High intelligence city での「市民の大学」の運営委員会。無事に進行し、終了後は年に一度の懇親会。80歳前後の大先輩のお二人の近くに座って話をする。私が50歳過ぎということで、
「なんだ、まだ子供かぁ。」
「まだ、しょんべん垂れやないか。」
と言われながら、楽しい夕べ。
話は色々動き、現在の政権の話になる。そこから、太平洋戦争の話。お二方とも戦中派だ。
お一人の先生は、High intelligence city のご出身で、子供の時の空襲の話を聞かせてもらった。潮江という地区にお住まいで、潮江地区は名前のとおり海に近いが、海に向かって小高い山があり、お住まいは山際だったとのこと。
そこへ、ある日の早朝、おそらくまだ深夜だろうが、米軍の戦闘機、B29が飛来してきた。お住まいは山際で、飛行機にとっては危険なのでご自宅付近に爆弾は落とさなかったが、海側から入ってきたB29は、「桟橋通り」と呼ばれる、路面電車の走る大通りに沿って焼夷弾を次々落としていったそうだ。暗い空が真っ赤になったのを覚えていると仰られた。昭和20年3月7日に桟橋通りに爆弾を落とされているが、おそらくお話は7月4日の大空襲のことだと思う。50から80機のB29戦闘機が南の海側からやってきて、市街地を焼き尽くした大空襲だ。ご自宅は山際で幸い無事だったそうだが、戦争が終わった時にはご両親は既に無く、戦争孤児になる。戦後は食べるために「はりまや橋」で靴磨きをしたり、しばらく後には新聞配達をしたりご苦労されたようだ。余り仰らないが。
う~む、もっと聞きたい。
もうお一方の先生は83歳で、広島のご出身。ご自宅は広島市内だが、8月6日には市街から100km ほど離れたところに疎開していたそうだ。8月6日の朝は8時から学校に居ると、暫くして広島市街の方がピカッと光ったのを見られたそうだ。言わずと知れた新型爆弾、8時15分投下の原爆である。当時は何かわからなかったそうだが。後に自宅に戻ると、爆風で近くのガラスが破片となって飛んできて、ご自宅の壁に突き刺さっていたそうだ。ご自宅と爆心地は2kmほどの距離だったそうだが、間に山があって直接爆風は来ないはずだが、それでも強烈な爆風は山を巻いて、割れたガラス片をご自宅の壁に突き刺した。ご自宅を解体するとき、ガラス片の刺さった壁は原爆資料館が請うて引き取ったそうで、現在、原爆資料館に展示されている。
いい加減な(良い加減ではない)政治の時代だ。戦中派の話を聞いておく必要を感じる。