89.鏡の向こう側

 とあるテレビの番組を見ていたら、「鏡に映すと右と左が反対になるのは何故か?」という質問があり、その回答が「よくわかっていない」となっていた。

 

 えっ、まだわかってないの??となってしまった。

 

 まぁ、設問に対する回答としてはそうなのかもしれないが、なぜ鏡の向こうの世界では右と左が`“反対に”なったように見えるのか。

 

 1965年にノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎さんの著作に「鏡の中の物理学」というものがあり、傑作である。朝永さんの傑作といえば「光子の裁判」が真っ先に挙げられるかもしれないが、「鏡の中の物理学」も面白い。「鏡の中の物理学」では鏡の向こうの世界の見え方から始まって、物理学で言うCPT定理、つまり空間反転( P 変換)-鏡に映した世界に入る-をして、続いて粒子と反粒子を交換して( C 変換)、さらに時間の進む向きをを変えること( T 変換)を続けて行うと、自然法則は全く変わらないというところまで話が発展する。

 

 朝永さんが仰る通り、子供でも鏡は不思議だ。大学生の時、何故鏡の向こうは右と左が反対になるのだろうと気になって、かなり考えたことがある。自分なりになんとか納得できる説明を考えて、それきりになった。

 大学時代、朝永さんの著作をちらちら読んでいた。「鏡の中の物理学」、「光子の裁判」。「スピンはめぐる」は大部だが、出てくる数式を追いながらも一気に読んだ。朝永さんには「鏡の中の世界」という小品もあり、たまたま巡り合った。そこには、自分で考えていた鏡の向こう側は何故左右が逆になるのかの議論と同じような議論がされていて、その作品の中で朝永さんは何も結論付けてはおられないのであるが、まぁまぁ良い線いった考えだったかなぁと安心した覚えがある。

 

 自分でカンカんになって考えたことは、なかなか忘れない。

 

 鏡に映して反対になるのは、右と左ではない。

 

 でも、立った自分の身体を姿見などに移すと左右が反対になっていると思う。右手を上げれば、鏡に映った自分は「左手」を挙げる。

 

 それでも、鏡は右と左を反転させてはいない。鏡に向かう方向が反転している。謂わば、「前後」が反転しているわけだ。鏡に立つと、自分が見ている方向-前-とは反対方向を、鏡の中の自分は見ているはずだ。鏡のこちらの私の“後方”を見ているはずだ。

 

 図で見れば、解かりやすい。鏡面の左が私たちの世界、右側が鏡の中の世界としよう。

 

 

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 矢印の向きが変わっているのは、一番左の図だけ。前向きの矢印が、後ろ向きの矢印になる。真ん中と右の図では矢印の方向は変わっていない。要するに、鏡に平行な面内にある矢印の向きは変わらず、上下・左右は変わらない。鏡に垂直な方向の矢印の向きだけ変わるということだ。

 

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 座標軸っぽく書けばすぐ上の図。x方向-右方向-、z方向-上方向-の向きは変わっていない。y方向-前-だけ軸の向きが変わり、鏡の中では-y方向-後ろ-を向いている。

 

 物理的にはこれでおしまい。

 

 でも、これだと、何故“右と左が反対に”なっていると思ってしまうのか、わからない。

 

 おそらく、「物理的空間」の把握ではなく、朝永さんの言う「心理的空間」の問題だろう。

 

 私たち人類は地球上で生活している。重力が働くので、重力の働く方向を下、空の方向を上と認識して生活している。さらに、生命体の作りが、上と下では大きく異なる。上には頭や顔があり、下には足が出ている。要するに、上下方向に対して「上下反転対称」な形をしていない。明確に上と下は区別される。重力の下で生活しているので、おそらく上下方向には敏感なんだろう。

 

 こうして、まず「心理的空間」として、“上下”を認識して決めてしまう。

 

 人類は“前”に目がついていて、主に“前方”を見るようになっている。“上下”に続いて、前と後ろの認識も大事だ。

 

 そこで、上下を決めたら、続いて“前後”を認識して決めてしまう。

 

 最後に残ったのが“左右”だ。体も、ほぼ左右対称に見えるし、「心理的空間」としては、左右の区別は、上下、前後より重要度が下がる。

 

 結局、最後に「心理的空間」としては、“左右”を認識して決める。

 

 こんな風な「心理」が働いているのではないだろうが。もはや、「物理」ではないが。

 

 姿見のような鏡の前に立つ。重力で引っ張られている地球の中心方向が“下”で、天井の方向が“上”。こうして、“上下”を無意識に決めてしまう。でもまぁ、鏡の向こうの世界でも“上下”は反転していないのだから、ここは構わない。最初の図の右端だ。次に、「心理的空間」としては“前後”を無意識的に決めてしまう。鏡のこちらの自分は“前方”を向いている。鏡の向こうの「自分」は、鏡のこちらの私にとっては、“後方”を見つめているはずなのだが、意識としては鏡の向こうにまわって、なお、“前方”を見ていると決めてしまう。本当は“後方”を見つめているはずなのに。鏡に映して“前後”が反転しているのに、鏡のこちらもあちらも、どちらも“前方”を向いているとしてしまったので、「鏡の中では反転していない」と錯覚する。残りの「心理的空間」は“左右”である。本当は“前後”が変わっているのに、「変わってない」と思い込んだので、矛盾が“左右”に押し付けられる。こうして、「“左右”が反転した」と考えてしまうのだろう。

 

 では、床に仰向けに寝そべっていて、天井に鏡が貼ってあったらどうだろうか。地球の中心方向が“下”、天井に向かって空の方向が“上”だったはずだが、「心理的空間」としては、頭の方が“上”、足の方が“下”と認識して、まずは“上下”を決めてしまう。これも、鏡に平行な面上で寝ていて、その面内で方向を決めているのだから、鏡の中の世界も反転しないので、構わない。次には“前後”を決めたがる。天井の方向、「上」の方を見ている鏡のこちらの自分であるが、鏡の中の「自分」は地球の中心、「下」を見つめている。ところが、すでに“上下”は決めてしまったので、自分の見ている方向を“前”と考えるだろう。こうして、鏡の中の「自分」も“前”を見ていると決めてしまう。本当は反転しているのに、鏡の中でも外でも、「自分」は“前”を向いていると認識してしまう。これは先ほどの姿見の場合と同じ。またまた矛盾が残ったので、矛盾を“左右”に押し付けて、「左右が反対になった」と考えてしまう。

 

 垂直に立って頭の“上”に鏡をおいても同じだ。鏡の中の「自分」は倒立しているのに、頭のある方を“上”だと最初に決めてしまう。鏡の中の「自分」の頭は、本当は“下”に向いているのに。で、矛盾が生じる。次に“前後”は正しく決めるので、“上下”を決めた時の矛盾が残って、最後に“左右”に押し付ける。

 

 しかし。

 

 “左右”が反対にならない場合も無くは無い。

 自動車にのって、車内のルームミラー(バックミラー)で自分の乗った車に後ろから近づいてくる別の車を見てみよう。あなたは運転手だ。ルームミラーを見て後ろから近づいてくる車の“上下”をまず認識する。これはさすがにひっくり返って見えないだろう。上下方向は鏡の面と平行な面上にある矢印なので、そもそも反転しないから矛盾なし。後ろの車はあなたの車を追いかけてくる。あなたは“前方”を見て運転している。ルームミラーの中に見える後ろの車は、鏡の中では、“前の方”からあなたに向かって、すなわちあなたの“後方”に向かって進んでくるように見えるはずだ。車がスピードを上げて近づいてくる。危ない!!正面衝突だ!!・・・とは思わない。運転している自分が、鏡の中に映る車に乗り込んで、自分が運転する車の正面に近づいてくるとは思わないだろう。姿見に向かって自分が歩いていくと、鏡の中の「自分」も、鏡の中の「自分」にとっての“前”、つまりこちらに向かって歩いて来て、衝突すると思ってしまうが、ルームミラーの中に映る車に関しては、鏡の中の「車」にとっての“前”からやってくるとは認識しない。「鏡の中の車は“前”から“後ろ”に向かってきているように見えるが、鏡で“前後”が反転しているので、鏡の中の車も本当は私の“後ろ”の方へではなく、“前”に動いている」と、正しく“前後”を判断する。こうして、「心理的空間」でも“前後”を正しく反転させて認識できるので、矛盾は生じない。鏡の反転作用を正しく取り込んで“上下”、“前後”の「心理的空間」を作った。矛盾はどこにもない。で、最後に、「心理的空間」で“左右”を決定するのだが、“前後”を正しく反転させたので、矛盾は生じず、“左右”はそのまま反転せずに見える。“左右”は鏡の面に平行な面上にある概念なので、正しく「反転しない」。だから、国産車である限り、車のルームミラーを見ると、後方の車の運転手は正しく“右側”に座っていると見える。万が一、後方の車の運転手が、走行中に間違えて“右側”のサイドミラー(バックミラー)を閉じてしまったら、あぁ、後ろの車、“右側”のサイドミラーを閉じてしまったな、と思える。後ろの車がサイドミラーを閉じた時にはミラーは後方へと動いて閉じられるが、“前後”を正しく反転させて認識しているので、ルームミラーで見る後方の車の“右側”のサイドミラーは、私にとっての「心理的空間」でもあり「物理的空間」でもある“前方”へと動いて閉じられたと、間違えずに認識できる。

 

 “上下”、“前後”、“左右”の順に認識していくので、“前後”を正しく反転させて「心理的空間」で認識できれば“左右”は反転したようには感じない。本当は反転しているのに、鏡の中の世界に入り込んでしまって、「“前後”は反転していない」と認識してしまうと、最後に決める“左右”に矛盾を押し付けて、“左右”がひっくり返ったと「心理的空間」では認識してしまい、「物理的空間」と齟齬をきたしているのではないだろうか。

 

 というのが、私の結論。