7.O澤君のこと

 高等学校。

 

 マンモス校であった。我々の学年は47人学級が11クラス。上の2学年はそれでも10クラスずつ。ひとクラス、男子が23人、女子が24人。我々の学年は1学年500人を超えていた。戦後20年目に生まれた連中が多い世代、新制高校36期生であった。

 

 入学早々、天文部に入った。同期はもう1名。暫くしてからもう一人入部した。2年の先輩が2人、3年の先輩は、確か2人。みな男子。3年の先輩は部を引退していたが、それでもわりと部室に居たので、部室に行って色々話をしてもらった。狭い部室だった。どんな話をしてもらったのか、緊張していて今となっては良く思い出せないのだが、兎に角カッコいいなと思って、ボーっと話を聴いていた。高校1年から見た高校3年生男子はとても大人で、ちょっとおじけづきながらも、なんかいい感じだった。自分も大人になった気がした。そう、先輩達はすこぶるカッコ良かった。

 

 この天文部、我々のずっと上の先輩が宇宙飛行士になって、スペースシャトルに乗ったが、これはだいぶん後の話。

 

 天文部の顧問は、私が1年のときのクラス担任、地学の先生であった。渾名は「ジオイド」。

 

 高校の文化祭は6月にあった。今となっては理由が良く思い出せないのだが、とにかく2年の先輩達がクラブ顧問と喧嘩して、退部することになった。文化祭の準備にも、文化祭の当日にも、もう部には先輩は現れなかった。後から入部した同期に、私のあまりの天文の知識の無さを馬鹿にされながら、文化祭だけ付き合った。だって、まともな星空の見えない大阪市西成区で育ったので、部の展示で見せる星空の映像に映る数多くの星をみても、どこをどう繋いだらオリオン座になるのかすら判らないんだからやむを得ない。

 

 兎に角、先輩方に心酔していた高1の私は、先輩に殉じて、初めに一緒に入部した同期一人と一緒に天文部をやめることにした。天文部に残るのは後から入部した一人のみとなった。

 

 天文部滞在、2ヶ月余り。卒業後30年以上経つが、今ではクラブのOB名簿には載っておらず完全に無視され、未だ同窓会名簿のクラブ欄は空白のままだ。訂正する気もないけど。

 

 まぁ、そんなことはどうでもいいや。宇宙飛行士の先輩と、お知り合いになれなかったのは、ちょっと残念だけど。

 

 可愛そうに思ってくれたのか、2年の先輩二人が、夏休みにちょうどめぐり合わせた部分日食の観測に誘ってくれた。天文部所属ではなくなっていたけれど、本当に星が好きな先輩達だった。初めに一緒に入部して一緒に辞めた同期と2人で先輩の家に行って、近くの公園で先輩が持っている天体望遠鏡で部分日食を見た。多分、昼飯をおごって貰ったような気がする。望遠鏡で見た初めての日食だった。純粋に感激した。あのとき誘ってくれた当事高2の先輩お二人と、日食の場には居なかったけれどカッコ良くって高1のガキに狭い部室で方向を示してくれた3年の先輩には感謝しきれない。先輩達は憧れの対象だった。物理学で身を立てた(傾けた?)今がある。大急ぎで付け加えるが、今となってはお名前がどうしても思い出せない。申し訳ない。

 

 11クラス、500人を超える生徒が在籍していたので、在学中には同期で知らない奴らが沢山いた。今でも大半は知らない。高校時代には全く知らなかったけど、大学に入ってからしょっちゅう行き来して朝まで飲むようになった友人ができたり、これも大学時代のことだが、高校のときは一度も同じクラスになったことが無いのに、奴はサッカー部だったかなぁくらいの知り合いだったのが高校の同期というだけで下宿に突然転がり込んできたり、面白いのは面白かった。極めつけは、従兄妹(いとこ)の旦那さんが高校の同期だけど、、、知らんぞ。

 

 そんな中で奇跡的に3年間同じクラスだったのがいる。それがO澤君。1年のときの担任、ジオイドのクラスで、色んな中学から来た中に彼が居た。体育の柔道の時間、O澤君と、何故か苗字Tで始まる私がいつも乱取りの相手になっていた。それで柔道の授業では、いつもO澤君と、くんずほぐれつ、背負い投げから横四方固めまで、寝技で、はぁはぁ言いながら、ねっとりした時間を味わっていた。だからといって、まぁ、普通のクラスメイト。それ以上には発展せず、特に親しかったというわけでもない。

 

 2年に進級しても、またO澤君と同じクラスになった。もちろん、他にも1年から引き続いて同じクラスになったのは居る。

 2年のときには修学旅行があった。部活もやめたままなので授業が終わると、とっとと家に帰っていたのであるが、修学旅行の班分けのとき、まごまごしていた私を、何故かO澤君が誘ってくれた。野球部やら、ハンドボール部やら、クラスで1番アクティブ元気な連中の班に紛れ込んだ。

 後に、当時の高2の同級生の女子とO澤君は結婚し、娘さんを授かることになるのだが、未来の伴侶も交えて写った写真がある。写真屋さんが修学旅行の宿でくつろいでいる我々男子7人の班を見つけたのだが、結局倍以上の男子女子が同じようにくつろぐことになって、大人数でみんなでテレビを見ている風情にして写真を撮られることになった。

 ややこしいぞ、高校2年生。

 わざとカメラ目線を外そうといって写真を撮った。なのにO澤君だけが裏切って、彼だけカメラ目線の写真が残っている。

 

 高校2年の頃は、とにかく腹が減った。3時間目と4時間目の休み時間、11時過ぎてからの10分間で、家から持ってきた弁当を何人かで食べていた。まずは連れションで2分取られるので、食事の時間、まさに8分。12時過ぎてからの昼休みは昼休みで、外に昼食。高校は、門が閉まらなかったので外に出て行くのは自由だった。わりと繁華街に近かったので、真面目でない連中は大体外に出ていた。職員会議で「校門を閉めよう」と先生方が話し合っていたらしい時、世界史の先生が授業中、「もし校門を閉められるようなことがあったら、君達は門を乗り越えて外へ出ろ」なんて、アジっていたりした。学食もあったので安く食べるには校内の学食が良いのだが、ちょっとまともに食べようと、うどんとかオムライス以外にもう一品取るとそこそこの値段になった。味のこともある。それなら、というので、勢い外に食べに出る。

 

 在学3年間中、2度学食が潰れた。

 

 東門、正門だったかな、のそばに「三国(みくに)屋」さんという食堂があった。まぁ、我々、抜け出してくる高校生相手だったのだろう。3時間目と4時間目の間に弁当を食べてしまったクラスの仲間は、昼休みによくここに焼きそばを食べにきていた。焼きそば頼んで、棚から勝手に稲荷ずしとか取って食べるというスタイル。

 ある時、いつもの連中と休み時間に一緒に弁当を食べて、昼休みは校外に出ていた。秋の修学旅行で同じ班になる連中と、その中にもちろん居たO澤君達と三国屋さんで焼きそば食べていたら、O澤君が「つえ君、箸の使い方おかしいんちゃうか」と、衝撃的な指摘をした。生まれて17年間、箸を使い始めてから何年か知らないが、晴天の霹靂(へきれき)とはこのことであった。「うそぉ、ちゃんと食べれるし、豆もつかめるし・・・」と反論するも、「見てみ、こうやろ。つえ君、箸開いてみ。ほら、鈍角やんけ。」なにが鈍角で鋭角か知らないが、確かにO澤君の持ち方と違う。O澤君が正しいのは、他の連中の箸の動きから明らかであった。

 

 箸の持ち方がおかしいのを次に指摘されるのは、うちの奥さんが登場する14年後を待たねばならない。

 

 文化祭では、映画を撮ろうということになって、8ミリビデオを持っているH君のビデオで撮ることになったが、監督はなぜかO澤君。O澤監督。なぜビデオ撮影に手馴れていたH君でなかったのかはもう忘れた。文化祭当日直前は、H君だったかS君だったか、これももう忘れたが、泊り込みの編集作業をしていた。なんであんなに燃えていたのか。

 おい、17歳。

 

 高校3年になっても、またO澤君と同じクラス。

 

 3年になると色んなことにみんな手を抜いていたらしく、体育の時間、50メートル走で必死に走っていたのはどうやら私だけだったようだ。こっちは意味もなく必死で、1回だけ50メートル走、7秒を切って6秒台で走れて満面の笑みであった。たぶんストップウォッチ係りのタイミングだろう。2度と7秒を切ることはなかった。陸上部のクラスメイトはさすがに早い。軽々6秒6とか出していたと思う。でも、野球部の連中は明らかに手、もとい、足を抜いていた。体育祭でクラス対抗のリレー選手を4人だすことになっていたが、そんなこんなで、リレーの4人の中に入ってしまった。生涯唯一のリレー選手であった。もちろん、本当は、私より早い連中がクラスになんぼでも居たのであるが。

 体育祭は例年、誰も見向きもしない、低調な時間が流れるのが常であった。早々に、昼ごはんを校外に食べに行くべし。出番以外はグラウンドから消えるべし。

 そんな中でリレーの番になる。何番目の走者になっていたのか全く忘れたが、バトンを貰った覚えと、渡した覚えがかすかにあるので、第2か第3走者だったのだろう。バトンを貰って走り始めて、最初のカーブのところ。

 

 全くもって。見事に。こけた。

 

 傷ついた。誰も見ていないとはいえ、やっぱりちょっと傷ついた。

 砂を落として、傷を洗って、校舎の3階の教室に一人戻った。自分の席に座って、誰も居ない教室で、一人、たそがれていた。

 「つえくん、気にすんな。」

O澤君がいつの間にか教室に入ってきていた。気づかなかった。

 「あいつ、カーブでインから追い抜こうとしてきたやろ。あんなん、つえくんに引っかかるの当たり前や。インコースから抜こうとするやつが悪い。抜きたいんやったら、直線で勝負しろよな。カーブでインから攻めるのは無しや。引っ掛けられただけや。つえくん気にすんなよ。」

 O澤君だけがグラウンドを離れて、声をかけにきてくれていた。

 すてきなやつだと思った。

 

 日本史の授業があったから、ちょっとさかのぼって高校2年のことだったのだろうか。1985年頃のこと。ちまたでは、「1999年7の月に世界が滅びる」という、「ノストラダムスの大予言」なる嘘っぱちで金儲けをしているであろうマスメディアの連中が跋扈していた時代のこと。O澤君はいかにも馬鹿らしげに、教室にたむろしていた我々の前で

「お前ら、日本史で末法思想、習ったやろ。結局、なんもなかったやんけ。おんなじおんなじ。いつでも、この世が破滅するとか言うやつおんねん。」

 かしこいやつだと思った。

 平安時代の日本史の知識、そんなふうに現代に活かすかぁ。

 

 デジタルカメラなんかなかった時代のことだ。修学旅行とか体育祭とか遠足とかでは写真屋さんがくっついてきて写真を撮っていた。日頃は誰かが持ってきたフィルムのカメラでお互い撮りあっていた。高校3年間の数少ない写真の多くは、O澤君と一緒に写っている。

 

 高校を卒業してからどれくらい経っていたのだろう。15年は過ぎていたが20年は経っていなかった頃、O澤君は奥さんと一人娘さんを連れて、車で大阪から訪ねてきてくれた。当時は村だった土佐山村の、何もないのが売りの宿に泊まり、翌日は100キロメートル以上離れたところを流れる四万十川を見に行ったそうだ。その帰りに立ち寄ってくれた。

 O澤君と、高2のときに一緒のクラスだった奥さんと、一人娘さん。こちら私と奥さん。息子を授かる前のこと。5人で仁淀川沿いのレストランに行って昼食をとり、その後、伊野大橋のたもとの仁淀川河畔まで戻った。美しい仁淀川で遊んで、娘さんは満足げに見えた。

 「昨日、四万十川まで、すっごい車で走っていったのに、何や、めっちゃきれいな川、近くにあるやんけ。昨日のドライブはなんやってん!! こんなん知ってたら最初っからここに来たのに。」と、楽しそうに川で遊ぶ娘さんと奥さんを見ながらO澤君が言った。「二人、車で寝てたし。」

  

 高校時代。携帯電話なんかなかった時代のことだ。電話は固定電話。

 O澤君一家が高知に来てくれてからのち、高校を卒業してからでは30年近く経ってから、初めてO澤君のご実家を訪ねた。ある年の正月を過ぎてから。ご実家の場所は高校時代から知っていたが、お邪魔するのは初めてだった。昔からある商店街の老舗の呉服屋さんである。

 お店の奥のお座敷に案内され、O澤君のお父さん、お母さんと話をする。お父さんが仰る。「『ちょっと師匠に電話するわ』とか言って、試験前に良く、つえ君に電話してたんはそこの電話からよ。いっつも長電話やったね。」固定電話があった。

 一瞬、何のことか判らなかったが、突然、全て、思い出した。定期試験なんかの前に、O澤君から数学と物理に関して、「ちょっと教えて」とか言って、電話がかかってきていたこと。電話があって「つえ君、ちょっとわかれへんねん。数学の○ページの問題あるやろ。どうやんねん」みたいな感じで、試験前に電話があったことを、急にありありと思い出した。すっかり忘れていたのに。

 突然、高校生。

 

 そういえば、試験前には結構しょっちゅうO澤君と電話で話していたのだった。家の電話は2階への階段の上がり口にあったので、階段に腰掛けて、「ちょっと待って。あの問題はやぁ、ちょっと待って、どうすんねやろ」とか時間を稼ぎながらも、いつも1時間くらい、ちょっとくたびれてくるまで電話で一緒に問題を解いていた。携帯で計算式の写真も送れない固定電話の時代。電話だけで数式のやりとりをしていた。今思うと、一応将来理論物理屋という職業になる私が、将来建築設計家になるO澤君に物理と数学の問題を解説するという、至福の時間だったのだ。O澤君の質問に何とか答えていたのだと思う。というのは、懲りずに、試験の前にはいつもO澤君から電話がかかってきていたから。試験前の数日間、1時間ずつの電話だった。O澤君のおかげで、今、はたち前後の若者に、まがりなりにも物理学を教えることができているのだと思う。

 

「今日はつえくん、ご実家には寄らないの?」とお父様が仰る。

「はい、ちょっと用事で京都に出ないといけないので。」

「帰れるときには、帰ってあげなさいよ。」

「はい。」

 

 O澤君は、奥さん、娘さんと暮らす、自分が設計に携わったマンションの自宅の自室のパソコンで、年賀状を作っていたそうである。その年賀状は送られてこなかった。O澤君はご実家のお座敷に仮にしつらえられた壇の上の写真立ての中から、ひとりこちらを見ていた。