115.国民の祝日

 国民の祝日の多くが皇室関連であるということを、最近の若者はあまり知らないようなので、備忘しておこう。

 1 月 1 日は「元日」。これは天皇陛下四方拝が行われ、歳旦祭という儀式が行われる日だ。

 2 月 11 日は「建国記念の日」。神武天皇が即位したという日を太陽暦に換算したということになっているが、定かではない。それが証拠に、皇室祭祀は行われていないようだ。戦前は紀元節

 2 月 23 日は「天皇誕生日」。今上陛下の誕生日だ。天長祭が行われる。

 3 月 20 日ころに、「春分の日」。この日に春季皇霊祭が皇室では行われる。春分だから休日なのではなく、皇室祭祀があるからだ。その証拠に、夏至冬至は祝日になっていない。

 4 月 29 日は「昭和の日」。言わずと知れた昭和天皇の誕生日だ。皇室祭祀はなさそうだ。昭和天皇崩御された 1 月 7 日には昭和天皇祭を行っているようだ。

 9 月 20 日ころに「秋分の日」。この日に皇室では秋季皇霊祭が行われる。

 11 月 3 日は「文化の日」。文化をうたっているが、実は明治天皇の誕生日。明治天皇に関しても、皇室祭祀は明治天皇崩御された 7 月 30 日に明治天皇例祭として行われている。

 11 月 23 日は「勤労感謝の日」。この日は新嘗祭で、天皇陛下が神に収穫された穀物などを捧げ、神とともに食する。

 

 以上が皇室絡みの祝日だ。このほかも見ておこう。

 

 1 月に「成人の日」がある。以前は 1 月 15 日に固定されていたが、今は第 2 月曜日となっている。おそらく、江戸時代以前に大人になったとして行う元服の儀式が小正月、1 月 15 日に行うことが多かったということからこの日になったのだろうが、元服の日はそもそも決まっていなかったので、まぁ、こじつけか。

 5 月には、まず、3日 が「憲法記念日」。日本国憲法が施行された日だ。4 日は「みどりの日」。もとは 4 月 29 日の昭和天皇の誕生日を、崩御された後にも祝日として残すために「みどりの日」としていたものを、4 月 29 日を「昭和の日」としたので、ここに移動させたもの。5 日は「こどもの日」。これは端午の節句だ。

 7 月第 3 月曜は「海の日」。8 月 11 日は「山の日」。あまり根拠がわからない。

 9 月第 3 月曜日は「敬老の日」。もとは 9 月 15 日だった。皇室祭祀との関連はない。

 10 月第 2 月曜日は「体育の日」。今後はスポーツの日と呼ぶそうだ。もとは 10 月 10 日、1964 年の東京オリンピックの開会式の日を定めている。

 

 こうしてみると、国民の祝日の半数は皇室絡みということだ。

 それと、確実な日を記念する「元日」「天皇誕生日」「憲法記念日」のみ、「の」の文字がない。この 3 日は、確実に日付が特定できるからだ。春分秋分も決まるが、年により日がずれるので「の」が入っているのだろう。「建国記念の日」に「の」が入っているのは、神武天皇即位の日が、神話の世界であり、日付けが特定できないためだ。

114.車輪が乗り越える高さ

 今から 5500 年ほど前、紀元前 3500 年ころ、メソポタミアでは、器を作るために、“ろくろ”が発明されていたそうだ。円盤状の“ろくろ”は、くるくる回転する。

 一方同じころ、メソポタミアでは物を運ぶために、そりを用いていたそうだ。ただ、雪の積もる地域ではないので、そりを引いて物を運ぶのは大変だっただろう。

 ろくろとそりを合体させて、「車輪」が発明されたのも同じころのようだ。メソポタミアの都市、ウルクで、紀元前 3200 年頃の絵文字に、車輪のついたそりが描かれているらしい。

 

      f:id:uchu_kenbutsu:20200202121233j:plain

 

 それで、こんなことを思った。どれくらいの力で、車輪は障害物を乗り越えられるのだろうか。

 

 図のように、半径 a で、質量 m の一様な薄い円柱があって、高さ h の障害物に遮られて右向きに転がれない状況を考えてみる。そこで、中心軸を通るように平行に力 F を加え、障害物を乗り越えたい。どれくらいの力を必要とするだろう。純粋に力学の問題だ。

 

 第 38 回で力のモーメントについて記した。今、図のように A 点を中心にして車輪は回転して障害物を乗り越えようとするので、A 点のまわりの力のモーメントを考えることになる。第 38 回では力の向きと、回転中心から力の作用点までの向きは直交していたので、力のモーメントは、(力)×(回転中心から力の作用点までの距離(腕の長さ))で求めて、シーソーの問題を考えた。でも、今の場合、力 F も、円柱に働く重力W も、A 点から力の作用点までの方向と、力の方向が異なる。こういった場合は、力の方向に引いた直線と A 点までの垂直距離、力 F の力のモーメントの場合だと、図で      a-h を力 F に掛けることで力のモーメントが求められることになる。円柱を右回りに転がそうという力のモーメント N

 

    NF  = F × ( a - h )   ・・・(1)

 

となる。左回りは重力、W = m g による力のモーメントだ。ここで、g = 9.8 m / s2 は重力加速度。こうして、せっかく円柱が右回りに進んで障害物を乗り越えようとしているのに、それに逆らって円柱を左回りに転がそうとする力のモーメント NW

 

    NW = m g × √( a2 - ( a- h )2 )    ・・・(2)

 

となる。W 方向と A 点の垂直距離は三平方の定理を使って求めた。

 

 正確には力のモーメントの大きさは、ベクトルの外積で定義されている。大きさとしては

 

    (力)×(回転中心(今の場合は A 点)から力の作用点までの距離)

       × sin (力の方向と、回転中心から力の作用点を結ぶ方向のなす角)

 

で定義されている。力 F による力のモーメントは、図から

 

    NF = F a sin (π-θ)       ・・・(3)

 

力 W の場合は

 

    NW = W a sin (π/ 2 +θ)    ・・・(4)

 

となる。三角関数の公式

 

    sin (α+β) = sinα cosβ + cosα sinβ

 

と、sinπ = 0、cosπ =-1、sin(π/ 2 ) = 1、con(π/ 2 ) = 0とから、(3)、(4)は

 

    NF = F a sinθ       ・・・(5)

    NW = W a cosθ      ・・・(6)

 

となる。ここで、サイン (sin) は直角三角形の(高さ)/ (斜辺)、コサイン (cos) は(底辺)/(斜辺)なので、図から

 

    sinθ = (a-h) / a

    cosθ = √ ( a2 - ( a- h )2 ) / a

 

とわかるので、これらを(5)、(6)に代入すると(1)、(2)にちゃんとなる。ただし W = mg。

 

 さて、車輪が高さ h の障害物を乗り越えられる(乗り上げられる)かどうかだった。そのためには、重力で左回りに回転させようとしている力のモーメントに打ち勝って、右回りに転がらなければならない。要するに

 

    N> NW

 

が成り立つように、力 F を加える必要がある。(1)、(2)から、

 

    F × ( a - h ) > mg × √ ( a2 - ( a- h )2 )

 

こうして、

 

    F > mg × √( a2 - ( a- h )2 ) / ( a-h )    ・・・(7)

 

の力を加えなければならないというわけだ。

 

 最終結果の(7)式を見てすぐにわかることは、右辺の分母に ( a―h ) が現れているので、障害物の高さ h が車輪の半径 a に近くなるにつれて加えるべき力 F が大きくなり、h = a ではとうとう無限大の力を加えなければならなくなるということだ。要するに、車輪の半径以上の高さの障害は乗り越え(乗り上げ)られない。

 

 四肢を持った動物や、6 本足の昆虫の陸上での移動手段は、脚だ。人類は車輪を発明して運搬を容易にしたが、生物は脚の代わりに車輪状の「四肢または六肢」を進化させなかった。生物が生息する地表は平たんではないので、(7)から、自分の脚の「車輪半径」より高い段差は乗り越えられなくなるので、車輪状の脚に進化しなかったのだろうか。

 

 もし、人が 2 足歩行ではなく「2 車輪移動」に進化していたとする。体重 M kg の人の場合、それぞれの「車輪脚」にかかる重さは半分ずつだろうから m = M  /2 だ。もし、人が自分の体重に働く重力と同じ力で前方に移動しようとしていると、F = Mg の力を発揮しているということだ。このとき、乗り越えられる高さ h を計算しよう。(7)から

 

    Mg > ( M / 2 ) g √ ( a2 - ( a- h )2 ) / ( a-h )  

 

なので、Mg で割ってから 2 乗して整理していくと

 

    h < ( 1-1 / √5 ) a ≒ a × 0.552786・・・

 

となる。「車輪脚」の半径の 55 %程度の高さしか乗り上げられない。「車輪脚」の直径が 1 メートルに進化していても、半径は 50 ㎝ なので、自分の体重にかかる重力と同じ力で進んでも、28 cm くらいしか乗り越えられないということだ。ちょっと生活しにくい。

 物の運搬には車輪は重宝するが、人の移動手段としては人類進化で採択されなかったのだろう。

 

113.戦後民主制とプラトン「国家」

  私が小中高校を過ごした時代は、敗戦から 30 年前後たった頃だった。戦後民主主義の理想・希望が残っており、何かあったら学校では選挙をしていた。今でも生徒会委員とか学級委員は選挙をして決めているのだろうが、体育委員も保健委員も遠足の何とか委員とかも、やたらと選挙で決めていた。帽子をひっくり返して投票用紙を回収し、名前が挙がった人たちの名前を黒板に書いて、票が入れば「正」の字の字画を足していく。正の字一つ完成したら 5 票入っているということだ。得票上位者がそのまま選ばれることが多かった。

 大学に就職し、かなりの年月が経つが、学長をはじめとした大学執行部の「組織統治」機能、カタカナ英語で良く「ガバナンス」と言っているが、それを高めるということで、何年前だったかから、学部長を学長が指名することになっている。とはいえ、うちの大学では、学部から 2 名の候補者を推薦して、その内から学長が 1 名決めるという形をとっている。High Intelligence な我が学部では、2 名の推薦者を誰にするかを、構成教員で投票して決める。その際には得票上位者ではなく、過半数得票者を推薦するということで、選挙で過半数得票者がいなければ、徐々に上位者数名に絞っていき、過半数になるまで何度も再投票するという、手間はかかるが優れた方法をとっている。推薦にあたり、学部構成教員の過半数の支持があるということを前提とした考え方が採用されている。最近もそんな選挙があった。

 

 それで思い出した。

 

 日本の衆議院議員選挙では、以前は中選挙区制をとっていたので、一つの選挙区から複数人の代議士が選ばれていた。そうすることで、例えば2名選ばれる選挙区では、A さんが 40 % の得票、Bさんが 35 %、Cさんは 15 %、Dさんが 10 % の得票率の場合、AさんとBさんを国会に送ることが出来るので、多様な意見が反映される。今の例ではその選挙区の 75 %の有権者の望む形になる。しかし、小選挙区制では、当選者は一人となるので、Aさんだけが国会に行き、有権者の 60 % の票は、いわゆる死に票となり、有権者の半数以上の意向は反映されない。しかし、こうすることで、当選者が、選挙ごとにぶれやすい。今の例だと次の選挙でBさんがAさんの得票を上回る可能性が十分にあるので、AさんBさんの所属政党が異なれば政権交代が起こりやすいだろうという考え方だ。実際、長らく起きていなかった政権交代が起きた。

 

 しかし、最近ではどうもこの制度がうまく機能していないようにみえる。もともと、すべての人が選挙に行くわけでは無いのが実情なので、今の例をもう一度用いて投票率が5 0 %だったとした場合、0.5×0.4 = 0.2、つまり有権者の 20 % の支持しか得ていない人のみが国会に送られることになる。結果的に有権者の 2 割程度の得票で議席が決まってしまうということだ。実際、有権者の 3 割程度の支持があれば政権与党になれるそうだ。一旦、政権与党になれば、有権者総数の 3 割の支持があれば政権は大安泰ということになってしまう。以前の政治家は、国民が皆、安心して暮らせるように腐心していたように思える。国民を分断しないように努めていたようだ。しかるに、例えば有権者の3 割の支持で政権を取れるのなら、その 3 割の人々にだけ恩恵が行くような政治をしていれば良いことになってしまう。公的行事に支持者を招待したり、お友達を優遇したり。政権を支持して政権側に回ったら美味しいことがあり、政権を批判する側に回ったら基本的人権の保障された国民としての恩恵すら享受できない、といったことが起こりうる。こうして、恩恵を被れない人たちは、恩恵の被れる側に「寝返る」か、あるいは何を言っても無駄と思って、あきらめて選挙にもいかなくなるのだろう。批判者が選挙に行かなくなれば、そもそも、少数の得票で代議士になれるのだから、批判される側の現職は、ますます選挙で有利になるわけだ。

 

 おそらく、小選挙区制を導入したころには、こういう事態が起きる可能性は想定していなかったのだろう。すべての国民の生活を守り、豊かにするのが政治家だという、政治家自身に使命と品位があったので、性善説に立っていたものと思われる。しかるに、国民を、自分にとっての支持者・不支持者、いや味方と敵に分けて、味方に手厚く、敵には辛らつに、という政治家が多くなっているのではなかろうか。3 割の支持で良いのだから、多くの人々の意見を聞いて支持を増やし、国民皆が幸せに暮らせる社会を目指そうなんて思う必要はないというわけだ。選挙に通りさえすればよい。ある意味、わかりやすい。

 

 周囲の特定の「味方」の支持さえあればよいので、代議士といえども、広く勉強しなくても良くなったようでもある。日本国憲法第 99 条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とある。大学教員になった頃は、大学教員の身分はまだ国家公務員だったので、採用辞令をもらうときに、日本国憲法を遵守することの宣誓があったように記憶する。憲法の下では、内閣総理大臣国務大臣中の国務大臣なので、軽々に憲法について語ることは難しい。また、大学に関して言えば、学問の自由のことも理解していない代議士もいるように報道で見聞きする。憲法 23 条には「学問の自由は、これを保証する。」とある。あっさりしているが、憲法学者によると、「研究・発表して教授する自由」のことである。学問の自由を補強する制度的保障として、「大学の自治」が位置付けられている。教育基本法第 7 条 2 項に「大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。」とある。わざわざ「大学については」と述べているわけだ。その意味でも、大学と高校以下では異なっている。また、高校までは文部科学省の検定済み教科書が用いられて教育が行われているが、大学にはそのような制度はない。高校生までと異なり、多くが1年生時に 19 歳以上となる学生には学問的批判能力が、一定程度備わっていることが期待されているからだ。

 

 社会の風潮として、学問的な批判能力のみならず、批判精神そのものが薄れているのではないだろうか。大学生のことではない。いい年をした大人たちも、どうでもよい問題にはネット上で大騒ぎするものの、あれは批判でもなんでもなく、声の大きな側に加担して、自分も正義を振りかざしているつもりなのだろう。弱い者いじめと同じ構図だ。批判ではなく、揚げ足取りの非難、誹謗中傷に過ぎない言説を、あたかも自分が正しいと勘違いして他者を攻撃する。

 今の時代、高校生くらいになると生徒の多くがスマートフォンを持っているが、学校には持ってこさせないという所が多いと聞く。もちろん、許可があれば持っていけるのかもしれないが、規則に反して使用すると取り上げられるようだ。その日 1 日なら、「教育上の懲戒」の範囲内であるが、2 度、3 度繰り返すと、1 週間とか長いと 1 か月、スマホを取り上げて学校で預かるところもあるやに聞く。大学生と違って、高校生にはまだそこまでの批判能力はないので仕方ないのだろうが、現場の教師にはそのことが何を意味しているのか、自分たちで考えたことはあるのだろうか。遵守するように宣誓させられた「日本国憲法」29 条第 1 項には、「財産権は、これを侵してはならない。」とある。もちろん、同条第 2 項で「財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。」とあるので、有罪判決を受けて拘留されている受刑者の財産権などは制限されるのだろう。また、同条第 3 項で「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」とあり、道路拡張なんかで土地財産を行政に提供せざるを得なくなることはある。しかし、そうでない場合には、私有財産は、第1項で、つまり憲法で守られている。国民の財産は、国家や他人に不当に干渉され侵害されることはない。仮に 1 か月もスマホを取り上げられるのであれば、懲戒権を逸脱して財産権に干渉しているとしか思えないが、そのような校則を定めている学校は、法的にはどのような理論武装をしているのだろうか。訴えられた場合に裁判に耐えられると考えているのだろうから。おそらく多くの家庭で、子供のスマホは親がお金を出しているのだろう。保護者の財産権を侵害することにもなる。

 いつの頃からか、上司や自分より権能を持つ者に対しては批判することは良くないような雰囲気になっている。批判精神の無くなったマスコミの責任も大だ。権力を有する上位者の行動などに対して批判することは、あたかも越権行為であるように感じているのだろうか。上の者に従順な人が世の中に多くなれば、教師も政治家も楽だ。少々おかしなことを行っても、誰も何も言ってこないのだから。私も教師側なので、ある意味恩恵を被っているのかもしれない。批判は強者にこそ向けられるべきだ。

 

 ギリシャ時代のプラトンの「国家」にまで遡ることはないのだろうが、すぐに忘れてしまうので備忘しておこう、いや、理解が間違っているのかもしれないが。理想的な哲人が治める「王政(優秀者支配制)」は、やがて階層内部あるいは階層間での争いが始まり、軍人達が支配する「貴族政(名誉支配制)」に移行する。しかし国や同志のために戦う階層であるため、お金を儲ける経済活動からやや離れている。そこで、やがては富を蓄えた者たちが発言力など力をつけてきて、政治に参画するようになる。金持ちが支配する「寡頭政」だ。この者たちはできるだけ多くの富を所有しようとするので、人々に浪費させ、財産を奪い、金を貸し、さらに富もうとする。被支配階級は貧困に追い込まれ、内乱などを経て、やがて国政に参画するようになり、「民主政」へ移行する。しかし、いずれ衆愚に陥り、衆愚政を経て、愚かになった民衆の支持を得て独裁的権力を振るう僭主が現れ、「僭主独裁制」へ移行する。

112.物理法則と生物

 第 22 回で、呼吸と拡散について触れた。昆虫などは肺がないので、体の表面から酸素を吸収するが、体内に酸素を運ぶのは、酸素の拡散に任せている。

 

 生物も物理法則に支配されているので、それに合わせて進化してきたのだろう。

 「ファインマン物理学」の中で、ファインマンは眼について述べている。人やタコなどの生物では個眼を発達させている。目を大きくして集光力を高められる。そして、2つおいて、遠近を感じられるようにしている。

 ところが、昆虫は小さいので、大きな個眼を顔に載せられない。

 そこで、個眼をたくさん集める戦略に出た。

 ファインマンの説明を備忘しておく。

  

            f:id:uchu_kenbutsu:20200118140433j:plain       

 

 図のように、一つの個眼の直径を δ、個眼を集めて一つの丸い複眼を形つくるが、その複眼の半径を r とすると、図のように個眼が見込む角度 θ は

 

    θ= δ/ r    ・・・・(1)

 

となる。

 

 一方、光は波なので、物体の背後に回りこむ性質がある。これは回折と呼ばれる。こうして、あまり個眼が小さいと光が回折してまっすぐに来ず、ぼやけてしまう。光は波だから仕方がない。つまり、個眼の大きさδを小さくしすぎると、その個眼の方向だけではなく、他の方向から来た光が回り込んでその個眼に入ってくるので、一つの方向だけをはっきり捉えることができなくなる。

 光が回り込んでいく角度 φ は、光の波長を λ として

 

    φ=λ/δ    ・・・・(2)

 

となることが知られている。(1)式では δ を小さくしたほうが、一つの複眼に個眼を沢山載せられて有利になることがわかる。一方、(2) 式では δ を大きくしたほうが、光の回り込んでくる角度 φ が小さくなり、光は直線を進んできたとみなせるので、どの方向からの光かがわかり、ぼやけず鮮明に見える。こうして、光の回折の影響を小さくするには δ が大きい方が有利になる。

 

 (1)式、(2)式、両者の折り合いをつける最適な δ は、下図のように θ + φ が最小となるところと考えてよかろう。

   

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微分を知っていれば、θ + φ を δ で微分して例になるところが最小値を与えることがわかる。こうして

 

    d (θ+φ) / dδ = 1 / r -λ/δ2 = 0

 

よって

 

    δ= √(λr )

 

と求まる。

 

 ファインマンはミツバチの例を出している。ミツバチは光の波長、λ ≒ 400 nm (ナノメートル)= 400 × 10―6  mm の紫色の光を良く見ているそうだ。おそらく花びらからの反射光だろう。ミツバチの複眼の大きさはおおよそ r ≒ 3 mm。これで、ミツバチの個眼の大きさ δ を計算してみると

 

    δ= √(3×400×10―6 ) mm ≒ 3.5×10-2 mm ( = 35 ミクロン)

 

つまり、35 ミクロンと計算できた。実際のミツバチの個眼の大きさは 30 ミクロン程度だそうなので、だいたい計算で出せた。

 

 こうして、生物も物理法則に従って、最適解を探して進化してきているようだ。

 

 では、どうして昆虫は小さいのだろうか。

 

 一つの仮説だが、最初に述べたように昆虫は肺がないので酸素を拡散で細胞に送っている。拡散に要する時間 t と、運ぶ距離 x には

 

    t = x2 / (2 D)   ・・・(3)

 

の関係がある。ここで、D は拡散係数で、酸素の場合おおよそ D = 20 mm2 / s である。この関係だけで酸素を体に運んでいるとすると、体表面の気門で取り込んだ酸素が、例えば 1 秒で届かないといけないとすると、1 秒で酸素が届く距離 x は(3)式から

 

    x = √(2Dt) = √(2×20×1) = 6.3 mm

 

なので、体の両側から酸素が来ると、体の太さは直径 1.2 cm 程度になる。

 

 ちょっと小さすぎ。

 酸素の濃度勾配があるともっと早く酸素は移動するだろう。酸素の単位面積、単位時間当たりの流速 J は、酸素濃度の勾配を dc / dx と書いて

 

    J = ―D dc / dx

 

となる。体表面と体内の酸素濃度の差 dc/dx によって早く拡散するのだろう。

 ほかに、お腹を膨らませたりへこませたりして、さらに酸素の移動速度を速めることも可能だ。

 

 考えられる要素を合わせたら、昆虫の大きさの限界はどれくらいになるのだろうか?

 ちょっと知りたい。

 

 

 

111.平方数の和、再び

 第 88 回で、平方数の和の備忘をしておいた。すべての自然数は 4 つの自然数の 2 乗の和で書ける。さらに、3 つの自然数の和で書けるための条件、2 つの自然数の和で書けるための条件を記しておいた。

 

 数字に強い人はいるものだ。最近も、以下のようなことを知ったので、再び備忘しておく。

 

 まず、自然数は必ず 4 つの自然数の 2 乗の和で書けるので、4 つの連続する素数の 2乗の和を考える。

 

    172 + 192 + 232 + 292

 

この数は、10 個の連続する偶数の 2 乗の和でも書けるらしい。

 

    42 + 62 + 82 + 102 + 122 + 142 + 162 + 182 + 202 + 222

 

連続する素数やら偶数やらの平方数の和で 2 通りに書けるとは、恐れ入る。

 

 この数は、4a × ( 8 b + 7 ) と書けないので、3 つの平方数の和でも書ける。第 88 回参照。

 

    182 + 202 + 362

 

 しかも、この数は素因数分解したとき、4 の倍数+3の素数は現れないので、2つの自然数の 2 乗の和で書ける。第 88 回参照。しかも 2 通りに書ける。 

 

    162 + 422 = 242 + 382

 

 2020 とはそんな数だそうだ。

110.古典電子とスピン

 前回、トムソン散乱の話で、古典電子半径の話がでてきた。復習しておこう。

 電子に半径 a があったとする。そうすると、電荷 ‐e を持った電子が、電子の外側に作る電場による静電エネルギー E は、計算すると

 

    E = e2 / ( 8πε0 a )     ・・・(1)

 

となる。このエネルギーが、実は電子の質量エネルギーだ、という大胆な仮定を置くと、電子の質量を mとして、光速 3.0×108 m/s を c とすると質量エネルギーは E = me c2 だから、

 

    E = e2 / ( 8πε0 a ) = me c2   

 

となるので、a について解くと

 

    a = (1 / 2 ) × ( e2 / (4πε0 me c2 )

 

となる。この a から因子 1/2 を外したものを「古典電子半径」と呼び、rと書いた。

 

    re = e2 / (4πε0 me c2 )

 

この rが「古典電子」の大まかな半径と考えられる。ここで、e は素電荷 1.6×10-19 C(クーロン)、ε0 は真空の誘電率で 8.85×10-12 C2 s2 / kg m3 、電子の質量 mは9.1×10-31 kg。数値を代入すると

 

    re = 2.82 × 10―15 m    ・・・(2)

 

が得られる。

 

 こんなことを考えたことがある。

 

 素粒子には「スピン」と呼ばれる角運動量を持つものが多い。電子も

 

    J = ℏ / 2      ・・・(3)

 

という角運動量を持っている。ここで、ℏ = 1.05 ×10-34  J・s という値と単位を持つ。1 J = 1 kg m2/s2 、s は秒、m はメートル。なので、

 

    J = 5.27 × 10―35  J・s    ・・・(4)

 

 もし、電子に半径 re  があり、この「古典電子」が自転していて、その時点の角運動量が J になっていると考えてみよう。「古典電子」密度が一様な剛体とすると、この剛体の回転のしにくさを表す主慣性モーメントと呼ばれる量 I は

 

    I = ( 2 / 5 ) me re2

 

となる。剛体がある軸の周りを一様に回転しているとする。1 秒当たりの回転角を回転の角速度と呼び、ω と書くことにすると、回転の角運動量 J は

 

    J = Iω    ・・・(5)

 

となる。回転軸を極軸としたとき、赤道にあたるところの剛体表面の速さ v は、剛体の半径が re なので、

 

    v = re ω

 

となるので、(5)の角運動量 J は

 

    J = ( 2 / 5 ) me re v

 

と書ける。これを電子のスピン角運動量(3)とすると、

 

    J = ℏ / 2 =  ( 2 / 5 ) me re v

 

となるので、赤道面での「古典電子」の回転の速さ v は

 

    v = 5ℏ / ( 4 me re )   ・・・(6)

 

となり、数値を代入すると、ℏ = 1.05 × 10-34  J・s、me = 9.1 × 10-31 kg、および(2)式から re = 2.82 × 10―15 m だったので、結局

 

    v = 5.1×1010  m / s

 

 

が得られる。これは、光の速さ、c = 3.0×108 m / s より大きな値になってしまう。アインシュタイン特殊相対性理論によると、光速を超えることはできないので、電子スピン角運動量が古典電子の自転と考えると矛盾が生じることがわかる。

 

 こうしたことからも、素粒子のスピンは古典的に理解できない、極めて量子論的な、素粒子固有の量であると結論できる。

 

 実際、電子には大きさはない、少なくとも電荷の広がりから見ても10-18 m よりは小さいので、古典電子半径よりもさらに小さい。(6)からさらに赤道面での速さは早くなるので、ますます見込み薄だ。

 

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109.一つの数式の理解は複数

 大学の学部生のころ、5 人ほどで量子力学の自主ゼミをやっていた。自主ゼミとは、文字通り、数人が自発的に集まって、自主的にテキスト購読を行うものだ。2 回生の頃からランダウ・リフシッツの「量子力学」の教科書でゼミをしていた。順番にレポーターを決め、レポーターは責任をもって割り当てられたところを読んできて説明する。

 

 

 だいぶん進んで、散乱理論のところが当たった。遠方から入射粒子を標的となる粒子に当てたら、どれくらいの割合で散乱されるかを表す量、散乱断面積 σ の計算があった。散乱断面積については、ちょっとだけ第 60 回で触れた。きちんと計算で求めるには、平面波の球面波展開やら、ルジャンドル多項式の規格直交性の利用やら、とても仕掛けが大掛かりなのだが、最終的には

 

    σ = Σl=0 ( π / k2 ) (2 ℓ + 1) | e2 i δ(l) ― 1 |2     ・・・(1)

 

が得られる。入射粒子は標的に吸収されずに弾性散乱されるとした。ここで、プランク定数h を 2π で割ったℏを使うと、ℏ ℓ が入射粒子の角運動量になり、ℓ  は 0 を含む自然数をとる。Σl=0∞ はすべての自然数 ℓ で和を取りなさいということ。また、k は ℏk  が入射粒子の運動量になる「波数」と呼ばれる量。δ(ℓ) は ℓ に依存したある量。

    

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 量子力学によると、角運動量は ℏ を単位にして、上で記したように、とびとびの値    ℓ = 0, 1, 2, 3・・・をとる。同じ角運動量 ℓ のときにも、まだ 2 ℓ + 1 個の別々の状態がある。角運動量のある方向、例えば z 方向にベクトルとしての角運動量を射影したとき、その大きさ ℓz は、-ℓ、―ℓ+1、-ℓ+2、・・・、ℓ-1、ℓ  までの、2 ℓ + 1 通りの値を持つからだ。

 

 うーん、量子力学を知らない人には何のことやら。

 

 でも、とりあえず、同じ角運動量 ℏℓ でも 2 ℓ + 1 個の異なる量子力学的状態があることを認めましょう。このとき、「2 ℓ + 1 重に縮退している」と表現します。

 

 そこで、(1)式を眺めると、一つの ℓ に対して、因子 2 ℓ+ 1 がちゃんと現れているではないか。ということで、角運動量が大きいほど、取りうる量子力学的状態の数が増えるので、角運動量が ℏℓ の入射粒子では、散乱に寄与する割合が、状態数の因子 2 ℓ + 1 だけ大きくなるのだろうと考えた。

 

 ゼミのレポーターだったので、それで良し、としてもよいが、ちょっと待った。

 

    2 ℓ + 1 = ( ℓ + 1 )2 - ℓ2

 

じゃないかと気付いた。

 

 当たり前の式なので、気付いたというのも変だが。

 

 下の図のように、右から粒子を入射して、O のところに標的があるとして粒子が散乱されると考えてみよう。

 

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 何も起きなければ無限遠方から入射してくる粒子は、標的を含む線上から b の距離だけ離れた平行線上を進んでくる。でも、標的の影響で曲げられ、上図で b だけ離れたところの曲線上を進む。この時の角運動量を L としよう。無限遠方での入射粒子の速さを v、質量を m とすると、角運動量古典力学的に

 

    L = m v b     ・・・(2)

 

となる。古典力学的には粒子の運動量 p は

 

    p = m v      ・・・(3)

 

だが、量子力学的には、粒子と波の 2 重性から、波の性質、波数 k を使って

 

    p = ℏ k     ・・・・(4)

 

だった。こうして、(2)の mv を(3)で p にして、(4)を使って量子力学に移行すると

 

    L = ℏ k b    ・・・(5)

 

となる。いや、量子力学的には

 

    L = ℏ ℓ    ・・・(6)

 

だったから、(5)、(6)から

 

    b = ℓ / k   ・・・(7)

 

だ。さて、図から、b の距離のところを角運動量 ℏℓ の粒子が来たのだから、今度は少し離れた b + Δb のところからは、ℏ( ℓ + 1) の角運動量をもって入射してくるとすると、古典力学的には、角運動量 ℏ(ℓ + 1) と ℏℓ の間の粒子は、図の影をつけた円環の部分を通って散乱されるということになる。円環の面積 ΔS は

 

    ΔS = π ( b + Δb )2 - π b2

 

だが、b + Δb のところは ℏ を単位にした角運動量は ( ℓ + 1) だったので、(7)を使うと

 

    ΔS = π ( b + Δb )2 - π b2

      = π ( ℓ + 1 )2 / k2 - π ℓ2 / k2

      = ( π / k2 ) × ( 2 ℓ + 1 )

 

となる。さっき気付いた 2 ℓ + 1 = ( ℓ + 1 )2 - ℓ2  のおかげだ。ΔS の面を通ったらすべて散乱されているわけだから、散乱される割合は、すべての可能な ℓ 、つまり ℓ について 0 から無限大まで足し合わせて、

 

    Σl=0 (π  /k2 ) × (2 ℓ + 1)

 

となるはずだ。(1)をほぼ再現するではないか。

 

 あとの | e2iδ(l) ― 1 |2  は、ここまでの古典・量子折衷の今の議論では未だ取り込めない粒子の持つ波動性だろうと結論した。というのも

 

    | e2iδ(l) ― 1 |2 = 4 sin2 δ(ℓ)

 

なので、まさに三角関数の「波」が出てくる。波動性により 0 から 4 までの因子が現れるのだろう。

 こうして、2 ℓ + 1 は「縮重度の現れ」と解釈してもいいし、入射粒子の幾何学的な性質、π ( b + Δb )2 - πb2 = π ( ℓ + 1 )2 / k2 - π ℓ2 / k2 = ( π / k2 ) × ( 2 ℓ + 1 ) とみなしても良いはずだ。

 

 こんな風に、一つの式を導いても、複数の解釈が可能だ。

 複数の理解が自力で出来て、20 歳そこそこの時には大層喜んだものだ。

 

 

 さて、次に、波長の短い X 線を、Z 個の電子を持つ原子に入射した時の、X 線の散乱断面積を見てみよう。やっぱり導出は厄介なので、結果だけ書くと、散乱断面積 σ は

 

    σ = Z × ( 8π / 3 ) × ( e2 / ( 4πε0 m c2 ))2   ・・・(8)

 

と得られる。ここで、 は素電荷 1.6 × 10-19 C(クーロン)、ε0 は真空の誘電率で8.85 × 10-12  C2 s2 / kg m3 、mは電子の質量 9.1 × 10-31  kg である。ここで与えられる散乱断面積は、トムソン散乱の散乱断面積である。

 

 ここで、こんなことを考えてみる。仮に電子に半径a  があったとする。そうすると、電荷 ‐e を持った電子が、電子の外側に作る電場による静電エネルギー E は、

 

    E = ∫ ε0 E2 / 2 ・4 π r2 dr

 

となる。右辺のE は電場で、

 

    E = (1 / 4 π ε0 ) × e / r2

 

で、積分は電子の半径 a から無限大まで行う。 

  これも計算すると

 

    E = e2 / ( 8 π ε0 a )     ・・・(9)

 

となる。物理系の大学生の良い演習問題だ。このエネルギーが、実は電子の質量エネルギーだ、なんていう大胆な仮定を置くと、E = m c2 だから。こうして、仮に持たせた電子の半径a  は

 

    a = (1 / 2 ) × ( e2 / (4πε0 m c2 ) )

 

となる。(9)式を a について表して、E = m c2 を入れた。この a から 1 / 2 の因子を外した部分には名前がついていて、「古典電子半径」と呼ばれる。古典電子半径を re と書くと

 

    re = e2 / ( 4πε0 m c2 )

 

 そうすると、(8)式のトムソン散乱の散乱断面積は、

 

    σ= ( 8/ 3 ) ×Z×πre 2      ・・・(10)

 

となり、X 線が一つの電子を見込む面積が π re 2 で、電子は Z 個あるから、因子 8 / 3 を除けば、Z 個の電子によって遮られる面積 Z × π re 2 に邪魔されて、その面積部分にあたると X 線は散乱されると解釈できる。

 

 ところが一方、(8)式は

 

    σ = Z × ( 2 / 3π ) × ( e2 / ( 4πε0 ℏc ))2 × π ×( h / m c )2  ・・・(11)

 

とも書き直せる。ここで、

 

    ℏ = h / (2 π)

 

で、h がプランク定数。なんでわざわざ ℏ(あるいは h )を入れたかというと、(11)で出てくる

 

    e2 / ( 4πε0 ℏc ) = α = 1 / 137

 

は、電磁相互作用するときの典型的な強さを表す無次元量なので、これを引っ張り出すために ℏ で割っている。そもそも(8)に出てこない量で割ったので、でてこない ℏ または h を打ち消すように、(11)で

 

    h / m c = λe

 

が現れ、余分な h を掛けたことになっている。ここで定義した α は微細構造定数と呼ばれる。また、λコンプトン波長と呼ばれている。この波長は、始め λ だった波長の X線を電子に照射したとき、電子にエネルギーを与えることで、散乱後の X 線の波長が λ‘ と長くなるという式、

 

    λ‘ ― λ = ( h / mc ) ×  (1-cos θ )

 

に現れる。θ は X 線が曲げられた角度。

 そうすると、トムソン散乱の断面積(11)は

 

    σ = ( 2 / 3π ) × Z × α× π λe2    ・・・(12)

 

と書き直せる。因子 2 / 3 π を除いて、波動性を持つ電子のコンプトン波長 λ程度の広がりを持つ面積 π λeのところに X 線がやってくると電磁相互作用し、相互作用の強さ α が掛ったものが断面積になるというわけだ。電子は Z 個あるので、Z 倍されている。α が 2 回掛かっているのは、電子と X 線の散乱の度合いを量子力学で計算するためには、振幅の絶対値の 2 乗をとるという操作が入るため。

 (10)の形を解釈すると、古典的な電子に X 線が当たると散乱されると見え、(12)を解釈すると、波動として拡がった電子と X 線との電磁相互作用のように見える。

やはり、複数の理解ができるようだ。