59.教育を金儲けの言葉で語るな

 High Intelligentな我が県の県庁所在地である我が市には、「○○市民の大学」という(○○には市の名前が入る)、市民に向けた生涯教育の先駆けが40年前から続いている。1回90分15回の講座を2講座、年間4つの講座が開設されている。様々な分野の講座が開かれてきており、私も微力ながら講師として登場させて頂いたこともある。そんな中、記念すべき40年目、第80期の市民の大学で1回分の講師を務めさせて頂いたのだが、最後の回に、主催委員長のご指名で総合討論に呼ばれ、出された質問に答えなさいと言う厳命を受けてしまった。質問は『国、宗教、民族、収入などによって、人々が分断され対立し内向きになっているが、困難を克服するには、みんなが心を一つにする必要がなかろうか』といった趣旨の内容の質問であった。あんた、ちょっと教育に絡めて答えなさい、という御下命が下された(頭痛が痛いと同じだなぁ)。

 

 こんな大それた問題に答えられるはずもなく、日頃大学で教育に携わっていて思っていることを、良い機会だから言語化しておこうと頭を切り替えた。「○○市民の大学」で当日話したこと、話さなかったことを記載したりしなかったりして、考えたことを忘れないように、とりあえず備忘しておく。

 

 質問に『国』と『収入・・によって・・分断』というワードがあったので、そこから解きほぐした。まず、「国民・国家」であるが、これは地域社会とともに、私たちが頼る共同体の一つであり、共同体であるからには簡単になくせない(なくならない)。共同体としての国家の社会制度であるが、共同体の成員、赤ん坊、子供、老人、病人等々、すべての成員が十分な自尊感情を持って暮らせるように制度設計が為されていないといけない(内田樹)はずだ。これが前提。最近の社会は、ネットで言いたい放題の意見を世論と履き違えて、この前提が狂ってきている。

 こうして、教育の重要な目的として、共同体を担う成員の成熟を支援することが挙げられるはずだ。

 しかし、「格差社会」と言われる現在、共同体の成員が単一の基準、「収入」あるいは「お金の多寡」で格付けされてしまっている。金持ちが善となっているわけだ。そこで、多くが「経済(ビジネス)の論理」で価値判断されることになってしまった。つまり、お金に換算してどうか、役に立つか立たないか(役に立つものは金儲けにつながる)、得か損かが

判断基準であり、判断規準となっている。

 この格差社会が醸成されてきたのには、「公正な競争」という幻想が欠かせない。実際には等しい条件で出発できるわけではない。特に老人や病人などのいわゆる社会的弱者、あるいは裕福でない家庭の子供、皆が同じ条件で競争の出発点に立てるわけではない。しかるに「公正な競争」という幻想に立って、勝ち組、負け組と分けたり、都合が悪いと何でも自己責任論にして、共同体の責務を放棄する風潮が強い。老人や病人は未来の私である、子供は過去の私であるという想像力の欠如により、今健康な「私」は、共同体から支援を受ける人たちを強く非難する。支援を受けざるを得ないのは「自己責任」として切っていく。これでは、すべての成員が自尊感情を持って暮らしていけるわけがない。

 

 教育の主目的の一つは「共同体を担う成員の成熟を支援すること」である。現状は、「有用な知識を身に付け、稼ぎの良い職に就いて収入を得るという自己利益の増大の為」の教育が為されているのではないか。自分の子には自分の資金で教育を受けさせるので公教育は必要ない、どうして貧しい人々の子供に公的な教育を与えて、将来の自分の子供の競争相手を増やさにゃならんのだ、という、もともと自己利益増大を目的とした初期のアメリカ合衆国国民の考え方(内田樹)に戻ろうとしているように思える。

 自己利益増大が教育の主目的になってきているのは、役に立つこと(実学)を教えろ、という大きな声の主張によく顕れている。ある文化功労者は、2次方程式を解かなくても生きてこられた、2次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべき、という趣旨のことをかつて述べられたようだが、未来の文化・文明の担い手、現状の問題を解決していく者は誰かという視点も想像力も欠けている。私にとって役に立たないので、教育内容から小説など追放してしまえと言うに等しい。

 

 また、最近はしばしばグローバル化という言葉を耳にも目にもする。大学でも「グローバル人材の育成」など恥ずかしげもなく掲げる。グローバルとはおそらく全地球規模でという意味合いだろうから、グローバル資本主義、それを担うグローバル企業というものにとって、国民・国家は不要である。このような企業にとって、共同体の相互扶助など、嫌悪すべき最悪のものだろうと想像できる。無償の貸し借りではものが売れないし、お金が動かないとビジネスチャンスもない。だから、徹底した個人主義が満たされることを願うだろう。そこには共同体も、共同体の成員の自尊感情を持った生活も、ない。

 また、グローバル資本主義にとっては貧困層の増大はありがたいはずだ。安い労働力が手に入るうえ、賃金が安い多くの人々は単一の消費行動をとりやすいだろうことは目に見えている。そうすると、同一のものを大量生産すればよいのだから物を作りやす。

 企業が帰属する国家も不要である。法人税の安い国に便宜上、本社を移しておけばよい。共同体を支えるなんていう意識もない。共同体に対する責任は希薄である。

 これが格差社会を構築する実態だろう。グローバル人材の育成とは、格差社会を助長できる人材、つまり喜んで地球のどこにでも赴任し、リンガ・フランカとしての英語で交渉できる(コミュニケーション能力重視の教育が必要な所以だ)が、いつでも取り替えのきく人材を養成することを言う(内田樹)。

 

 さらに言えば、金儲けにはスピード感が必要で、それは株の売買で儲けようとする人たちの機を見て敏なることをみればわかる。すべては金儲けの言葉で語るので、「決められる政治」などという、民主主義のある意味否定に走る政治家を持ち上げることになっている。そもそも民主主義政体とは変化をゆっくりさせる政体であり、それはどういうことにつながっているかというと、もし間違った判断がされても取り返しがつくことにある。とにかくものを決めるまえに、あぁだこぉだと言って考えている。独裁では間違った判断がされたときには修正がきかず一気に崩壊することは、第2次世界大戦の枢軸国を見ればわかろうはずなのだが、神話以外の実際の歴史なんて役に立たん学問だから追放してしまえってか。

 民主主義政体に関して、1970年代のある中学校の民主主義について触れておこう。中学校の「憲章」を生徒会が中心になって決める際に、まずは各学級のクラス会で検討を重ね、最後に生徒会総会で決定するというプロセスをとったようだが、何とも時間がかかる。先生主導で、原案を提示して一気に決めるというのではない。憲章の1番目、最初は「しっかり勉強しよう」だったのが、クラス会を重ね、「授業を大切にしよう」に変わる。さらに

「私たちは授業に積極的に参加し発言します」となるが、最終的に決まった憲章の1番目は「真実を求め学びます」。最初の「しっかり勉強しよう」からしっかり変わっている。民主主義は時間がかかるが、それ相応の結果を産む一例だ(1,700人の交響詩 横須賀市立池上中学校の教育記録(1978年))。

 

 先ほど、教育の目的の変化、「有用な知識を身に付け、稼ぎの良い職に就いて収入を得るという自己利益の増大の為」に変化してきているとした。まさに、経済の論理、すなわち利益誘導に他ならない。共同体の成員の成熟を目的としないので、「ネットで金儲けするから学校の勉強はもういいや」とか「そもそも金儲けに興味ない、そこそこの生活ができればいいから勉強はもういいや」とか考える若者が現れるのは必然だ。「さとり世代」という言葉があるそうだが、欲が無い、恋愛に興味が無い、休日は自宅で過ごす、無駄使いをしない、気の合わない人とは付き合わない、ネットの利用で知識は豊富、無駄な努力や衝突は避ける、高望みはしない、安くてそれなりのものを好む、コストパフォーマンス重視、といったことになる(ここまで書いてきて、結構いい奴だと思えなくもないが・・・)。共同体を担う成員の成熟は望むべくもない。

 

 「グローバル人材の育成」に端的に表れているが、教育に経済の論理を持ち込んではいけない。今は「教育のビジネス化」が進行している。ここで言う「教育のビジネス化」は、教育で金儲けしようという意味ではなく、教育がビジネスの言葉で語られ、変質しているということである。たとえば、大学に求められている「シラバス」。15回の授業内容を事細かに書き込み、さらにはこの授業で何を学び、何を目的とし、どういう方法で学び、何ができるようになれば単位が認められるか、を記載する。「この授業で学べば何が得られるのか(どんないいことがあるのか)あらかじめ提示する」ものである。学生はシラバスをみて、「良ければ購入してやろう」という消費行動を起こすわけだ。「学び」とは、自分がこれから受ける教育の内容をまだ理解していないことを学ぶのであり、今、自分は何のために何を学び、その結果自分がどう変化していくのか、学び終わった到達点がわからないもののはずだ(内田樹)。それをあらかじめ提示するというのもどうかしている。大学のなんとかセンターの教員が得々と説明していたが、少し意地悪な質問をして誘導したところもあるが、いみじくも「シラバスは学生との契約です」と、しらっと言ったので、唖然とした。あぁ、ビジネスなのね。学生さんは、その授業の機能をあらかじめ知っていて、いろんなスペックを比較して、これは使えると思ったら、費用対効果の観点から契約または商品としての授業を購入する(またはしない)のね。

 そう、費用対効果。安いお金で価値あるものを手に入れるのは「賢い消費者」であり、大学の授業も、「最小の努力(安いお金に相当)」で「最大の成果(価値あるものに相当)」を得るのは、「賢い消費者」として当たり前の行動なのだ。だから、最低の学習時間で単位をとれれば良いということに繋がる。ビジネスの言葉で教育・学びを見ている人たちは、こういう結果になることは理解していないのだろう。

 かつて、企業は、学生さんが入社後、自社に適した人材育成を企業内で行っていたが、今や、「即戦力を育成しろ」という大きな声がまかり通っており、グローバル資本主義を担う方々は、高等教育の「企業予備校」化を望んでおられるようだ。そこには、共同体を担う成員の成熟、未来の文化・文明を支え、現状の問題解決を委ねる成員の育成という観点は無い。

 「自分の物差しを持て」(梅原真)とはよく言われることではあるが、社会に出ている成年に対してはそうかもしれないが、学びの途中の若者は、教育を受け、学んでいく中で、自分の物差しでは測れないものがあるということに気づくことも大事である。シラバスを見て自分の物差しで価値を判断して、その授業を「契約」するのではない。測れないものはシラバスを見ても分からないはずだ。自分の物差しを更新するためにも、なんだかわからない学びは大切なのだ。

 

 と、内田樹先生の何冊もの著書に依拠して(いちいち出典を記さないし、いっぱい読んだので、どの本で見たのか、もう不明)、ごちゃ混ぜにしながら、まだ話し続ける。

 

 簡単に変えてはいけないものの代表として、たとえば司法が挙げられよう。量刑等の判断が目まぐるしく変わってはいけないし、時の政権の判断で変わってもいけない。司法などは制度資本と呼ばれるが、制度資本は簡単に変えてはいけないはずだ。教育も制度資本であり、時のイデオロギーや市場の動向で教育を変えるべきではない。

 

 共同体を担う未来の成員の成熟を支援するためには、教育を金儲けの言葉で語ってはいけない。格差社会容認するような教育を行ってはいけないとも言えよう。

 

 ご質問には『国』『宗教』『民族』という単語もあった。

 私達「ホモ・サピエンス」はおよそ20万年前に誕生した。ヒト科ヒト亜科ヒト属である。ヒト科にはヒト亜科の他にオランウータン亜科もある。ヒト亜科にはヒト属の他に、チンパンジー属が2種(チンパンジーとボノボ)、ゴリラ属が2または3種いる。しかしながら、ヒト属は私達ホモ・サピエンス1種のみである。諸説あるとはいえ、2万数千年前にホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人をおそらく滅ぼした。1万2千年前まではフローレンス人も生存していたが絶滅し、ヒト属はホモ・サピエンス1種になる。ネアンデルタール人を滅ぼしたのが事実であれば、ホモ・サピエンスとはそういう傾向のある種族なのだろう。如実に現れているのが、古代バビロニアハンムラビ法典かもしれない。ハンムラビ法典196には「もし人が人の息の眼を潰した時は彼の眼を潰す」、197には「もし人の息の骨を折った時は彼の骨を折る」、200には「もし人が彼と同格の人の歯を落とした時は彼の歯を落とす」とある。いわゆる、「目には目を、歯には歯を」であるが、これは、復讐を許しているというよりは、それ以上の報復を禁じた法なのである。私達ホモ属は、報復しすぎる傾向があるので、復讐を同害報復に留めさせる意味がある。私たちホモ属としての性向を理解しておかないといけないのだろう。ご質問には『みんなが心を一つにする必要』についてあったのだが、心を一つにすることは難しいし、またむしろ必要ないと考える。たとえば、『宗教』などでは信じる対象が異なっている。厳しい環境下では「神との契約」という形の一神教が発展している。神の教えとしての律法や戒律を守ることで、選ばれた民は神により救済が実現されると考える。これはやはり厳しい生活環境のもとでの考え方であろう。日本やギリシャなどは生活環境があまり厳しくなかったのか、神様は沢山いらっしゃる。日本などはすべてのもの・ことに神は宿る、八百万(やおよろず)の神だ。こうなると互いに心を一つにすることは困難だ。互いに相手の信仰を尊重する態度が必要と思えるが、ホモ属の習性からなかななに難しい。後天的に教育で獲得すべき事柄であろう。やはり教育は重要なのである。

 『民族』を考えても、培ってきた歴史がそれぞれ異なる。固有の文化をお互いに尊重すべきだが、やはりホモ属の習性で、自分のところが1番で他は劣っている、滅ぼしてしまえ、となってはいけない。やはり、お互いを尊重する態度は後天的に教育で獲得すべきであろう。ただし、現在の宗教対立は「格差対立」の側面が強いように思われる。

 

 というようなことを、質問に答える形で「○○市民の大学」でお話しした。おそらく質問者の質問の精確な回答にはなっていないと思ったが、教育の重要性を表に出しつつ、教育を金儲けの言葉で語ってはいけない、ということを、個人的な感想だと断ったうえで、10分間でお話しした。日頃思っていることを、内田先生に負うところ大ではあるが言語化する良い機会を頂いたと思って、市民の大学運営委員会委員長のご下命を受けて回答を考え、教育に絡めて話をまとめた次第である。