150.鎮魂 ~安息を(Requiem)~

 半信半疑である。

 大学院の1年先輩の京都大学基礎物理学研究所教授の訃報を受けた。2023 年 5 月 16日。誕生日前のまだ58歳。

 ウェブで検索するも、そんな記事は見つからず、フェークかと思った。

 が、報せを受けた数日後、京都新聞に訃報が掲載され、どうも本当らしかった。

 

 先輩には大学院時代から今まで、本当に色々教えてもらった。原子核素粒子の院生が集う「原子核三者若手」のセンター校に所属研究室がなっていたとき、夏に信州長野で開催する「夏の学校」のため、彼の車で 2 人で、開催前日から前乗りで長野の会場まで行ったこともあった。感染症の流行で対面の学会や研究会に行けなくなったので、最後にお会いできたのがいつかは思い出せない。いつでも会える、とどこかで思っていたのだろう。2016 年にオーストラリアのアデレードの国際会議では、当時中学 1 年生だった息子に話をしてくれた。親が言うより一流の研究者の話の方が耳に馴染んだのだと思う。

 

 今はお付き合いが無いが、知り合いだった医師が大きな病院に勤務していた時、当直は緊張するといったような話をしてくれたことがある。急患が来た時、気管挿入に失敗したら確実にこの患者は死ぬ、という緊張感はすさまじいものが有ると話してくれた。人の命に真摯に向き合っている方の言葉だ。他方、間違った診断名を付け、真の病気の発見を遅らせる。セカンドオピニオンを知るために大病院に行っても紹介状が無いからと診て貰えない。医師が間違えないことを前提とした制度設計をした国の責任はどうなんだ。命を預かる者たちは真摯に患者に向き合っていたのか。

 怒りに震えてくる。

 

 大学院生時代、共に玉垣良三先生の原子核理論研究室に所属していた。玉垣先生は私の博士論文の主査だ。玉垣先生が 1973 年から 1995 年まで率いて来られた京都大学原子核理論研究室は、もともとは京都帝国大学理学部物理学教室第 2 講座として 1921 年に玉城嘉十郎教授が担当していたものだ。玉木教授を引き継いで 1939 年に湯川秀樹が講座の担任となるが、湯川は 1943 年に第 5 講座が新設された際にそちらに移り、現在の素粒子論研究室となる。もとの第 2 講座は 1944 年から小林稔先生が担任し、1973 年に玉垣先生が引き継がれたという経緯を持っている。湯川-小林-玉垣という系譜の中に自分もいるのかもしれないと思うと身が引き締まる。玉垣先生からは色々薫陶を受けた。正確な言い回しでは無いかもしれないが、「手を動かさないと頭は動きませんよ」と仰っられたことがある。自分で紙と鉛筆で手計算をしないと、頭は働いてこない、考えも出て来ない、今でも実践している。私が High Intelligence 大学に就職する際には、大学で行わないといけない授業の相談にも乗って頂いた。就職してから何年目かに玉垣先生を集中講義でお呼びしたときには、「就職祝いを送って無かったね」と仰っられてお祝いを頂いたりもした。玉垣先生は 2015 年 1 月 11 日、82 歳でお亡くなりになられている。人に任せられない仕事の合間に慌てて駆け付けたが、お通夜が終わった直後だった。

 

 1998 年から 1999 年にフランスのパリで研究を行っていた。その時の共同研究者であるDominique Vautherin(ドミニク・ボートラン)教授は、1941 年 10 月 30 日生まれで、59 歳の誕生日の少し後、2000 年 12 月 7 日に亡くなった。今回、大学院の先輩は誕生日の少し前に亡くなり 58 歳だったが、奇しくもほぼ同じだ。1999 年 7 月に私が日本に帰ってから 2000 年に病気が発覚し、2000 年 5 月と 9 月の 2 回、パリを再訪した。9 月に会った時、「次はいつ来れるか?」と Dominique に聞かれ、正直に「 3 月には」と答えたら、「遅いな」と言われた。嘘でも年末にはまた来ると言えばよかったと、ずっと後悔している。11 月だったか、Dominique から自宅に国際電話があり、それが会話した最後となった。Dominique は Marcel Vénéroni 先生のもとで博士号を取っている。私が Dominique と知り合うずっと前の大学院生のとき、自分が書いた論文のプレプリントを、Dominique や Balian-Vénéroni という論文で有名なフランスの Roger Balian 先生などに送っていた。当時はインターネットなんてなかったので、論文を作り学術誌に投稿すると、なるべく早く世界に知らせるためにプレプリントを作って、各地の研究室に郵送していたのだった。それらのプレプリントで Dominique は私のことを早くから知ってくれていたようだ。Balian 先生からは一連の Balian-Vénéroni の論文を、自筆の手紙とともに送ってくださった。一介の大学院生に向けて、当時すでに大家であった研究者から手紙を貰って感激したことを覚えている。Dominique の体調が悪かった時、Vénéroni 先生がメールで状況を知らせて下さったこともあった。

 

 Dominique Vautherin を紹介し、かつ私をフランスに送り込もうとされたのは当時京都大学基礎物理学研究所教授の M 先生である。先輩の 2 代前の基礎物理学研究所教授である。で、M 先生の助言もあり、仁科記念財団の海外派遣研究者に申請して、1 年間、Dominique Vautherin のところ、パリに滞在して研究に専念することを目論んだ。申請に際し、丸森寿夫先生に相談した。丸森先生とは大学院時代には面識はなかったが、就職してから厚かましくも当時筑波大学におられた先生に直接お電話し、集中講義で講義して頂くようお願いしたことがあった。丸森先生の講義はいつも名講義で、多くの学生が感化されて原子核理論に進むと言われていた。Marumorize されると呼ばれていた。丸森先生は若い時分に原子核の集団運動の理論で、研究を引退間際の朝永振一郎先生と同じ内容の論文を独立して出されていることでも知られている。私は丸森先生が書かれた原子核理論の教科書を大学院生時代に読んで、原子核の集団運動論に魅せられていた。丸森先生は仁科記念財団の理事を長らくされていたので、私のような研究分野で採択があるかどうかなど、相談にのって頂いた。「必要だったらいつでも推薦書を書くよ」と言って頂き、心強い限りであった。推薦書をお願いすることは無かったが。

 で、仁科記念財団の海外派遣研究者に応募し、東京まで面接を受けに行った。英語の面接があり、その後、当時理事長をされていた西島和彦先生の面接を受けた。Nakano-Nishijima-Gell-Mann の法則で有名な方だ。素粒子物理に「ストレンジネス」という自由度を入れた方。面接と言ってもざっくばらんな話をしただけだったように記憶している。西島先生は 2009 年 2 月 15 日、82 歳で亡くなられた。丁度、東京に出ていたときに葬儀式があったので、参列した。

 

 丸森先生の有名な研究の一つに、原子核の集団運動を記述する「自己無撞着集団座標法」と言うのがある。Marumori-Maskawa-Sakata-Kuriyama の論文が中心的なものになっている。私も、研究室の別の1級上の先輩と論文を作ったときに勉強して使ったことがある。その先輩は原子核理論から物性理論に早くに研究分野を変えられたので、学会や研究会で会う機会が少なく、今回の葬儀で十何年、いやひょっとしたら何十年ぶりかでお会いできた。

 その「自己無撞着集団座標法」の論文の著者の 2 番目が、2008 年にノーベル物理学賞を取られた益川敏英先生である。益川先生は私の博士論文の副査の一人だ。益川さんは大学院の素粒子物理学の授業担当だったので、少人数で近くで講義を受けることができた。ある時の基礎物理学研究所での研究会の休憩時に、私に向かって「原子核の人は10 年も同じことをやっている。研究分野は変えていかないと」みたいなことを仰っられた。また「銅鉄主義になってはいけない」ということも仰っておられた。「銅でうまく行ったから鉄でもやってみるか」といった安直な研究だ。実際、益川さんはバリバリの素粒子論の方であるが、素粒子論の中でも研究領域を変えて来られ、丸森さんとは原子核理論の研究、そのほか物性理論の論文とか、仰っられていることを地で行っておられた。丸森さんとの論文の他に、gluon 場を入れて対称性の破れを扱った Maskawa-Nakajima の論文や、拘束系の量子論を展開している Maskawa-Nakajima の論文など、院生の頃読んでいた。益川さんは 2021 年 7 月 23 日に 81 歳で亡くなられた。

 その後、飲み会でご一緒したりして、気に掛けていただいていた丸森先生は 2012 年 8 月 11 日に 82 歳で亡くなられている。

 

 丸森先生のもとで博士号を取られた Y 先生とは、私が玉垣先生の研究室の院生時代の1990 年頃、集中講義で来られた際に知り合った。その時に研究で悩んでいた問題を Y 先生に聞いて頂いた。すぐに研究ノートが送られてきて、共同研究が始まった。以来、30 年余り、共同研究が続いている。その Y 先生の紹介で、ポルトガルの João da Providência(ジョアン・ダ・プロビデンシア)教授と知り合いになれた。João の娘さんの Constança Providêçncia(コンスタンサ・プロビデンシア)教授ともその後知り合い、今も共同研究が続いている。Constança はイギリスの David Maurice Brink 教授のもとで博士号を取っている。Dominique Vautherin は博士号を取ったのち、1972 年のVautherin-Brink の論文で世界的に有名になったようだ。その論文は 3222 回も引用されている。玉垣先生の研究室で院生をしていた修士の 2 年の頃だったか、研究室に来られた Brink 先生に、自分がその時していた研究の話を聞いて頂いたことがある。Brink 先生は、2021 年 3 月 8 日に 90 歳で亡くなられた。

 Joãoとは共同研究が 30 年近く続いた。2000 年以降は、年に一度、João のいるポルトガルコインブラ大学に行き、落ち着いて研究していた。コインブラで 1-2 週間議論をしてざっくりしているが大部のノートを作ってから帰国し、その後の 1 年間はそのノートを基に日本で理論研究を仕上げるという生活がしばらく続いていた。コインブラを訪問すると必ず食事に連れて行ってくれ、楽しい研究生活が送れた。João はイギリスの Rudolf Peierls (ルドルフ・パイエルス、1907 年 6 月 5 日―1995 年 9 月 19 日)のもとで博士号を取っている。Peierls は核分裂が発見された直後、イギリス政府に働きかけて原爆を検討する「モード委員会」を立ち上げた人だ。その後、アメリカのマンハッタン計画と合流することになる。Peierls の自伝「渡り鳥」(Bird of Passage ) にも João が登場する。Peierls は Wolfgang Pauli(ヴォルフガング・パウリ、1900 年 4 月 25 日―1958 年 12 月 15 日)の最初の助手だ。Pauli-Peierls-Providência の流れに居るのかもしれないと思うと光栄だ。João da Providência は 2021 年 11 月 9 日に 88 歳で亡くなった。Constança から翌 10 日、日本時間 17 時 30 分にメールを貰った。

 

 優しくて、これまで優れた研究をされてきた亡くなられた先輩の、これから彼が示す指針や彼の研究成果が見られなくなろうとは。若くして彼を奪うとは、まさに、神も仏も無い。慈悲深く、万能の神や仏がいるなら、私たちに直接、その慈悲を及ぼしてくれたに違いない。

 ・・・sûrement Dieu n'existait pas, puisque, dans le cas contraire, les curés seraient inutiles.

(確かに神は存在しない、なぜなら、そうでない場合、司祭は不必要だろうから)【Albert CAMUS「La Peste」(カミュ「ペスト」)】