすると、飛行機にかかる「揚力」は、(圧力差)×(面積)だ。一方、飛行機の質量を m として、地球が飛行機を引っ張ることにより発生する重力加速度を g とすると、飛行機に mg の重力がかかる。こうして、飛行機が「飛べる」ための条件は
( p下 - p上 ) × S ≧ mg ・・・(3)
となる。
もう少し書き直そう。(2)式を使うと、
( p下 - p上 ) =〔( 1 / 2 ) ρv上2 - ( 1 / 2 ) ρv下2 〕
となるので、これを(3)式に使うと、
( 1 / 2 ) × ρ × (v上2 - v下2 ) × S ≧ mg ・・・(4)
が得られる。共通に出てきた 1 / 2 と ρ で括った。この式を見ると、「飛べる」ためには、物体の質量 m か重力加速度 g が小さい、または大気の密度 ρ が大きいか、翼の上側を流れる大気の速さと下側を流れる大気の速さの差が大きければ良さそうだ。
さて、人が両手を伸ばすと、大体身長くらいになるという。そこで、片手の長さを 70 cm と仮定しよう。進化の過程で翼が出来たとして、脇の下から 1 m くらいまで、両腕から三角形の翼が進化して出来ていたとする。両腕を広げてうつ伏せで飛ぶとすると、体躯の面積を翼の面積に足すことになる。両腕で 140 cmとしたので、体躯の幅を 30 cm として、身長 170 cm なので、体躯が見込む面積は 30 cm × 170 cmだ。こうして、翼と体躯をあわせた面積 S は
S = ( 1 / 2 )× 0.7 × 1 × 2(枚)+ 0.3 × 1.70 = 1.21 m2
となる。
翼を持つように進化した人が、空を飛ぼうとする。時速 20 km で飛べたとしよう。2時間で 40 km なので、マラソン選手並みだが、大地を蹴って走るのではなく、飛んでいるのだから空想の翼を広げよう。翼の上側は、この速さで大気が駆け抜けていく。その速さ、v上 は
v上 = 20 km / 時 = 5.5555… m / s
だ。翼の下側は、なんかうまくできていて、大気の流速を抑えられるとしよう。まったく空想なので、例えば時速 5 km 、人が早足で歩く速さ程度にまで流速を落とせたとしよう。こうして
v下 = 5 km / 時 = 1.38888… m / s
だ。地上では、大気、つまり空気があるが、空気の密度 ρair は、ちょっと調べると
ρair = 1.293 kg / m3
とあった。ただし、摂氏 0 度で 1 気圧。重力加速度 g地球 は知られているように
g地球 = 9.8 m / s2
だ。これらの値を(4)式に入れると
( 1 / 2 ) × 1.293 × (5.55552 - 1.388882 ) × 1.21 ≧ m × 9.8
よって
m ≦ 2.3 kg
となる。体重が 2.3 kg 以下というわけないので、こんな風に進化しても、人は空を飛べない。そこで、飛行機なんかを発明したのだろう。進化を待っていても間に合わない。
でも、翼人間として生まれたからには、飛びたいじゃぁないか。
そこで、どこか、条件の良いところに引っ越そう。
重力と重力加速度の関係は、第 2 回に記した。地表面付近にある質量 m の物体を地球が引っ張るときには、地球の質量を M、地球の半径を R、万有引力定数を G、重力加速度を g として
mg = G mM / R2 、よって g = G M / R2
と、物体の質量によらず g は一定値になるのだった。地球を惑星などの星に置き換えると、その星での重力加速度 g星 は、星の質量を M星 、星の半径を R星 として
g星 = G M星 / R星2
となる。こうして、飛ぶのによい条件の重力加速度が小さいためには、星の質量が小さく、半径は大きい方が良い。
まずは火星。地球より小さいので重力は弱く、重力加速度が小さい。飛ぶには良い条件だ。しかし、大気が希薄なので、大気の密度 ρ が小さく、飛ぶには悪い条件なのであきらめよう。
水星も、太陽に近すぎて大気がなく、飛べない。金星はどうだろうか。地球よりやや小さいだけなので重力加速度はまぁ同じ程度だが、なんせ、大気が厚い。大気密度がずば抜けて大きければ、飛べる可能性があるのだが、調べてみても大気密度の値に行きつかなかったので、移住断念。
あきらめるのはまだ早い。惑星がだめなら衛星を探そう。小さいながら大気が存在する、しかも濃い大気を持つ唯一の衛星、土星の衛星タイタン移住を考えよう。太陽系で2 番目に大きな衛星だ。タイタンは水と岩石からできた衛星で、メタンの海があり、メタンの雨が降る。また、メタンやアンモニアを吹き出す“火山”まである。表面温度がマイナス 180 度程度なので、“火山”ではなく、何と呼んだら良いのかわからないが。2005年に探査機カッシーニがタイタンに近づき、着陸機ホイヘンスをタイタン表面に着陸させて分かったことのようだ。タイタンの大気の質量密度は、およそ地球の 4 倍程度だそうだ。飛ぶためには良い条件だ。タイタンの質量 M は
Mタイタン = 1.3452 × 1023 kg
半径 R は
Rタイタン = 2.5749 × 106 m
だそうだ。ちなみに地球の質量と半径は、5.972 × 1024 kg、6.378 × 106 m。タイタン表面での重力加速度 gタイタン は計算できる。万有引力定数 G は G = 6.67 × 10-11 m3 / kg s2 なので、
gタイタン = G Mタイタン / Rタイタン2
= 6.67×10-11 ×1.3452 × 1023 / ( 2.5749×106 )2
= 1.35 m / s2
と得られる。地球のおよそ 7 分の 1 だ。タイタンの大気密度 ρタイタン は地球の大気密度ρ地球 ( = ρair ) の 4 倍として
ρタイタン = 4 × ρ地球
タイタンで、翼人間は飛べるか飛べないか? さっき仮定した v上 と v下 をもう一度使って、(4)式で計算してみよう。
( 1 / 2 ) × (4 × 1.293) × (5.55552 - 1.388882 ) × 1.21 ≧ m × 1.35
よって
m ≦ 67 kg
今の条件では、体重 67 kg までなら、翼人間はタイタンの上空を飛べるということだ。
ダイエットを頑張ろう。
きっと、自由に空も飛べるはず。