最近の若者は「やばい」という言葉を肯定的にも使うようだ。昔は、「やばい」といえば、まずいなぁ、とか、ひでぇなぁ、とか否定的な意味でしか使わなかったのに、近頃は、すごいなぁ、といった感じで使われている。言葉は変化する。最近、あまり耳にしなくなったが、一昔前、自分が若いころには、最近の若い者の日本語は乱れている、なんてことをよく聞いた。しかし、言葉は変化する。日本語が乱れてきたという人は、「新しい(あたらしい)」なんぞという「乱れた言葉」を使わずに、いつもきちんと「あらたしい」と言っているか、聞いてみたいものだ。
いっとき、「ら抜き言葉」が糾弾されていた。例えば、「見ることができる」という意味の「見られる」のかわりに、「ら」を抜いて、「見れる」という。よくできた変化だと思う。「見られる」だと、「受け身」と「可能」の両方の可能性があるが、らを抜くことで、明白に「可能」の用法であることを印象づけている。日本語が乱れたとは思えない。進化している。
ちょっと違うが、少し似ているものとして、中学生の時、一瞬だけ「言語の脱落現象」に興味が引かれたことがある。「わたくし(watakushi)」が「わたし(watashi)」になったり、「あたし(atashi)」になったり、「わし(washi)」になったり、「あたい(atai)」になったり。母音や子音が脱落していく。どうしてなのか、そのメカニズムと経年変化が知りたかったのだが、ほかにもたくさん知りたいことがあって、調べないまま勉強しないまま知らないままに、20世紀が終わってしまい、21世紀に入って6分の1近く過ぎた。
21世紀に生まれた息子が、2016の数字の話に少し興味を持ったのか、「2003は何かある?」と聞いてきた。忘れないように、少し記しておこう。
2003年は21世紀最初の素数年であった。その前は1999年。2003は素数。
終わり。これだけだと少し寂しいので、数論の話を少し。
有名なのは、フェルマーの最終定理。1995年に解決したが、
xn + yn = zn を満たす整数解 x、y、z は、n が 3 以上の整数の場合には
存在しない
というやつ。n = 2 のときはピタゴラスの定理に従う数であればよいが、n が3以上では突然存在しなくなる。問題設定が理解しやすいので取り組んでみるものの、フェルマーが余白に書き記して以来、なかなか難攻不落であった。
n = 3 と 4 のときには確かにフェルマーの予想が正しいと証明されていた18世紀の終わりころ、フランスのラグランジュの教える学生の一人、ルブラン君の提出レポートが、あるとき突然目を引くほど良くなった。じつは、ソフィー・ジェルマンという女性が、ルブラン君に成りすましていたらしい。当時はパリ理工科大学に女性の入学資格が無かった。今だと成りすまし、替え玉でレポートを書いた咎で、ルブラン君の当該学期の授業科目はすべて零点なんぞというペナルティを課されたりするおバカな時代であるが、今、講義している解析力学でばんばん名前の出てくるラグランジュは、ちと違った。ルブラン君自身はどうなったのかは知らない。が、ソフィーは女性であって、当時正式に学問のできなかった時代、ラグランジュは正当に彼女の業績を評価し、ソフィーの助言者になっている。彼女はガウスにも手紙を書いて数学上の文通をしたりもするようになった。ルブランが実は女性だと知った後も、ガウスも正当に評価して研究を続けたり、ラグランジュは自身の論文の謝辞に彼女の名前を入れたりしているので、当時としてはラグランジュもガウスも先進的な人物だったのだろう。女性は学位が取れない時代だったが、名誉博士号をあげようとした矢先、彼女は亡くなってしまう。ソフィー・ジェルマンは物理学では弾性体の研究をしていた。数学では、ソフィー・ジェルマンの定理が知られている。
p を素数とし、2p + 1 もまた素数であるとき、xp + yp = zp を満たす整数解
x、y、z が存在するとき、x、y、zのいずれかは p で割り切れる
というもの。フェルマーの定理の証明に向けて、n = 3、4、5・・・とひとつづつ攻める
のではなく、一般的な n について考えようという初めての試みであった。
p が素数で、その2倍に1を足したもの(2p + 1)もまた素数であるような数 p は、
ソフィー・ジェルマン素数と呼ばれるようになった。
息子よ。2003はソフィー・ジェルマン素数なのであるぞ(4007も素数)。
ソフィー・ジェルマン素数が何故興味深いか。ソフィー・ジェルマン素数が無限にあ
るのか無いのか、いまだ知られていないのだ。これだから数論は面白い。面白いが、相当数学ができないと近づいてはいけない。
と、私が大学生の時には巷間で囁かれていた。凡人が近づいても、何の成果も出せずに一生を棒に振るという。
端的に言って、数論は、やばい。