131.弘法大師

 前回、最後に落語の『持参金』を引き合いに出した。

 ついでなので、『抜け雀』も見ておこう。

 

 ある宿屋に、身なりの粗末な客がやってくる。金はあるので、先に宿代を払っておこうと言うが、宿屋の主人は、出立のときで良いと言って、客人を泊める。客人は、夜は一升の酒を用意するように言って、先に風呂に入ってから、一升酒を飲みきって寝てしまう。朝は早く起きて、朝飯を食べたら、ぶらぶら散歩をして、昼頃帰ってきて、酒を五合用意させ、飲んだら昼寝してしまう。夜は風呂の後、また一升酒。毎日これを繰り返す。宿の奥さんが、身なりの粗末な客が本当にお金を持っているか疑い、今までの5日分の酒代だけでも貰って来いと、主人に言う。主人が客人に酒代だけ入れてくれと言うと、金はないという。一文無しで勘定払えないからといって、着物を脱がしても、ボロボロなので売れそうもない。職業を聞くと絵描きという。それで、宿代代わりに、衝立に何か書いてやろうと言って、飛んでいる雀を5羽描く。また自分が戻って来るまで誰にもこの衝立てを売るなと言い残し、去っていく。雀5羽で2両。翌朝、主人が衝立のある部屋を開けると、雀がいる。雨戸をあけると外へ飛んで出るが、暫くすると戻ってきて、衝立に戻る。絵に描いた雀が抜けて出ていたことに気づき、驚く。次の朝、奥さんが同じことをしてみると、衝立には雀が無く、部屋から雀が飛び出し、また衝立に帰ってくる。これが話題になり、殿様が1000両で買おうというが、客人との約束があるので売れないと断る。噂を聞いた大勢の客が宿にやって来て、宿は大繁盛になる。ある時、ある絵描きがやって来て、抜け出すほどの力のある雀なら、衝立の中で飛び続けて、力が尽きて死ぬぞ、という。そこで、衝立に書き足してやろうと言って、止まり木と鳥籠(かご)を描いて去っていく。次の日の朝、抜け出した雀が衝立に戻って来ると、鳥かごに入ったり、止まり木に泊まったりする。殿様が聞き出して、2000両で買おうというが、客人と約束があるので売らない。その後、二十日ほどして、最初に雀を5羽描いた絵描きが、立派な装束で戻ってくる。書き足された鳥籠と止まり木の絵を見て、親不孝だと、はらはらと泣きだす。宿の亭主が、そんなに立派になって何が親不孝かというも、鳥かごを書いたのは自分の父親だという。

 「自分は親不孝者だ。親に籠(かご、駕籠)を描かせた(かかせた)。」

 駕籠を運ぶ人は、「駕籠かき」と言い、駕籠を運ぶことを「かく」という。これが下げだ。

 

 何でこんな話を記したかというと、身なりの悪い人が、実は偉い人だったという教訓が落語にあるのが面白い。

 

 四国に住む人は、お遍路さんを見かけることがままある。四国遍路、八十八か所巡りをする人たちだ。伊予国に河野家という一族があり、一族中に衛門三郎という人がいた。ある時、身なりの悪いみすぼらしい僧侶がやってきたが、身なりを見て追い返してしまう。毎日現れるが、8日目に衛門三郎は、僧侶の托鉢の鉢を叩き割る。その後、僧侶は現れなくなるが、衛門家では、8人の子供が毎年一人ずつ亡くなるという不幸が続く。三郎は、あの僧侶が弘法大師であったことに夢で気付き、弘法大師にお詫びをするために弘法大師を追って四国を巡る。

 

 これが四国遍路の起源だそうだ。

 

 衛門三郎は弘法大師に会えず、四国を逆に廻ってみる。

 

 これが「逆打ち」と呼ばれる巡礼の方法になっている。

 

 死の間際に弘法大師に会えて、非礼を詫びる。弘法大師が望みを聞くと、三郎は来世は河野本家に生まれて、人の役に立ちたい」と言い残して亡くなる。弘法大師は石を拾って「衛門三郎再来」と書いて三郎に握らせて去っていく。翌年、河野家に生まれた子供が手を握りしめていたので、その手を開けてみると「衛門三郎再来」と書かれた石を握っていたのだった。

 ということで、その石は、松山の石手寺に祀られているそうだ。

 

 たとえ身なりが悪い人でも非礼を働いてはいけない、と読める。抜け雀の絵師と弘法大師が、私の中では、なんか重なる。

 

 ついでに。

 

 衛門三郎が詫びた後の石手の「奇跡」に目が行くが、もし、8人の子が亡くなったのが弘法大師の怨念なら、なんと弘法大師ご無体な、と思ってしまうのは、信仰心のない私だけなのだろうか。

 

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 折角だから、八十八か所の、1番札所からの距離を見ておこう。1番札所から23番札所までの23の札所は阿波、24番から39番までの16か所が土佐、40番から65番までの26か所が伊予、66番から88番までの23か所が讃岐に位置している。石手寺は51番札所だ。「距離」の図で傾きが大きいほど、札所間の距離が大きいことを意味している。阿波國を見ると、11番札所と12番札所の距離がやや離れている。「札所の標高」の図を見ると12番札所は高いところに位置しており、山を登るため札所間距離は大きくなっている。23番と24番も距離が開いているが、ここは国境だ。土佐に入ると、26番から28番まで、札所間距離がこれまでと異なっている。27番札所の標高は高い。28から36辺りまで、また一定の傾きになっているが、36番札所から41番札所まで、傾きが大きく、札所間距離が開いていることが分かる。39番と40番の間に国境がある。41から43までは再び、いつもの傾きになるが、43と44が大きく開いている。ここは宇和島から久万までだ。45と46もやや開いているが、三坂峠を越えて松山平野に出るからだ。59と60、64と65、65と66もややギャップがあるが、60、65、66の札所の標高が高い。その後は、ほぼ一定の傾きになっていることが見て取れる。

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 ついでに、歩き遍路では下り坂より上り坂がきついだろうから、次の札所までの最大の上りの標高差を、図「山越の上りの標高差」で示しておいた。0になっているのは下りのみ。20番札所21番札所の標高はほぼ同じだが、20から21まで、一旦下ってから上るので、440 m 上らないといけない。札所間距離は6.7 km なので、結構大変だろう。

 

 

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 札所間距離を、1番札所から2番札所、2番札所から3番札所・・・と横軸に取り、縦軸に札所間距離をとると、下図のようになる。

 

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 ついでに、札所間距離を長い方から棒グラフにしてみると、下のようになる。

 

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 横軸は、ランキング何位だ。なんとなく、指数関数のように見えなくもない。縦軸を対数にしてみると、こんな感じ。

 

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 上位18位くらいまでの傾きは大きく、18位から75位くらいまでの傾きは、先程とは異なるが傾きほぼ一定で、75位以上はまた傾きが変わる。札所間距離にもこういったスケーリングがみられるようだ。

 

 こうやって、いろいろ見ていると、机上でも遍路道が楽しめる。