73. 日本の暦学・天文学

 High intelligence city での「市民の大学」の第82期、「宙(そら)を見あげて」の15回の講座が終了した。講座を企画して講師を依頼した運営委員として、感慨無量である。最終回の15回目には、私を除いて講師を務めて頂いた方12名のうちの2名を招いた。最初20分ほど私が講座の振り返りとまとめを行い、その後、講師の方に補足をして頂いた。それから先は、せっかく2名の講師が来ているので質問タイムにする。

 質問のための時間を割と確保していたので、万が一、質問が出ないで時間が余ったらいけないと思い、「宇宙観の変遷」といった感じの初回の私の導入の話の補足として、スライドを用意していった。宇宙観の話はどうしても西洋中心になるので(第69回参照)、日本の天文学、主に暦学ではあるが、それを予備として準備しておいた。

 質問はいい感じで多く出されて、講師の方が答えてくれたので、結局、質問を打ち切る形になって、私の「時間が余ったらどうしよう」の心配は杞憂に終った。

 

 でも、まぁ、せっかく準備していたので、どんな話をする予定であったか、記録しておこうと思う。

 

 第69回にも記したことだが、再度確認しておこう。

 『中国では、皇帝、すなわち天子は天帝の意思を受けて政治を行うとされていた。天の意思は「天文」現象に現れるとされ、天帝の意思を見落とさないように、天文官を設けて天体観測を行っていた。天と天子は密接な関係があり、これを天人相与と呼び、支配者や王朝が変わった時には新たに天命を受けたとして改暦を行った。天の命が革(あらた)まる、すなわち革命だ。また、中国では、このように天帝の意思が天文現象に現れると考えられていたので、宇宙は不変であるとは考えていなかった。』(第69回より抜粋)

 中国では、天使は天命を受けて「時(宙)空(宇)」を支配するとされていた。こうして、天の運行を精確に観測し、それに基づき人民に「暦」を授けなければならない。これは観象授時と呼ばれる。

 紀元前4世紀には石申なる人物が「石氏星経」と呼ばれる星座表を作っていた。二十八宿、他に86星座が記されているという。

 日本では、古墳時代に「星宿図」が、高松塚古墳キトラ古墳の天井に描かれた。これらを、例えば中国、舞踊塚古墳の天井星宿図に比べれば、かなり精緻に描かれていることがわかる。舞踊塚古墳は5世紀頃なので、高松塚とそう大差ない時代だ。高松塚古墳などの星宿図はかなり精緻なので、進んだ天文の知識が必要のはずで、当時、日本独自ではありえないので、渡来人の指導・影響だろう。

 

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          高松塚古墳星宿図(文化庁パンフレット)

 

 飛鳥時代から、日本ではどうなっていただろう。まず、533年(欽明天皇14年)、百済暦博士を求めた。これに応じて、534年、百済から固徳王保孫(ことくおうほそん)がやってくる。また、602年には、百済の僧、勧勒(かんろく)が渡来。671年(天智天皇10年)、漏刻(水時計)が作成され、675年(天武天皇4年)には占星台が置かれ、天文観測が為され始める。天の異変を監視する役割をしたのだろう。

 暦に関しては、もちろん中国から輸入された中国暦を用い始めた。ひと月29または30日で、19年に7回閏月を置く太陰太陽暦である。700年頃の持統天皇の時代になると、日月食の予報を日本人が行うようになったようだ。朝廷の天文官は代々、土御門家、後の安倍家が担う。

 

 平安・鎌倉時代まで話を飛ばそう。

 小倉百人一首の選者、新古今和歌集の選者というべきか、藤原定家(1162-1241)は、自身の日記、明月記にいくつかの新星の記録を残している。特に、「後冷泉院、天喜二年」、1054年超新星の記録を残しており、現在、この超新星爆発の痕跡が、蟹星雲として残っている。かに星雲の中心には中性子星がある。ヴェラ・パルサーだ。1054年は定家が生まれる前なので、陰陽寮漏刻博士であった安倍泰俊から聞いたことを書き記していたようだ。

 その、安倍泰俊の養父は安倍泰忠という人であるが、この泰忠の4代あとに、安倍泰世という人物がいる。彼は「格子月進図」と呼ばれる、紙に書かれた日本最古の星図を描いている。星座の間を月が進む図であるが、現物は戦争で焼けてしまったそうだ。

 

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              格子月進図(国立天文台

 

 どんどん飛ばして、戦国時代末期から江戸時代へ。1543年、ポルトガル人が初めて種子島に来航し、鉄砲を伝えた。「以後(15)予算(43)で作ります」と覚えたものだ。1543年は、丁度コペルニクスが「天球の回転について」を出版し、天動説から地動説への転換が図られ始めた年だ。その後、日本へは、宣教師が西洋天文学と宇宙観を伝えはじめる。しかし、例えば、朱子学者で徳川家康に仕えた林羅山のような当時の学者は、「天は円、地は方形、地下に天があるはずがない」として、地球が球であることを受け入れなかったようだ。

 1618年には、天文航海術、すなわち天文観測による船の位置(緯度)の測定法などをポルトガル人から教わり、書物に纏めている。池田好運の「元和航海書」だ。正午の太陽の高度を測定して緯度を計算する方法である。

 1639年にはオランダ船以外、西洋との行き来を禁じる鎖国政策が江戸幕府により採られる。中国とは行き来があったが。こうして、長崎通詞の職にあるものしか海外の書物に触れることができなくなった。それでも、1680年頃に、西洋天文学を紹介した中国の書である『天経或門(てんけいわくもん)』が伝わった。

 

 ここで、日本で採用された暦を纏めておこう。

 

  暦法             期間              編集者

・ 元嘉暦 : 690年(持統天皇4年)-697年(文武天皇元年) : 何承天

・ 儀鳳暦 : 697年(文武天皇元年)-763年(天平宝字7年) : 李淳風

・ 大衍暦 : 764年(天平宝字8年)-857年(天安元年)    : 僧一行

・ 五紀暦 : 858年(天安2年)   -861年(貞観3年)   : 郭献之

・ 宣明暦 : 862年(貞観4年)   -1684年(貞亨元年)   : 徐昂

・ 貞亨暦 : 1685年(貞亨2年)  -1754年(宝暦4年)    : 渋川春海

・ 宝暦暦 : 1755年(宝暦5年)  -1797年(寛政9年)    : 安倍泰邦

・ 寛政暦 : 1798年(寛政10年) -1843年(天保14年)   : 高橋至時、他

・ 天保暦 : 1844年(弘化元年) -1872年(明治5年)   : 渋川影佑、他

     

鎌倉・室町・戦国の武家の時代は余裕がなかったのか、改暦はされていない。中国で作られた宣明(せんみょう)暦が、862年の平安時代から、1684年の江戸時代前期まで使われていた。

 宣明暦であるが、小林義信謙貞が宣明暦で起きると予想された1683年の月食は起こらないと指摘し、月食は実際に起きず、800年用いてきた宣明暦の、天体運行とのずれが顕著になっていることがわかる。

 現在、囲碁の世界では、本因坊戦が権威あるが、本因坊はもともと、幕府囲碁職にあった家の名前だ。幕府囲碁職は林、本因坊、安井、井上の4家が務めていたが、幕府囲碁職安井算哲の子、二代算哲を名乗った渋川春海(1639-1715)は、天文の世界でも優秀であったようだ。1280年頃に中国の元王朝で作られた暦が「授時暦」であるが、作られてから400年使われていた。春海は授時暦の優秀さを知り、月食の予測にも失敗するような不備のある宣明暦を改暦しようとした。そのことを1673年に申し出たようだ。1683年に『大和暦』なる暦を作成する。しかしながら、朝廷の土御門家が改暦に反対した。その理由が、元寇の国が作った暦に基づいている、であるから難癖だ。それでも、月・惑星の運行を観測すると、『大和暦』が優れていることは明らかであったので、結局、新しい暦として採用されることになる。これが『貞享暦(1685-1754)』で、日本人の手により作成された初の暦であった。まさに、日本の科学的天文学の成果といえる。

 

 春海すごい!!ちなみに、「天地明察」という映画になって、ジャニーズの岡田准一くんが春海を演じている。

 

 江戸幕府八代将軍徳川吉宗(1684-1751)は、天文暦学に強い関心を持っていた。自らの時代に改暦を、との希望があったようだ。江戸城の絵図には、江戸城内に「新天文臺」の文字が見える。天文台を城内に作って天文観測を自ら行っていたのかもしれない。吉宗存命中には改暦はかなわなかったが、1755年に、陰陽頭の土御門泰邦により『宝暦暦』が作成され、改暦された。しかし、宝暦暦は貞享暦より劣っている暦にしかならなかった。例えば、1763年の日食の予言に失敗している。

 ちなみに、土佐の天文家、川谷致真(むねざね)は、日食が起きることを予測していた。致真は今の高知県の東洋町というところに居たそうだが、日食の予言に成功し、高知城下に招かれ暮らすようになる。号を薊山(けいざん)という。高知に薊野(あぞうの)という難読な地名があるので、致真は薊野に暮らしたようだ。墓も薊野にあるという。さらに、ちなみに、土佐の片岡直次郎秀峰は彼の下で天文を学んでいた。この人は、土佐で天文観測を行っており、その際に据えた渾天儀の台座が、平成の大合併で村の名前は消えたが、旧葉山村役場の前に残っているということを、「市民の大学」の第13回の講師の先生から教わった。

 

 西洋天文学の受容に関してであるが、本木良永(1735-1794)が『天地二球用法』を1774年に著す。これはオランダ語の書物の翻訳であるが、コペルニクスの地動説を紹介している。志筑忠雄(1760-1806) は、英国人の著書のオランダ語訳をさらに翻訳した『暦象新書』を1801年に著す。これには、ニュートン力学に基づく太陽中心の惑星運動が記述されている。注目すべきは、太陽系形成論に関して、志筑自身が「混沌分判説」というアイデアを出していたことだ。ラプラスの太陽系形成論である、カント・ラプラス星雲説が出されたのは1796年であるので、ほぼ同時期に出されていることになる。

 麻田剛立(1734-1799) は中国の天文書「暦象考成」を研究し、惑星運動のケプラーの第1法則(惑星の楕円運動)を理解し、纏めている。麻田剛立の弟子には、高橋至時(よしとき)や間重富がいる。

 その高橋至時(1764-1804)であるが、1795年に幕府天文方に就任している。そして、間重富(1756-1816)とともに改暦の命が下され暦を作成し、1797年に天皇から改暦宣下を受ける。これが『寛政暦』である。しかし、1802年の日食の時刻が、予想より15分ほどずれたことから、至時は、改良の余地ありと判断する。しかし、志半ばで亡くなる。

 ちなみに、高橋至時に入門したのが、至時より年長の伊能忠敬(1745-1818)であり、忠敬は土佐でももちろん測量していて、「大日本沿海輿地図」を作っている。旧赤岡町の赤岡中学校の前で観測した跡があると、これも第13回の講師の先生から教わった。こうして知識が増えてきて、楽しいったらありゃしない。

 寛政暦を引き続き改良したのは、高橋至時の次男、渋川景佑(1787-1856)である。景佑が今度は伊能忠敬について、測量術を学ぶ。景佑は幕府天文方になり、至時が始めた西洋天文書の翻訳を完成させる。『新巧暦書』(1836)である。彼が中心になり、1842年に『天保暦』への改暦が行われる。この暦が太陰太陽暦最後の暦になった。

 

 こんな話をしようと考えて、スライドを用意していたが、使うことは無かったので、記しておいた。知らないことが多かったが、江戸時代には九段坂にも天文観測所があり、彗星観測記録が残されて居るそうだ。講座の第14回には、イケヤ・セキ彗星の発見者である関勉先生を講師にお招きした。彗星ハンターの第一人者だ。ツーショットで写真を撮って頂いた。「市民の大学」事務局の男の子からは「ミーハーなんだから」と言われながらも。

 

 葛飾北斎富嶽百景に、鳥越の不二という絵がある。浅草天文台を通して見た富士山だ。手前に天体観測をするための簡天儀が見える。簡天儀とは、渾天儀から、太陽の通り道である黄道環を取った天体観測儀だ。

 

 明治に入ってから、特に最近の日本の天文学者の紹介もしようかと思ったが、それは口頭でと思い、スライドは作らなかった。それで、ここまで。

 

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         葛飾北斎「鳥越の不二」(国立国会図書館