48.光速は、なぜか c

 46回、47回と、光の速さの話題が続いた。光速には c という文字を使うことが習わしだが、何故なのだろう。授業では、力は英語で force だから、F と書いて、質量は massだから m と書いて、加速度は acceleration だから a と書いて、ニュートンの第 2 法則は

    F = m a

だよね、とか話すが、さて、光速 c。

 

 光速の英語、speed of light のどこにも c が無いぞ? ラテン語で光は lux。ギリシャ語だと φωζ (fos)。ラテン語で速さは volo。英語では velocity なので、速度は v で表すことが多い。困ったぞ。ただ、ラテン語で速さは celeritas というのがあるので、この cかもと思ったが、光はどこへ。光速だと、 celeritas lucis か。

 

 どうやら、19世紀の電磁気学の発展に鍵があるようだ。

 

 静止した2つの荷電粒子(電荷をもった粒子)に働く力は、クーロンの法則として知られている(1785年)。力 F は、2つの粒子の電荷をそれぞれ q、Q とし、2 つの荷電粒子間の距離を r とすると

 

    F = k qQ / r2  ・・・(1)

 

となる。k は比例定数。

 荷電粒子が運動していると、2つの荷電粒子間に働く力は、(1)式に加えて、速度dr/dt、加速度 d2r/dt2 に依存した補正が加わる。ウェーバー (W.Weber, 1804-891)は速度に依存した(1)式の補正項を

 

    -qQ / r2 ×(1 / c2 )×(dr / dt)2

 

とおいた (k=1とした)。ここに、定数 c が現れた。この c は「定数:constant」の c から採用されたようだ。

 ウェーバーはコールラウシュ(R.Kohlrausch, 1809-1858)とともに、2 つの運動する荷電粒子間の力に現れる定数 c の測定実験を行い、

 

    c = 4.39×108 m/s

 

という値を得ている(1856年)。光速 3.0×108 m/s に近い定数であることに気づいていたらしいが、それ以上は突っ込んでいないようだ。

 

 実は、ウェーバーの補正項に現れる c は光速と関係があった。ウェーバーの c を cw と書いて、本当の光速を c と書くと、両者には

 

    cw = √2× c   (cw2 =2 c2 )

 

の関係があった。光速 c にルート 2 = 1.41421356・・・(一夜(ひとよ)一夜に人見ごろ・・・)を掛けると、4.24×108 m/s となり、近い測定値である。

 こうして、√2だけ違ったが、今も光速度ウェーバー・コールラウシュの c が使われているのではないのだろうか。そうであれば、定数、constant の c ということで、光にも速度にも関係ない文字なのだが。

 

 そういえば、研究室に、コールラウシュの Praktische Physik (実験物理学)の和訳本がある。第 3 巻を持っていないのではあるが。もともとの Kohlrausch のPraktische Physik の初版は1870年だ。ウェーバー・コールラウシュと時代が合わないぞと思っていたら、「実験物理学」の著者のコールラウシュは F. Kohlrausch (1840-1910)だった。その父がウェーバーと実験を行ったR. Kohlraussch。

 

47.光速の測定

 46回の、光の粒子説と波動説の話(粒子性と波動性ではない)のところで、水中での光の速さが空気中の光の速さよりも遅ければ、光の波動説に軍配が上がりそうなことを見た。

 そもそも、光の速さはどうやって測ってきたのだろうか。

 

 まずは、17世紀のガリレオ・ガリレイ(1564-1642)。ガリレオは正しく、光の伝わる速さは有限であると認識し、その速さを測定しようとした。離れた2点に人を立たせ、箱の中にろうそくを立てたものをそれぞれの人が持つ。初めに、こちらの人が箱の覆いを開けて向こうの人にろうそくの火を見せる。向こうにいる人は、こちらの人が覆いを取った t秒後に明かりを見て、明かりを見たら直ちに自分の箱の覆いを開けてこちらの人にろうそくの明かりを示す。こちらの人は、自分が最初に覆いを開けてから t 秒後に相手の光を目にする。この時間から光の速さを割り出そうとした。二人の距離を L [m] とすると、光速 c [m/s] は

    c = 2L / t

で求められるはず。しかしながら、 もちろん、光の速さが速すぎて、測定ならず。1638年の記述である。

 

 17世紀半ば、1676年頃、レーマー(O.C.Romer, 1644-1710)は、木星の衛星イオの公転周期が見かけ上変化していることを観測で明らかにする。木星の陰からイオが顔を出した瞬間の時刻を t1 [s] とし、イオが木星の前を通って裏側に消え、再び姿を現す時刻を t2 [s] とする。そうすると、イオの公転周期 T [s] は、T = t1-t2 となる。ところが、地球と木星の距離は変化しているので、最初にイオが顔を出した時刻での木星と地球の距離を d1 [m]、次に姿を現した時の木星と地球の距離を d2 [m] とすると、光の速さ c [m/s] で情報が伝わってくるので、地球から見て、イオが最初に顔を出した時刻は地球上では t1’ [s] となり、、次に姿を現した時刻は地球上では t2’ とすると

   t1’ = t1 + d1 / c ,     t2’ = t2 + d2 / c

となるはずだ。地球と木星との距離の変化は、地球と木星の相対的な速さを v [m/s] とすると、速さ×時間で動いた距離 d2―d1 になるはずなので、

    d2―d1 = v T

となっているはずだ。こうして、イオが木星の端から顔を出してから木星の周りを1周回って次に姿を現すまでに地球で観測した時間 T’ は

    T’ = t2’ - t1

     = t- t1 + ( d2 - d1 ) / c

     = T + v T / c

     = T ( 1 + v /c )        ・・・(1)

となる。レーマーは丹念に木星のイオの公転周期 T’ の変化を観測し、データを残した。そのデータに基づき、上の式から光速 c を導いたのは、オランダのホイヘンスであった。観測データから v=0 の時を見つけ、真の公転周期 T を見つける。また、v が分かれば、c が分かる。こうして、データを分析して光速 c が求められた。結果は、2.3×108 m/s であり、現在の値(近似的には3.0×108 m/s)とは、ずれているが、桁の108 は合っているのは大したものだ。

 

 18世紀、1728年になるとブラッドレー(J.Bradley, 1693-1762)は恒星の光行差の観測を行う。真上から雨が降ってきても、人が歩いていると、その人には斜め前方から降ってくるように感じられる。それと同じように、遠方の恒星からの光は、地球が動いていることで、本来の角度からずれてやってくるように感じられる。

 

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 話を簡単にするため、地球から見て天頂に恒星が位置しているとしよう。真上から雨が降るように、まっすぐ真上から恒星の光はやってくるが、地球が動いているために斜めから光が来るように見える。恒星からやって来る光が天頂となす角度を θ [rad] として、天頂の恒星から地球までに光が届いた時間を t [s] とすると、上の右図のような配置になる。地球の速さは v [m/s] とした。そうすると、三角法を使って

    sin θ= ( vt ) / ( ct ) = v / c  ・・・(2)

となるので、光行差 θ を観測し、地球の速さ v = 2πr / T から、(2)式を使って光速 c が分かるという寸法である。ここで、r は地球と太陽の距離、1億5000万km、T は地球の公転周期 1 年である。

 

 地上で光速を測定したのは、フィゾー(H.Fizeau, 181901896)であった。19世紀半ば(1849年7月)のことである。回転する歯車を使う。歯車の歯の個数を n 個、1秒当たり歯車は N 回転するとしよう。回転する歯車の歯の隙間を狙って光を発する。その光がうまく歯の間をすり抜けて、距離 L [m] 離れたところに置かれた鏡で反射して、戻ってくる。また歯車のところまで来るが、歯車は回っているので、次の歯のところにきていたら、戻ってきた光はそこでさえぎられる。丁度、1/(nN) [s] 経ってから光が戻ってくると、歯に邪魔されず、次の歯の隙間を通って光は戻ってくる。こうして、光速を c [m/s] として、速さ×時間で進んだ距離なので

    c × (1/(nN)) = 2L  ・・・(3)

が得られる。光が往復するので、光が進んだ距離は右辺の 2L となる。こうして、初めてフィゾーが地上で光速を測定した。3.15×108 m/s という速さを得たらしい。

 

 もともと、フィゾーは、パリ天文台のアラゴ(D.F.J.Arago, 1786-1853)の計画をもとに、フーコー(J.B.L.Foucault, 1819-1868)と光速測定の実験をしていた。フィゾーの友人フーコーは、フーコーの振り子フーコーである。4年間共同実験を行っていたが、異なるアイデアを持っていたらしく別々に実験するようになり、それぞれ単独で光速測定を計画した。フィゾーは前述の回転する歯車を用いたが、フーコーは回転する鏡を用いて光速を測定しようとした。先にフィゾーが空気中での光速を地上で測定したとき、それには 8600 メートル以上離れた 2 地点間での実験を要した。フーコーはテーブルトップ、4メートル程度の装置で光速を測定しようとする。

      

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 図のように、光源から回転する鏡、回転鏡に向かって光を発する。この光が回転鏡M1で反射し、回転鏡を取り囲むように設置されている球面鏡 M2で 反射する。Mと M2の距離を L1 [m] としよう。光がここを往復する時間 t [s] は、

    t = 2L1 / c

だ。往復だから、L1 の2倍。光が球面鏡で反射されて回転鏡に戻ってきたとき、回転鏡は少し回転している。回転鏡の回転の角速度を ω [rad/s] とする。すると、光が2つの鏡の間を往復した時間 t のあいだに、回転鏡は角度

    Δθ=ωt = 2L1 ω/ c

だけ回転している。球面鏡から戻った光は、少し回転した鏡 M1で再び反射される。回転していなかったときには光は来た道を帰るが、鏡が Δθ [rad] だけ回転しているので、すこしずれて反射され、図の点線の道をたどる。どれだけずれるかというと、回転鏡に入射するときに入射角が Δθ [rad] ずれていて、反射の法則から反射角と入射角は同じだから、反射する際にも反射角が Δθ [rad] ずれる。あわせて 2×Δθ [rad] ずれて戻っていく。光源にまで戻ると明るくて見えないので、途中で半透明の鏡を置いておいて、図のようにスクリーンに誘導する。回転鏡が回転しなかったときには光はスクリーン上のA点に来るはずだが、回転しているのでB点にやってくる。そのずれ Δx [m]は、回転鏡からB点までの距離を L2 [m] とすると、

    Δx = L2 ×2×Δθ

      = 4 L1 L2 ω / c   ・・・(4)

と得られる。こうして、回転鏡が回転していないときと回転しているときでのスクリーン上に来る光の位置のずれ Δx [m] を測定すると、(4)式から、光の速さ c [m/s] が測定される。

 フーコーは毎秒8000回転する回転鏡で、2.98×108 m/s という光速の値を得た。かなり正確である。

 また、回転鏡と球面鏡の間に水で満たした管を置いて、そこを光が通るようにし、水中での光の速さは空気中での光の速さからどれだけずれるかを調べた。そうして、水中の方が空気中より光の速さは遅いことを示し、46回で述べた光の波動説の正しさを示した(粒子説では水中の方が空気中より光速は速いはずだった)。友人のフィゾーはその7週間後に自身の実験でフーコーと同じ結論を得ている。

 パリ天文台のアラゴは両人の結果を喜んだそうだ。

 

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 パリに住んでいたとき、パリ天文台のそばのアパルトマンを借りて暮らしていた。モンパルナス大通り(Boulevard Montparnasse)とラスパイユ大通り(Boulevard Raspail)に挟まれた区画であったが、天文台が近くにあったので、少し行けば「アラゴ大通り(Boulevard Arago)」があった。シャルルドゴール空港からモンパルナスまでエールフランスの空港連絡バスに乗るとアラゴ大通りを通る。また、パリ天文台を通る子午線上には、ところどころ、写真のように南北を示すオブジェが埋められている。そこにはARAGO と記されている。

 

 

46.光の粒子説・波動説

 物理を専攻する学生さんたちは、高等学校の物理の教科書の最後の方で、光の波動性と粒子性を学ぶ。光は、電磁波としての波動の性質を持つが、光電効果コンプトン効果に見られるように粒子性も示すと習う。光の干渉や回折から光の波動性は早くに教わっているが、これは17世紀の話。でも、20世紀に入るとアインシュタインの光量子説がでて、粒子性も併せ持つんだと習ってくる。だから、ニュートンの光の粒子 “説” の話をしても、光量子と勘違いする、というか虚心坦懐に聞いてくれない。

 

 1700年代の初め、ニュートンの時代。ニュートンは光は粒子だと考えていた。粒子と考えて回折現象を説明しようとしている。ここでは光の屈折を考えよう。13回目に取り上げたことだ。この現象を「光の粒子説」ではどう説明しようとしていたか。「光の粒子性」で説明するのではないので、念のため。

 

 光の波動説では、水中での光の速さは、空気中での光の速さより遅くなる。

 

    c空気 > c水中

 

第13回で見たことだ。図の左側。

 

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 光の粒子説では、同じ屈折現象をどのように説明していたか。空気と水の境界面を考える。境界面では空気中も水中も、進む光の速さの成分は同じ大きさを持つと考えられていた。すなわち、斜めに進んできた光の、空気と水の境界面方向の成分、v水平 は、空気中でも水中でも同じ大きさを持つとされていた。光が空気中から水中に入ると図のように曲がる(屈折する)ので、境界面に垂直な水中での光の成分 v垂直水中 は、空気中での境界面に垂直な光の成分 v垂直空気 より大きくないといけない。図を見れば明らか。そうすると、光の粒子説で光の屈折を説明するためには、空気中と水中での光の速さの関係としては

 

    c空気 < c水中

 

と、水中の方が空気中より光の速さは早くないといけないことになる。

 

 空気中と水中での光の速さを測定すれば、光の波動説と粒子説のどちらがもっともらしいかがわかる。実験では、水中の光の速さは空気中より遅くなることがわかった。そうして、古典論の範囲内では光は波動であると結論されることになる。

 

 光が粒子性も併せ持つというのは、量子論まで行かないといけない。でも、こんな歴史の彼方に消えてしまったことは講義されないので、正しい(?)理論がいつも目の前にあって、人の営みが見えないんだろうなぁ。

 

45.コリオリ力・フーコーの振り子・台風

 ポルトガルコインブラ大学に滞在し、共同研究を行う。日本にいると相当量の研究・教育以外の大学運営・人事管理などの仕事に追われ、落ち着いて物を考える時間が無い。海外の研究室に滞在させてもらって、適度に議論しながら研究を進めるのが最近の研究方法と化してきている。コインブラ大学は、日本の富士山と同時期に、世界遺産に指定されている。世界遺産で講義を聞く学生さんは如何なる心境なのだろうか。

 

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 滞在するのは物理教室。といっても、巨大な建物1棟丸々である。玄関を入るとフーコーの振り子が取り付けられている。振り子はゆっくり揺れているが、時間がたつと、振り子が振動する面が回転していく。その原因は地球の自転にあるので、地球の自転を目に見せる実験ともいえる。実際に、フランスのフーコー(1819-1868)が、パリのパンテオンで実験をするときにおそらく招待状に記したであろう言葉が、コインブラ大学のフーコーの振り子にも書いてある。

 

          「Je vous invite à voir toruner la Terre」

       (地球の回転を見るよう、私はあなたを招待します。)

 

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 フーコーが初めて実験したパリのパンテオンは、フランス遊学中に自宅のアパルトマンからパリ大学に通う途中にあった。もちろんそこでも、フーコーの振り子は揺れている。

 

 地球は自転しているので、地上にいる私たちは慣性系に居るのではなく、回転座標系に居る。回転座標系から振り子の振動を見ているので、振動面が回転していく。すなわち、振り子の振動面が回転していくのを見るということは、地球が自転(回転)しているのを見ているというわけだ。

 

 なぜ、地球が回転していると、振り子の振動面が回転していくか。これは、回転座標系という非慣性系で運動を見ていることにより生じる見かけの力の影響である。この見かけの力をコリオリ力という。コリオリは人の名前。

 

 大学の物理で習う程度の問題なので、ここではごく直感的に見ておこう。

 

 まずもって、簡単化して、地球を北極の真上から眺めてみよう。地球は反時計回り(左回り)に自転している。このとき、北極点から振り子が図1のAの方に揺れたとすると、地球は自転しているので、Aにいた人は回転してBの位置にいるだろう。ちょっと図は極端に描いているが。回転座標系、すなわち地球にいる人は、自分に向かってきた振り子の重りは、上から見て右にそれていくように見える。振り子が戻っていくときにも振り子の進行方向に対して右にそれるように見える。これを繰り返すと、振り子の振動面は回転していくように見えるというわけだ。振り子の振動面は回転せず自分が回転しているのだが。

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 今は北極で考えたが、適当な緯度のところでも原理は同じだ。ただ、極では振り子の振動面は1日1回転するが、適当な緯度では回転の角は小さくなり、赤道では零になる。緯度がどれだけなら、どれだけ回転するか計算できるが、三角関数出てくるのでここではやらない。北半球の極以外では、北に向かう物体は右に逸れていくように見える。これが見かけの力、コリオリ力の影響だと考える。この計算もここではパス。回転座標系で運動方程式を立てたら、見かけのコリオリ力が出てきて、それを取り込んで運動方程式を解けば宜しい。でもここでは直感的に理解できたらよしとしよう。

 

 コリオリ力は夏の終わりから秋ごろ、特によく目にする。台風の風である。

 台風は発達した低気圧であるので、気圧の高い方から低い方へ空気が移動するため、台風の目の方に向かって風が流れる。このとき、北半球では、見かけの力、コリオリ力のため、風の進行方向に対して右側に逸れるように流れていく。もし、台風が周りの空気を引き込む強さと、コリオリ力の大きさが等しければ、空気の流れ、すなわち風は台風にひこまれずに、左回りに回るだけだ。台風の目に引き込まれようとしても、まっすぐ目の方には進まず、右に逸れる。釣り合っていると引き込まれず、目の周りをくるくるまわる。ところが、空気を引き込む方が実際には強いので、風は台風の目の周りを左回りに回りつつ、目の方に吸い込まれる。こうして、図2の右のような風の流れになる。これが、経験することだ。

 

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44.夏の終り

 子供の時分から、何かあるたびに結核を疑われた。

 小学生時代。ツベルクリン反応では要検査に廻されるもいつも何もなし。面倒なので、注射された日は家で注射された場所を手でこすって、だいたい良さそうな大きさの赤い丸を注射痕に作っていた。

 

 中学になると成長期なので体の成長に体の機能が追い付かないのかして、時々貧血状態になっていた。2年生のころ、微熱が続くので診療所に行くと、やはり結核を疑われた。検査するも何もなし。なぜか頭に中国伝来の針を刺された。その医者、その頃、中国鍼灸がマイブームだったのだろう。

 

 高校1年のとき、体育の時間でハンドボールをしていたときのこと。相手チームの仲の良い友人がシュートをしようとしたときに、誰かがその友人を引っ張った。で、彼はバランスを崩し、運悪く、放ったシュートの軌道がそれて、至近距離から私の左目に直接当たった。

 

 脳震盪。

 

 しばらくして立ち上がったが、どうも左目がもやもやして見にくい。別に痛くもかゆくもないが、視界に白黒のオーロラが架かっているようで、目の中で何かゆらゆら揺らめいている。高校から家に帰って、やっぱりおかしいので親に言って眼医者に行く。そうしたら眼底出血しているのでまずい、今日はとにかく風呂も入らず安静にしろ、ここではどうしようもないので大学病院紹介するから明日すぐに行け、そうでないと失明するぞ、と散々脅かされた。

 

 でも、痛くもかゆくもない。目を開けていても目をつぶっても、いつもオーロラが見えるだけ。

 

 失明するのも、やだから、翌朝、紹介された私立大学の大学病院に電車とバスを乗り継いで行く。その日は眼科の診察日では無いらしく、インターンに見てもらった。

 目薬を差される。といっても、目に潤いを与えるためではなく、これから目の奥を見るので、光を当てても瞳孔が閉じなくするための薬であった。効き目が出てくるまで待つこと30分。だんだん瞳孔開いてくるので、待合で本も読めなくなる。瞳孔開ききった状態でインターンに見てもらうも、左目いじりながら、

 「あっ、しまった!」

とか言いよる。何ミスってんだよ、ミスっても患者の前で声に出すなよ、と思うが、未熟そのもののインターンだから仕方がない。やつも医者になったのだろうか。

 

 数日後、正規の医師の診察の日に再び大学病院を訪れる。結果は網膜剥離眼球振盪と硝子体出血。網膜剥離して眼球に血がわっと飛び散って、それが固まって糸くずのようなものになって、それが集団になってうごめいてオーロラのような、いつも影が見えるようになっている。眼球の血を取り出すわけにもいかず、40年近くたった今も、左目の視界にはオーロラが揺れている。

 

 どうやら模範的な眼底出血だったらしく、何度か大学病院に通ううちに、ある日、眼科医である大学教授が診察するときにインターンだか学生だかを大勢引き連れてやってきて、

 

「綺麗な眼底出血だからよく見ておくように。」

 

とか何とか言って、学生たちに薬で瞳孔開ききった私の左目を順々に覗き込ませよる。なかにはスケッチしている奴もおる。なんなんだ、大学病院。

 

 眼底検査では他の病気も見つかることが多いらしい。そこで、やはり、おきまりの結核を疑われた。なんで、眼底覗き込んで結核がわかるのかは知らないが。そこで、目の治療に加えて結核検査に回されるも、やはり異常なし。もはや、馬鹿々々しく感じるレベルに達していた。

 

 結核と言えば、咳して喀血して早死に、という沖田総司石川啄木太宰治なんかの偏ったイメージしかなかったので、いつも結核かと疑われると、二十歳までには死ぬのかと思っていた。ちょっと歴史好きで、戦国時代の竹中半兵衛重治が良いなぁと思っていた頃だった。竹中半兵衛結核だった。四国松山の正岡子規結核だ。そもそも筆名の「子規」はホトトギスのことで、中国の故事では、蜀の皇帝になったある男が、帝位を譲ってから亡くなったあとホトトギスに化身したが、蜀が秦に滅ぼされ、悲しみの余りそのホトトギスは血を吐くまで鳴き、くちばしが朱くなったと言われており、それで、結核で喀血していた正岡子規が自分の筆名を「子規」とした、と聞いたことがある、のかどうだったか、後年、松山の記念館に行ったときに解説を読んだのか、したことがある。

 吐血は黒いが、喀血は朱い。

 自分も二十歳で喀血して死ぬ。

 しかし、予想は全く外れた。

 

 哺乳動物の寿命は、だいたい心臓の鼓動が 20 億回くらいで一定していると読んだことがある。「こんな計算をした人がいる。・・・寿命を心臓の鼓動時間で割ってみよう。そうすると、哺乳類ではどの動物でも、一生の間に心臓は二十億回打つという計算になる(ゾウの時間ネズミの時間、本川達雄、中公出版)。」ヒトの心拍数は1分間 60 から70 くらいだそうだ。間を取って 65 とすると、20 億回拍動するための時間は

 

  2000000000 (回) ÷(365.25 (日/年) × 24 (時間/日) × 60 (分/時間) )÷ 65 (回/分)

   = 58.50 年

 

となり、寿命は 58.5 歳となる。なんだ、合ってないじゃないか。ちょっと短い。平均寿命 80 歳とすると、27 億回くらい拍動してくれないと困る。

  2700000000 (回) ÷(365.25 (日/年) × 24 (時間/日) × 60 (分/時間) )÷ 65 (回/分)

   = 78.97 年

 

これでほぼ 79 歳の寿命だ。

 

 子供のころから人より心拍数が多かった。小学校や中学校で踏み台昇降なんかしたら、1 分間に 170 回くらいの脈拍になって驚かれていた。今でも、1 分間の脈拍は安静時に 80 回を下回らない。ということは

 

  2700000000 (回) ÷(365.25 (日/年) × 24 (時間/日) × 60 (分/時間) )÷ 80 (回/分)

   = 64.16 年

 

ちょっとやばいぞ。こんな計算せずとも、

 

    78.97:(1 / 65)= x :(1 / 80)

 

から、

 

    x = 78.97÷80×65 = 64.16

 

と、比の計算で出る。二十歳ってことは無いが短そうだ。でも。

 予想は全く外れる。

 ことにしておこう。

 それよりなにより、心臓の鼓動一定の法則があるのなら、運動せずに常に安静にしておいた方が心拍数は少なく抑えられるので長命になるはずだが、適度の運動は健康に良いというは、なんなんだかなぁ。まぁ、第0近似くらいに考えておこう。

 

 二十歳までに結核で死ぬのかと思っていた中学時代。中学 2 年のことだ。2 年のクラスは 7 組だったが、2 年 7 組の近くに 1 年生の何組かのクラスの教室があった。休み時間などに必然的に 1 年生とも出会う。

 その中に、今で言うところのイケメンの男の子が居た。カッコいいというか。中 1 だから可愛いというか。カッコ可愛いというか。何か気にかかった。

  

 1 級下の T 君。小学校は同じだったのだろうが、いかんせん、私は小学 5 年の 1 月に転校してきたので、300人近くいる同級生ですらよく知らない。ましてや、1 学年下にどんな子が居るのか知る由もなかった。中学に入って 2 年たって、初めて見かけた。

 

 中学校に入学した早々、同級生の W 君と知り合ってギターを教えて貰っていたころのことだ。W 君が貸してくれた LP レコードに入っていたオフコースの「夏の終り」をよく聞いていた。いきなりサビの A メロ(ディ)で入り、間奏置いて B メロで進行する。そのあとサビに戻るのかと思いきや、短く別の C メロが挿入されてからサビの Aメロに戻るという構成だった。C メロのところが気に入っていた。

 

 中学 3 年になった。生徒会の役員選挙が 4 月にあったが、2 年生になっていた T 君が立候補した。3 年になっていた W 君も立候補した。全校生徒による選挙で 2 人とも当選した。私は、学級代表になっていて、学級代表で組織する議会の議長に選ばれた。議会の議長も生徒会執行部入りして、生徒会役員とともに生徒会運営をすることになっていた。それで、1 級下の T 君と直接話をし、彼の声をきくようになった。

 

 すぐに仲良くなった。生徒会の集まりだけでなく、休みの日に一緒に自転車で出かけることもあった。学年が違っていたが、何だか安心して話ができた。学年は違うとはいえ生徒会室などで話をしているのに、家で電話で話をすることもあった。あの頃のこと今では、曖昧な記憶と鮮明な記憶がないまぜになっている。何を話していて盛り上がっていたのかは、もう覚えていない。

 

 一足先に中学を卒業し、1 年後、T 君も中学を卒業した。お互い、別の高校に進んだ。それでもよく電話で声をきいた。学年が違い、高校も違うのに、何をそんなに話があったのかも覚えていないが、中学卒業後も交流が続いていた。

 

 高校在学中から、T 君は劇団に所属するようになった。並行してモデルの仕事も始めた。電話でそんな話を聞いていた。そりゃぁ、カッコいいもんなぁ。量販店の広告の服のモデルをしたとか、カラオケで流れる映像に出演したとか、色々活動を聞かせてくれた。ばったり彼を何かの媒体で目にすることを楽しみにしていた。

 

 T 君が高校 3 年生になっていた頃、私は家を出て、大学 1 年であった。それでも、二人で会って話すことがあった。あるとき、T 君は大学進学をしないことにしたと言った。周りの友達が大学進学をして過ごすであろう 4 年間、劇団で演劇に賭けてみたいんだと言った。驚いたが、そんな生き方もあるのか、大変な決断だなと思った。

 

 T 君は高校を卒業し、劇団で本格的に演劇をするようになっていた。あるとき電話がかかってきて、公演があるから見に来てくれないかと言った。主役であった。帰省していた高校時代の仲の良い友人、そう、高校 1 年の時にハンドボールを左目に命中させた彼を誘って、T 君が主役の芝居を見に行った。舞台の上、T 君はそこにそのままで輝いていた。誘った友人はその劇を見て、猛烈に感激してくれていた。誘った甲斐があった。

 

 T 君が高校を卒業してから 4 年たった時には、私は大学院に進学して 1 年がたっていた。T 君はその後も役者の道を続けていたと思う。ほどなく T 君は結婚され、私は大学院で勉強や研究を続け、大学院修了とともに別の大学に職を得た。結婚した T 君は転居し、私も転居し、結婚し、海外に出て、帰国し、転居を重ね、時はさらさら流れていき、いつの間にか T 君の住所も分からなくなってしまった。T 君も同じなのだろう。年賀状のやり取りも途絶えてしまった。

 

 子供が中学に進学した。しかし、自分の中学時代はすぐこの間のように感じる。

 

  T 君との遭遇も青春の物語の断章となった。

 すでに、人生、朱夏の時代も終わりに近づきつつある。

 駆けぬけてゆく夏の終りが近い。

43.音階

 

 子供が中学校に入学した。自分の中学時代なんて、ついこの間のような気がする。小学生の時の記憶は曖昧になっているが、中学生になると俄然よく覚えている。だから、ごく最近の出来事であったような気がするが、子供が中学生になったということは、遥か彼方のことなのかもしれない。

 

 中学 1 年の時、出身小学校が違う W 君とすぐに親しくなった。W 君はギター部に入り、クラシックギターを弾いていた。しばらくするとアコースティクギターも上手なことがわかった。当時はフォークギターと呼ばれていたのだが。ギター好きなだけあって、音楽、特にポップスが好きであった。

 クラスは別れたが、中学 2 年になっても仲が良かった。彼の家でギターを教えてもらった。おまけに、当時はレコードの時代であったが、LP レコードを貸してくれたりした。LP は値段が高く、プレーヤーにかけて針が跳んでレコードに傷でもつけたら大変だ。それでも「聞いてみたら」という感じで貸してくれた。

 フォークソングの時代を過ぎ、いわゆる「ニューミュージック」と呼ばれる音楽が盛んになっていた頃であった。“オフコース”の LP なんかを貸してくれた。ギターを教わりつつ、自分一人で練習するために、楽譜集を買って来て弾いていた。

 フォルテもフォルティシモもピアニッシモもピアノもクレッシェンドもデクレッシェンドもダル・セーニョもコーダもフェルマータもア・テンポも、レコードを聴いて楽譜を見て自分でたどっていくうちに意味を覚えた。音楽の授業でやったのかもしれないが、興味が無いときには入ってこない。和音も覚えた。といってもコードはC、Dm、G7、C みたいな黄金のコード進行。B とか出てくるとコードを抑えにくいので、最初っから転調しておいて、C とか G から始まるようにした。そんなことが出来ることも知った。カポの存在を知ったのは暫くしてからだ。

 ここで時代は飛ぶが、中学 2 年 14 歳のころから 30 年以上たち、子供が小学 4 年生の時にローマに行って家族で地下鉄に乗ったら、駅を発車するごとに車内アナウンスが「プロシマ フェルマータ エ ○○ ( la prossima fermata è ○○)」と言っていた。次の停車駅は○○くらいの感じであるが、フェルマータがイタリア語で、また、停止の意味であると知って、驚いた。フェルマータなんて言葉は音楽にしか出てこないものだと思っていた。ちゃんと勉強してこなかったからこうなる。

 

 中学 2 年生の秋、3 年生が主体の生徒会執行部が企画・運営をしていたいわゆる文化祭の運営のお手伝いを、2 年の私と W 君もすることになった。文化祭は 11 月の初めに行うのであるが、その前日には、文化祭の当日、体育館の舞台でおこなうクラブの演奏や、オーディションで選んだバンド演奏やダンスの披露などのリハーサルを、文化祭当日と同じスケジュールで行う。前日は普通の平日で、リハーサルを行うのは放課後になるので、その日の帰宅は 8 時を過ぎる。

 その中で、オーディションを突破した 3 年生 3 人組のフォークギタートリオの歌う、「加茂の流れに」が絶品であった。印象的な前奏から、舞台袖で聴いていて、いやぁうまいなぁと思った。

 

 中学 3 年になっても、相変わらず W 君の家で 2 人でギターを併せていた。この頃にはようやく W 君と合わせることができるようになっていた。彼が良く聞いていたオフコースのコピーにチャレンジしたりなんかしていた。彼はキーボードに手を出したりもしていた。それで、もちろんオフコースは 5 人なので(初期は2人だったが)、部分的にギターとかキーボードのパートだけではあるが、二人でコピーっぽく頑張っていた。

中学を卒業して、その後、W 君とは違う高校、違う大学に進んだ。W 君は大学時代に、組んでいたバンドで、インディーズながら、LP レコードを出した。中学卒業後、少し道が分かれていった。が、高校・大学時代も良くつるんでいた。大学の頃は夏休みに会って、夜まで時間があるというので、ふらっと甲子園に高校野球を見に行ったりしてから飲みに行って、そのあとカラオケ屋で歌っていた。ギター弾き語りではないが、中学の頃に戻った気分であった。

 

 ここで時代は飛ぶが、中学 2 年の秋、先輩の「加茂の流れ」に感激した 4 年と数か月後に、遠い世界であった賀茂川または鴨川をほぼ毎日渡って通学する生活を始めることになるとは、その時には思いも寄らなかった。

 

 W 君は関西の大学で法律の勉強をし、大学を出てすぐに国の司法関係の機関に就職した。私は大学で物理学を専攻し、大学を出ても就職せずに大学院に進むことになった。理論物理学を専攻した。音楽は遠い世界になった。

 

 しかし、音階なんぞは、昔々は「ピタゴラス音階」と言われるものがあったくらいなので、数学やら物理学にも結び付いている。

 

 ド・ミ・ソの和音は C。ドの音が C なのだが、ドレミファソラシドの基本のドが何故A でなく C なのか知らない。でも、オーケストラが最初に音合わせするのは、440 Hzで振動するラの音だ。どうやらラの音が基本らしい。ラの音が A。以下、シが B、ドがC。音は波として伝わるので、波の山谷 1 セットが 1 秒間に何個来るかが振動数と思えばよい。ラの音は、波の山谷が 1 秒間に 440 個来るというわけだ。

 ギターの弦を開放弦にして弾いて音を鳴らす。今度は弦の長さを半分にして鳴らす。振動数は倍になる。このとき、音は 1 オクターブ上がる。振動数の比としては、1:2だ。振動数が大きい方が高い音として聞こえる。

 人に心地よい和音として、弦の長さを  3分の 2 にしてみる。ドに対するソの音が奏でられる。振動数の比としては 2:3 だ。綺麗な整数比。ドに対してソの音は、振動数としては 2 分の 3 倍 ( 3/2 )になっている。音楽用語では 5 度離れているというらしい。5度分ずつ振動数を上げていき( 3/2 をかける)、ドレミファソラシドからはみ出るとオクターブ下げて(振動数に 1/2 をかける)、音階を作っていく。

 

    ド→ソ→レ→ラ→ミ→シ→ファ→ド→ソ→レ→ラ→ミ→シ

 

と作られる。シのシャープ、シの半音高いシは1オクターブ高いドのことだ。2 分の 3を掛けて、必要とあらば 2 分の 1 を掛けてオクターブを下げるという手筈で上の系列を整理して書くと

 

    ド ; 1

    ド ; (3/2)7×(1/2)4

    レ ; (3/2)2×(1/2) (= 9 / 8) 

    レ ; (3/2)9×(1/2)5

    ミ ; (3/2)4×(1/2)2 (= 81 / 64 )

    ミ ; (3/2)11×(1/2)6

    ファ ; (3/2)6×(1/2)3

    ソ ; (3/2)1 (=3 / 2 )

    ソ ; (3/2)8×(1/2)4

    ラ ; (3/2)3×(1/2)1 (=27/16)

    ラ ; (3/2)10×(1/2)5

    シ ; (3/2)5×(1/2)2 (=243/128)

    シ(=ド) ; (3/2)12×(1/2)6

 

となる。最初の (3/2)n は 5 度を n 回上げていくということ。× の後の (1/2)p は p オクターブ下げるということ。表にはファの音が無いので、これは、基本のドから 5 度下げて、必要ならオクターブを上げたら作れる。

 問題は、1 周回ってシ=(1オクターブ高い)ドまで来た時、(3/2)12×(1/2)6 =2.0272・・・となって、1 オクターブ上げたはずなのに、振動数が正確に 2 倍にならないこと。そこで、振動数の比として、

    ド ; 1

    レ ; 9 / 8 (=(3/2)2×(1/2) )

    ミ ; 81 /64 (=(3/2)4×(1/2)2

    ファ ; 4 / 3(=(2/3)1×2 )

    ソ ; 3 /2 (=(3/2)1

    ラ ; 27 /16 (=(3/2)3×(1/2)1

    シ ; 243 /128 (=(3/2)5×(1/2)2

    ド ; 2

 

とした。ファの音は下げていって作ったので、2/3 倍してから 1 オクターブ上げた(2 倍する)。こう見ると、全音(ドに対してレとか)は振動数の比は 9/8 になり、半音(ミに対してファとか)は 256 / 243 になっていることがわかる。1 オクターブ上げると振動数は 2 倍になるようにしたが、半音は全音の半分ではない。これをピタゴラス音律と呼ぶ。

 

 ピタゴラス音律では C のコード、ドミソの振動数の比は

 

   ド:ミ:ソ=1:81/64 :3/2 = 64:81:96

 

となり、簡単な整数比とは言えない。とうことは、おそらく若干、不協和なんだろう。

 

 そこで、和音がなるべく簡単な整数比になるように考案されたのが純正律と呼ばれる音階だ。もともと、ドに対するソは 2:3 の振動数比で決められていたが、今度はドに対するミの振動数を簡単な整数比、4:5 で決める。

 

    ド ; 1

    レ ; 9 / 8

    ミ ; 5 / 4

    ファ ; 4 / 3

    ソ ; 3 /2

    ラ ; 5 / 3

    シ ; 15 / 8

    ド ; 2

 

ピタゴラス音律と見比べてみると良い。こうすると、ドミソの振動数の比は

 

   ド:ミ:ソ=1:5 / 4 :3 / 2 = 4:5:6

 

となり、簡単な整数比となる。協和音となる。しかし、各音の振動数比を見てみよう。

 

   ドとレ ; ( 9 / 8 )÷1 = 9 / 8

   レとミ ; (5 / 4 )÷ ( 9 / 8 ) = 10 / 9

   ミとファ ; (4 / 3 )÷ ( 5 / 4 ) = 16 / 15

   ファとソ ; (3 / 2 )÷ ( 4 / 3 ) = 9 / 8

   ソとラ ; (5 / 3 )÷ ( 3 / 2 ) = 10 / 9

   ラとシ ; (15 / 8 )÷ ( 5 / 3 ) = 9 / 8

   シとド ; 2÷ ( 15 / 8 ) = 16 / 15

 

何か? 9 / 8 (=1.125)だったり、10 / 9 (=1.1111・・・)だったり 16/15(=1.06666・・・)だったり。歌を作っていて、C から D に転調すると、ド:レ=8:9 の音程が、レ:ミ=9:10 の音程に微妙に変わり、メロディーが崩れる。

 

 そこで、和音もそこそこ美しい、転調が自由にできる音律として、12 平均律が用いられている。ピアノの鍵盤を思い浮かべると良いが、

    ド・ド・レ・レ・ミ・ファ・ファ・ソ・ソ・ラ・ラ・シ・ド

と、ドから 1 オクターブ上のドまでの 12 個の間隔を 2 のべき乗の意味で等分する。1オクターブ上がったら 2 倍だし、全音は半音の 2 倍の振動数になるように、2 の冪で 12 等分するわけだ。どういう事かと言うと、振動数の比として、

 

    ド ; 1

    ド ; 2(1/12)

    レ ; 2(2/12)

    レ ; 2(3/12)

    ミ ; 2(4/12)

    ファ ; 2(5/12)

    ファ ; 2(6/12)

    ソ ; 2(7/12)

    ソ ; 2(8/12)

    ラ ; 2(9/12)    

    ラ ; 2(10/12)

    シ ; 2(11/12)

    ド ; 2(12/12) = 2

 

とする。こうすると半音の振動数比は 1:2(1/12) だし、全音はその 2 倍の 2(2/12) が現れ、1:2(2/12) となる。どこの振動数比も同じなので、転調は自由に行える。

 そのうえ、ドに対するソの音の振動数比は、1:2(7/12) であるが、2(7/12) =1.498307077・・・と極めて 1.5、つまり 3/2 に等しいので、ド:ソ ≒ 2:3 が保たれている。ついでに C の和音、ドミソの振動数比は

 

    ド:ミ:ソ=1:2(4/12) :2(7/12)

         =1:1.25992105・・・:1.498307077・・

         =4 :5.0396842・・・:5.993228308・・・

         ≒ 4:5:6

 

となる。うまくハモるはずだ。奥が深い。

 

    Do、Re、Mi、Fa、Sol、La、Si、Do

 

レは Lemmon の Le ではないが、日本人には R と L の発音は区別できないので良しとしよう。

 

42.熱量とエネルギーの等価性

 前回、熱量の単位、cal (カロリー)と、エネルギーの単位、J(ジュール)の換算を使った。

 

    1 cal = 4.18 J

 

エネルギーの単位に名を残すジュール(1818-1889)の業績である。高等学校では、「羽根車」の実験で説明されている。水槽に水を入れておき、その水中に羽根車を入れておく。羽車を回転させると水がかき回される。羽根車を回転させるために質量 m [kg] の重りを高さ h [m] だけ落下させる。図のポンチ絵の感じ。失われた重りの位置エネルギー mgh 分が熱量に変わり、水の温度を上げる。ここで、g=9.8 m /s2 は重力加速度。1g(グラム)の水を 14.5 oC から 15.5 oC まで上げるのに必要な熱量が 1 cal である。ジュールは羽根車の実験で、熱量とエネルギーの等価性、もしくは熱と仕事の等価性、およびそれらの換算値である「熱の仕事当量、1 cal = 4.18」を決定したと習う。

 

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 「自然科学の歴史」という授業を担当していたときに、熱の科学の発展を講義することになり、少し勉強した。山本義隆さんの著書を主に参考にしたが、ジュールは何度も「熱の仕事当量」を色々な方法で検討していたことを知った。執念である。

 

 ジュールと言えば「ジュール熱」の発見が有名かもしれない。電気抵抗 R [Ω(オーム)]の導線に I [A(アンペア)] の電流を流すと、R × I2 だけの熱(エネルギー)が発生するというやつ。これも高等学校で習う。

 「ジュール熱」の発見は 1841 年。

 ほかにも、電磁誘導と発熱現象の発見も行っている。これは 1843 年。

 

 熱の仕事当量であるが、まずは 1843 年に、電磁誘導と発熱現象を発見した装置を利用して、コイルの回転に要する仕事の測定を行っている。ジュール熱の法則を利用し、熱と仕事は

 

   1 cal = 4.50 J

 

という値を得た。

 続いて、水が細管を通り抜けるときに発生する摩擦熱を測定し、

 

   1 cal = 4.14 J

 

という値を得ている。 

 1844 年には空気の圧縮による発熱を利用して、

 

   1 cal = 4.29 J

 

を得る。

 1845年に、高等学校で習う羽根車の実験を行い、

 

   1 cal = 4.78 J

を得る。

 1847年には羽根車の実験を改良し、

 

   1 cal = 4.203 J

 

を得る。

 1849年にはさらに改良し、

 

   1 cal = 4.15 J

 

を得ている。

 

 1843 年から 1849 年まで、つごう 6 回値を出している。

 

 現在では

 

    1cal = 4.1855 J

 

と測定されている。

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