145.戦いの奴隷

 1998 年から 1999 年にかけて 1 年間、フランスはパリに住んでいた。今は名称が変わったが、当時はパリ第 6 大学と呼ばれていた大学が、ノートルダム大聖堂のやや東側のセーヌ左岸にあり、そこに通って研究を行っていた。

 第 6 大学から西へサンミッシェル大通りまで、またセーヌ川から南へサント・ジュヌビエーブの丘、パンテオンのある辺りくらいまでの一画は、カルチェ・ラタンと呼ばれている。ビストロなんかにもよく行った。

 カルチェ(quartier)は「地区」、 ラタン(latin)は「ラテン語」であり、「ラテン語を話す地区」、くらいの感じか。中世ヨーロッパの共通語、リンガ・フランカ(lingua franca)はラテン語であり、各地から集まってきた学生たちはラテン語で学び、議論していたようだ。要するに、カルチェ・ラタンは、いわば古き良き学生街である。パリ第 6・7 大学、ソルボンヌ大学コレージュ・ド・フランスグランゼコールであるエコール・ノルマル・シュペリウールなどの高等教育機関や、リセ・ルイ・ル・グラン、リセ・アンリ 4 世などの高等学校などなど、多くの教育機関がある。パリでは家からパリ第 6・7 大学までの通学・通勤の途中、リュクサンブール公園を抜けてパンテオンへ向かい、サント・ジュヌヴィエーヴ図書館の横、リセ・アンリ 4 世校の入り口の脇をいつも通り過ぎていた。リセ・アンリ 4 世校の出身者には大統領のマクロンもそうだが、ジャン・ポール・サルトルミシェル・フーコーなどの哲学者や、アンドレ・ジッド、モーパッサンなど、多彩な人物がいる。1796 年創立だそうだ。1998 年当時、リセのわきを通っても、普通の高校生、まぁフランスは喫煙年齢制限が無く、当時は 16歳からタバコが買えたので、タバコを吸いながら登校してくるただの高校生にしか見えなかったが、あの中から将来著名人が出てくるのかもしれない。マクロン大統領は 1977 年生まれなので、私が歩いていた 1998 年には 21 歳だからもう卒業していて、すれ違わなかったはずだが。

 

【パリ、パンテオン。左端に写るのがサント・ジュヌヴィエーヴ図書館。左奥の塔が

 リセ・アンリ4世校の一部。】

 

 幸い、コレージュ・ド・フランスにもエコール・ノルマル・シュペリウールにも、仕事関係で入らせてもらった。パリ第 3 大学であるソルボンヌ大学は文系の学部だったので、観光がてら覗いただけだが。

 

 カルチェ・ラタン。フランスの学生が今でもラテン語を学ぶのかどうか知らないが、フランス語、イタリア語、スペイン語ポルトガル語ラテン語の 4 姉妹なので、ラテン語に興味はある。

 

 が、難しい。

 

 例えば格変化。6 つもある。主格(~は)、属格(~の)、与格(~に)、対格(~を、~から、~に)、奪格(~を、~に)、呼格(~よ)。複数になるとまた異なるので、名詞一つで 12 種類。しかも第 1 変化、第 2 変化、第 3 変化がある。名詞だけでこれだもの、形容詞、動詞とか・・・。

 

 ところで。

 

 古代ローマガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前 49 年から独裁官(dictator)になっているが、紀元前 44 年 1 月からは終身の独裁官となった。紀元前 44 年 3 月 15 日に、ローマの聖域、アレアサクラ (regio sakura)、今のトッレ・アルジェンティーナ広場(遺跡)の中心で暗殺される。そこがカエサルの暗殺場所と発掘・特定されたのは 2012 年 10 月のこと。2013 年 6 月頃にそこを通っていたのは、今思うと感慨深い。

 それはさておき。

 シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』は、もちろん古い英語で書かれているが、

    「ブルータス、お前もか」

のところはラテン語で書かれている。

    「Et tu, Brute ?」

ブルータスは「Brutus」だが、これは主格なので、ブルータスに呼び掛けるときには呼格にしないといけない。Brutus の呼格が「Brute」。固有名詞まで格変化する。「ブルーテ、お前もか」ではピンとこないのだが。

 

 イギリスの宰相、ウィンストン・チャーチルは、子供時代に学校でラテン語を学んだとき、名詞の格変化を覚えさせられたそうだが、その例がテーブル、mensa だったそうだ。

 

  mensa,    mensae,    mensae,    mensam,    mensa,      mensa

 テーブルが、テーブルの、テーブルに、テーブルを、テーブルによって、テーブルよ

 (主格)  (属格)   (与格)  (対格)   (奪格)    (与格)

 

チャーチルは、“何故テーブルに「テーブルよ」と呼び掛けないといけないのか”と思ったようだ。

 

 そのチャーチルであるが、1899 年から 1902 年の第 2 次ボーア戦争大英帝国南アフリカとの戦争だが、そこに従軍記者、『モーニング・ポスト』紙の特派員として従軍している。一旦は捕虜になったが、捕虜収容所から脱走した。従軍時の経験なのだろうか、

 

    『一度戦争に身を委ねた政治家は、制御しがたい戦いの奴隷となる。』

 

という言葉を残している。

 チャーチルは後に、1953 年、ノーベル文学賞を受ける。

 

 従軍記者と言えば、四国は松山出身の正岡子規も、新聞『日本』の従軍記者として日清戦争に従軍している。このため、結核が一層ひどくなったようだ。

 子規の友人、秋山真之は、日清・日露戦争に海軍として参加している。特に 1904 年から始まった日露戦争では、東郷平八郎率いる連合艦隊の参謀だった。殆ど彼の立案した作戦で、ロシアのバルチック艦隊を破ったようなものだ。その日本海海戦の開戦時に打電した「天気晴朗なれども波高し」で知られているだろう。また、真之の兄、好古は陸軍にいて騎兵隊を編成し、やはり日露戦争を戦っている。

 

           【秋山兄弟生誕地(松山)】

 

 日露戦争と言えば、強大なロシア帝国にアジアの小国が戦った戦争ではあるが、日本の国力はさほどでもなかったため、戦費の調達に苦労していたようだ。当時は大英帝国が随一の国家であったため、日英同盟のこともあり大英帝国の銀行に戦時国債を買ってもらって戦費とすべく、後に首相になる、また首相になった後にも大蔵大臣に何度も就任し、最後は二・二六事件で暗殺されてしまう高橋是清なんかがイギリスで走り回っていたらしい。しかし、当時のイギリスは第 2 次ボーア戦争が終わったところで、望んだ通りには資金提供はしてくれなかったようだ。

 日露戦争の総司令官は大山巌、総参謀長は児玉源太郎だったが、この二人は戦費の苦しいこともわかっており、いかにして戦争を終わらせるかを考えている。奉天会戦で日本が勝利したときも、総参謀長の児玉は東京へ戻って、政府に講和を結ぶよう説いて回っている。もっと前進を、ではなく、いかに戦争を終わらせるか。本当は政治家がしなければならないことだとは思うが、日露戦争時代にはまだ大山や児玉のような軍人がいたので、勝ち戦に乗っかってイケイケどんどんで国を亡ぼすことは無かったのだろう。米国のルーズベルト大統領を仲介に講和を結ぶべく、外務大臣小村寿太郎が動き、戦争は終結する。日露戦争終結ポーツマス条約に導いて仲介したということで、ルーズベルトノーベル平和賞を貰っているのは、なんだかなとは思うが。

 

 翻って、現代はどうだろうか。戦争遂行のために他国に武器を無心する。頼られた国も講和の仲介を買って出るのでなく、次々武器を供与する。不幸にも始まってしまった戦争を、どうやったら終わらせられるかの知恵を絞っているのだろうか。

 

 戦いの奴隷になり下がる者ばかりだ。