90.鏡の向こうとこちらの物理

 前回、89 回では、鏡の向こう側が何故、右と左が反対に見えるのか、あるいはそう感じるのかについて考察した。人とかだと、あからさまに左右が違う。例えば顔のほくろの位置とか、心臓の位置とか。でも、基本の基本の自然法則までたどれば、自然は鏡のこちらの世界と向こうの世界を区別しているのだろうか? 言うなれば、右と左は区別がつくのか?

 

 素粒子の世界まで行くと、起きている現象を見て、鏡のこちらで起きている現象なのか、鏡の向こうで起きている現象なのか、一見しただけではわからないだろう。素粒子が動いている現象を鏡に映しても、自然な運動に見える。右方向に動こうが、左方向に動こうが、どこにも不思議さを感じさせない自然な現象だ。だから、物理学者も、自然法則は右と左を区別しない、すなわち鏡のこちらの世界で起きる現象は、鏡に映しても同じように生じると考えていた。前回やったように、鏡の面に垂直方向におかれた矢印の向きは鏡に映すと反転するが、鏡の面に平行な平面上に置かれた矢印は反転しない。x-y-z 座標を考えると、どれか一つの軸が反転して、残りの 2 軸は反転しないというわけだ。しかし、すべての座標軸を反転させてからうまく回転させてやると、1 本だけ反転させた座標軸と重なるので、鏡に映すことを“空間反転させる”ということにしよう。そうすると、「自然法則は空間反転しても不変である」と言えそうだ。

 私たちのよく知る電磁気現象では、右と左を区別するような現象は見られない。鏡の向こう側の世界も自然な世界だということだ。「空間反転対称」な世界だ。

 

 ところが。

 

 自然界には私たちのよく知っている電磁気力や万有引力の他に、原子核の放射性崩壊を引き起こす“弱い力(弱い相互作用)”と呼ばれる力が存在している。この力は原子核程度の大きさの中の距離でしか働かず、しかも力が“弱い”ので、私たちの日常には現れてこない。しかし、この力は、ある種の原子核を別の原子核に自然に壊変する際や、素粒子が他の素粒子たちに崩壊する際に働く。1950 年代初め頃に弱い相互作用で崩壊する素粒子に不思議な現象が見られた。質量などは全く同じなのに、一つの素粒子は 2 つの π 中間子に、もう一つの素粒子は 3 つの π 中間子に崩壊する。その現象をよく吟味した T.D.リーと C.N.ヤンは、実は弱い相互作用では鏡のこちら側で起きる自然現象は、鏡の向こうでは禁じられている、つまり「自然は空間反転不変ではない」のでは、という論文を書く。1956 年のことで、検証実験をあわせて提案する。1957 年に提案を受けたC.S.ウーは実験を行い、本当に鏡のこちらと向こうでは異なることを示す。

 

 コバルト 60(60CO)という原子核がニッケル 60(60Ni)という原子核へ、電子(e)と反ニュートリノ(νe)を放出して崩壊する現象を考える。素粒子原子核には固有の角運動量-スピンと呼ばれる-を持っている。自転と考えてはいけないのだが、話を単純化するために、“自転”の(スピン)角運動量としてみる。回転方向に右手の 4 本指を添わせて包み込んだ時、親指の立つ方向が、スピンの向きだ。図の左側、崩壊前にはコバルト原子核は(スピン)角運動量 6 を持つ。上向きなので、+6。この 60Cが崩壊し、60Ni と電子、反ニュートリノニュートリノ反粒子なので、上に棒線(バー)を付けて表わしている)になる。図の右側。60Ni の(スピン)角運動量は +5、電子も反ニュートリノも +1/2、全部合わせて +6。崩壊前と崩壊後で(スピン)角運動量の値は変わっていない。角運動量の保存則が成り立っているからだ。電子は、図のように下側に、反ニュートリノは上側に放出される。電子は、その運動方向とスピンの向きに制限はないが、反ニュートリノのスピンの向きは、その運動方向と同じものしかない。運動方向に右手の親指を立てて 4 本の指を包むと丁度ニュートリノの“自転角運動量”が再現されるので、反ニュートリノは『右巻き』だと言われる。こうして角運動量の保存法則が成り立つためには、反ニュートリノの(スピン)角運動量も電子の(スピン)角運動量も図のように上を向いていないといけない。しかし、反ニュートリノは、その(スピン)角運動量が反ニュートリノの運動方向と同じ向きのものしか存在しないので、上向き(スピン)角運動量を与えるためには、上方向に進むしかない。こうして、実際の実験でも、反ニュートリノはもともとの 60Cの(スピン)角運動量の方向にのみ放出され、電子は(運動量保存法則も満たさないといけないので)反対方向に放出される。放出方向に非対称性があるということだ。これは実験事実。

 

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 さて、この現象を鏡に映してみよう。図が 2 つあるが、下左図は崩壊前、下右図が崩壊後で、ともに“鏡”と書いた平面の左側が現実世界、右側が鏡の向こうの世界だ。

 

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 角運動量を“自転”と考えると、鏡に映すと“自転”の回転の向きが反対になるので、右手の 4 本指で回転方向に沿って包んだ時に親指が立つ方向 -(スピン)角運動量の方向-は、鏡の向こうではこちらと反対になる。だから、鏡の向こうでは 60CO の(スピン)角運動量は大きさが 6 で向きは下、-6 だ。崩壊後の図を見てみよう。60CO も 60Ni も静止しているが、崩壊後に出てきた電子(e)と反ニュートリノ(νe)は運動している。しかし、鏡に映しても、運動方向は変わらない。鏡に平行な平面上の矢印だから、鏡に映しても反転しない。変わるのは、(スピン)角運動量の方向だ。電子の“自転”もニュートリノの“自転”も鏡に映すと反対向きになるので、(スピン)角運動量の方向は、鏡に映すと反対になる。そうすると、鏡の向こうの世界では、電子の(スピン)角運動量、反ニュートリノの(スピン)角運動量ともに、“下”を向くはずだ。こうして、右図の鏡の向こう側-右側-の状況になる。

 

 しかし。

 

 鏡に映しても同じ現象が起きるなら、鏡の向こうの反ニュートリノの(スピン)角運動量の方向は、進行方向と反対向き、つまり『左巻き』でないといけない。しかし、現実世界には『左巻き』の反ニュートリノは存在しない。それは鏡の向こうでも同じはずだ。

 いや、正確に言うと、『左巻き』反ニュートリノは存在するのだが、『左巻き』の反ニュートリノは「弱い相互作用」が働かないのだ。つまり、「弱い力」が引き起こす放射性崩壊には関与しない。

 

 こうして、「弱い相互作用(力)」が関与する場合には、鏡のこちらで見られる現象が、鏡の向こうでは存在しない。鏡に映した世界は成り立たないというわけだ。だって、そんな反ニュートリノは存在しないのだから。

 

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 なんとなく、鏡に映しても自然法則は同じであると思っていたのが、そうではないとわかるとビックリする。リーとヤンは論文を書いた 1956 年の翌年、1957 年に、この業績でノーベル物理学賞を貰う。T.D.リー 31 歳、C.N.ヤン 35 歳のことだ。「空間反転対称性の破れ」を実験的に示したウーさんは、ノーベル賞を貰えなかった。

 

 もう一歩先へ。

 

 鏡に映した後、粒子と反粒子を入れ替える。60COは、反陽子反中性子からなる反コバルト 60 に変換される。放射性崩壊で、反ニッケル 60 と、陽電子と呼ばれる反電子と、反ニュートリノの“反”粒子であるニュートリノに崩壊する。(スピン)角運動量や放出される粒子の運動方向は、粒子と反粒子を入れ替えてもかまわない。そうすると、2つ前の図の崩壊後の粒子をすべて反粒子に置き換えると、今度は左巻きニュートリノが図の上方に放出される図になる。左巻きニュートリノは存在するので、反コバルト 60 の放射性崩壊は、鏡に映して(P変換)から粒子・反粒子を入れ替える(C変換)操作をすると、現実世界と同じになる。こうして、鏡に映したら自然法則は同じでなかったが、さらに粒子・反粒子を入れ替えると自然法則は同じまま成り立つことが分かった。これを CP 不変性という。

 

 でも、まぁ、今回の本題の、粒子・反粒子は入れ替えずに、鏡に映しただけでは自然法則は不変でない場合があることはわかった。

 

 ニュートリノ反粒子である反ニュートリノは『右巻き』だと言った。ニュートリノ自身は『左巻き』。

 ニュートリノが『左巻き』なので、『神様は弱い左利き』と思われているようだ。

89.鏡の向こう側

 とあるテレビの番組を見ていたら、「鏡に映すと右と左が反対になるのは何故か?」という質問があり、その回答が「よくわかっていない」となっていた。

 

 えっ、まだわかってないの??となってしまった。

 

 まぁ、設問に対する回答としてはそうなのかもしれないが、なぜ鏡の向こうの世界では右と左が`“反対に”なったように見えるのか。

 

 1965年にノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎さんの著作に「鏡の中の物理学」というものがあり、傑作である。朝永さんの傑作といえば「光子の裁判」が真っ先に挙げられるかもしれないが、「鏡の中の物理学」も面白い。「鏡の中の物理学」では鏡の向こうの世界の見え方から始まって、物理学で言うCPT定理、つまり空間反転( P 変換)-鏡に映した世界に入る-をして、続いて粒子と反粒子を交換して( C 変換)、さらに時間の進む向きをを変えること( T 変換)を続けて行うと、自然法則は全く変わらないというところまで話が発展する。

 

 朝永さんが仰る通り、子供でも鏡は不思議だ。大学生の時、何故鏡の向こうは右と左が反対になるのだろうと気になって、かなり考えたことがある。自分なりになんとか納得できる説明を考えて、それきりになった。

 大学時代、朝永さんの著作をちらちら読んでいた。「鏡の中の物理学」、「光子の裁判」。「スピンはめぐる」は大部だが、出てくる数式を追いながらも一気に読んだ。朝永さんには「鏡の中の世界」という小品もあり、たまたま巡り合った。そこには、自分で考えていた鏡の向こう側は何故左右が逆になるのかの議論と同じような議論がされていて、その作品の中で朝永さんは何も結論付けてはおられないのであるが、まぁまぁ良い線いった考えだったかなぁと安心した覚えがある。

 

 自分でカンカんになって考えたことは、なかなか忘れない。

 

 鏡に映して反対になるのは、右と左ではない。

 

 でも、立った自分の身体を姿見などに移すと左右が反対になっていると思う。右手を上げれば、鏡に映った自分は「左手」を挙げる。

 

 それでも、鏡は右と左を反転させてはいない。鏡に向かう方向が反転している。謂わば、「前後」が反転しているわけだ。鏡に立つと、自分が見ている方向-前-とは反対方向を、鏡の中の自分は見ているはずだ。鏡のこちらの私の“後方”を見ているはずだ。

 

 図で見れば、解かりやすい。鏡面の左が私たちの世界、右側が鏡の中の世界としよう。

 

 

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 矢印の向きが変わっているのは、一番左の図だけ。前向きの矢印が、後ろ向きの矢印になる。真ん中と右の図では矢印の方向は変わっていない。要するに、鏡に平行な面内にある矢印の向きは変わらず、上下・左右は変わらない。鏡に垂直な方向の矢印の向きだけ変わるということだ。

 

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 座標軸っぽく書けばすぐ上の図。x方向-右方向-、z方向-上方向-の向きは変わっていない。y方向-前-だけ軸の向きが変わり、鏡の中では-y方向-後ろ-を向いている。

 

 物理的にはこれでおしまい。

 

 でも、これだと、何故“右と左が反対に”なっていると思ってしまうのか、わからない。

 

 おそらく、「物理的空間」の把握ではなく、朝永さんの言う「心理的空間」の問題だろう。

 

 私たち人類は地球上で生活している。重力が働くので、重力の働く方向を下、空の方向を上と認識して生活している。さらに、生命体の作りが、上と下では大きく異なる。上には頭や顔があり、下には足が出ている。要するに、上下方向に対して「上下反転対称」な形をしていない。明確に上と下は区別される。重力の下で生活しているので、おそらく上下方向には敏感なんだろう。

 

 こうして、まず「心理的空間」として、“上下”を認識して決めてしまう。

 

 人類は“前”に目がついていて、主に“前方”を見るようになっている。“上下”に続いて、前と後ろの認識も大事だ。

 

 そこで、上下を決めたら、続いて“前後”を認識して決めてしまう。

 

 最後に残ったのが“左右”だ。体も、ほぼ左右対称に見えるし、「心理的空間」としては、左右の区別は、上下、前後より重要度が下がる。

 

 結局、最後に「心理的空間」としては、“左右”を認識して決める。

 

 こんな風な「心理」が働いているのではないだろうが。もはや、「物理」ではないが。

 

 姿見のような鏡の前に立つ。重力で引っ張られている地球の中心方向が“下”で、天井の方向が“上”。こうして、“上下”を無意識に決めてしまう。でもまぁ、鏡の向こうの世界でも“上下”は反転していないのだから、ここは構わない。最初の図の右端だ。次に、「心理的空間」としては“前後”を無意識的に決めてしまう。鏡のこちらの自分は“前方”を向いている。鏡の向こうの「自分」は、鏡のこちらの私にとっては、“後方”を見つめているはずなのだが、意識としては鏡の向こうにまわって、なお、“前方”を見ていると決めてしまう。本当は“後方”を見つめているはずなのに。鏡に映して“前後”が反転しているのに、鏡のこちらもあちらも、どちらも“前方”を向いているとしてしまったので、「鏡の中では反転していない」と錯覚する。残りの「心理的空間」は“左右”である。本当は“前後”が変わっているのに、「変わってない」と思い込んだので、矛盾が“左右”に押し付けられる。こうして、「“左右”が反転した」と考えてしまうのだろう。

 

 では、床に仰向けに寝そべっていて、天井に鏡が貼ってあったらどうだろうか。地球の中心方向が“下”、天井に向かって空の方向が“上”だったはずだが、「心理的空間」としては、頭の方が“上”、足の方が“下”と認識して、まずは“上下”を決めてしまう。これも、鏡に平行な面上で寝ていて、その面内で方向を決めているのだから、鏡の中の世界も反転しないので、構わない。次には“前後”を決めたがる。天井の方向、「上」の方を見ている鏡のこちらの自分であるが、鏡の中の「自分」は地球の中心、「下」を見つめている。ところが、すでに“上下”は決めてしまったので、自分の見ている方向を“前”と考えるだろう。こうして、鏡の中の「自分」も“前”を見ていると決めてしまう。本当は反転しているのに、鏡の中でも外でも、「自分」は“前”を向いていると認識してしまう。これは先ほどの姿見の場合と同じ。またまた矛盾が残ったので、矛盾を“左右”に押し付けて、「左右が反対になった」と考えてしまう。

 

 垂直に立って頭の“上”に鏡をおいても同じだ。鏡の中の「自分」は倒立しているのに、頭のある方を“上”だと最初に決めてしまう。鏡の中の「自分」の頭は、本当は“下”に向いているのに。で、矛盾が生じる。次に“前後”は正しく決めるので、“上下”を決めた時の矛盾が残って、最後に“左右”に押し付ける。

 

 しかし。

 

 “左右”が反対にならない場合も無くは無い。

 自動車にのって、車内のルームミラー(バックミラー)で自分の乗った車に後ろから近づいてくる別の車を見てみよう。あなたは運転手だ。ルームミラーを見て後ろから近づいてくる車の“上下”をまず認識する。これはさすがにひっくり返って見えないだろう。上下方向は鏡の面と平行な面上にある矢印なので、そもそも反転しないから矛盾なし。後ろの車はあなたの車を追いかけてくる。あなたは“前方”を見て運転している。ルームミラーの中に見える後ろの車は、鏡の中では、“前の方”からあなたに向かって、すなわちあなたの“後方”に向かって進んでくるように見えるはずだ。車がスピードを上げて近づいてくる。危ない!!正面衝突だ!!・・・とは思わない。運転している自分が、鏡の中に映る車に乗り込んで、自分が運転する車の正面に近づいてくるとは思わないだろう。姿見に向かって自分が歩いていくと、鏡の中の「自分」も、鏡の中の「自分」にとっての“前”、つまりこちらに向かって歩いて来て、衝突すると思ってしまうが、ルームミラーの中に映る車に関しては、鏡の中の「車」にとっての“前”からやってくるとは認識しない。「鏡の中の車は“前”から“後ろ”に向かってきているように見えるが、鏡で“前後”が反転しているので、鏡の中の車も本当は私の“後ろ”の方へではなく、“前”に動いている」と、正しく“前後”を判断する。こうして、「心理的空間」でも“前後”を正しく反転させて認識できるので、矛盾は生じない。鏡の反転作用を正しく取り込んで“上下”、“前後”の「心理的空間」を作った。矛盾はどこにもない。で、最後に、「心理的空間」で“左右”を決定するのだが、“前後”を正しく反転させたので、矛盾は生じず、“左右”はそのまま反転せずに見える。“左右”は鏡の面に平行な面上にある概念なので、正しく「反転しない」。だから、国産車である限り、車のルームミラーを見ると、後方の車の運転手は正しく“右側”に座っていると見える。万が一、後方の車の運転手が、走行中に間違えて“右側”のサイドミラー(バックミラー)を閉じてしまったら、あぁ、後ろの車、“右側”のサイドミラーを閉じてしまったな、と思える。後ろの車がサイドミラーを閉じた時にはミラーは後方へと動いて閉じられるが、“前後”を正しく反転させて認識しているので、ルームミラーで見る後方の車の“右側”のサイドミラーは、私にとっての「心理的空間」でもあり「物理的空間」でもある“前方”へと動いて閉じられたと、間違えずに認識できる。

 

 “上下”、“前後”、“左右”の順に認識していくので、“前後”を正しく反転させて「心理的空間」で認識できれば“左右”は反転したようには感じない。本当は反転しているのに、鏡の中の世界に入り込んでしまって、「“前後”は反転していない」と認識してしまうと、最後に決める“左右”に矛盾を押し付けて、“左右”がひっくり返ったと「心理的空間」では認識してしまい、「物理的空間」と齟齬をきたしているのではないだろうか。

 

 というのが、私の結論。

88.平方数の和

 第30回で四元数に触れた。少し復習しておこう。

 

 まずは、普通の数。a と b という二つの数があったとしよう。数字 a の“大きさ”を絶対値と言って、|a| と書くと、

 

    |a| |b| = | ab|

 

になるのは、ほぼ当たり前だ。

 

 次に複素数。2 乗したら-1に なる“虚数単位” i = √(-1) を使って、

 

    u = a + i b、 v = c + i d

 

のような u、v といった数。二つの複素数の積は i2 = -1 に注意して、

 

    uv = (a + i b )×( c + i d ) = ac-bd + i ( ad + bc )   ・・・(1)

 

となる。また、“複素平面”というものを使ってグラフ化しておこう。u の実数部 a を横軸に、虚数部 b を縦軸にして座標風に描くと

        

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といった感じ。x 軸は複素数の“実部”、y 軸は複素数の“虚部”になっている。複素数 uの“大きさ”は図の r になっていて、

 

    r = √(a2 + b2 )

 

になる。面倒なので、大きさの 2 乗を考えると、a2 + b2 だ。2 つの複素数 u と v の大きさの積は ( a2 + b2 ) × ( c2 + d2 ) だが、簡単な式変形で、

 

    ( a2 + b2 ) × ( c2 + d2 ) = ( ac-bd )2 + (ad + bc )2

 

になる。右辺をよく見ると(1)式の右辺の実数部の 2 乗と虚数部の 2 乗の和になっているので、これは複素数 uv の大きさの 2 乗だ。こうして複素数 u の大きさを |u| の様に書くと

 

    |u|2  |v|2 = |uv|2

 

になっていることがわかる。

 

 さて、四元数。2 乗したらマイナス 1 になる 3 つの数、i、j、k を用意する。

 

    i2 = j2 = k2 = -1 ・・・(2)

 

i、j、k には次のような掛け算の関係がある。

 

    i j = -j i = k 、    j k = -k j = i 、   k i = -i k =  j   ・・・(3)

 

2つの四元数

 

   u = a + i b +j c + k d 、   v = x +i y + j z + k w

 

と書くと、2 つの四元数の積は、(2)(3)に注意して

 

    uv= ( ax-by-cz-dw ) + i ( bx + ay-dz + cw )

      + j ( cx +dy +az-bw ) + k (dx-cy +bz + aw) ・・・(4)

 

となる。四元数の“大きさ”の 2 乗は、予想通り

 

    |u|2 = a2 + b2 + c2 + d2

 

である。ここで、複素数の時と同様に、

 

    ( a2 + b2 + c2 + d2 ) × ( x2 + y2 + z2 + w2 )

   =  ( ax-by-cz-dw )2 + ( bx + ay-dz + cw )2 + ( cx +dy +az-bw )2

    + (dx-cy +bz + aw)2                   ・・・(5)

 

という恒等式が示せる。右辺をよく見ると、(4)の右辺の各項の 2 乗の和なので、四元数の積 uv の大きさの 2 乗になっていることがわかる。こうして、上の式(5)は、

 

    |u|2 |v|2 = |uv|2

 

と書ける。

 

 ところで。

 

(5)式が教えてくれることは、ある2つの数がそれぞれ 4 つの数字の 2 乗の和で書けたとする( a2 + b2 + c2 + d2 と x2 + y2 + z2 + w2 )と、その積もまた、4 つの数字の 2 乗の和で書ける( ( ax-by-cz-dw )2 + ( bx + ay-dz + cw )2 + ( cx +dy +az-bw )2 + (dx-cy +bz + aw)2 )ということだ。ということで、すべての素数が、0 を含む 4 つの自然数の 2 乗の和で書ければ、

 

    『すべての自然数は高々 4 つの自然数の 2 乗の和で書ける』

 

ということになる。すべての自然数素因数分解できるので、素数が 4 つの数の 2 乗和で書ければ、その積も 4 つの  2乗和で書けるので、結局、すべての数は高々 4 つの自然数の 2 乗の和で書けるということだ。

 

 実際、

 

    『すべての素数は高々 4 つの自然数の 2 乗の和で書ける』

 

ことが証明できる(証明は略)。

 

 たとえば、

 

    2 = 12 + 12 ( + 02 + 02 )

    11 = 32 + 12 + 12 (+ 02 )

    23 = 32 + 32 + 22 + 12

 

などなど。こうして、すべての自然数は 4 つの自然数の 2 乗の和で書けることになる。

 

 では、すべての自然数は、3 つの自然数の 2 乗の和で書けるだろうか?

 それは、無理ということだ。

 ある自然数が 3 つの自然数の 2 乗の和で書けるための条件は、

 

   『ある自然数が 2 つの整数 a、b を用いて4a ( 8b + 7 ) という形に書けないとき

    に限り、高々 3 つの自然数の 2 乗の和で書ける』

 

だそうだ(証明は略)。例えば

 

    244 = 62 + 82 +122

 

しかし、240 は 240 = 42 ( 8×1 + 7 ) という形に書けてしまうので、上の定理からいくら頑張っても 3 つの自然数の 2 乗の和で書けない。

 

 では、2 つの自然数の 2 乗の和で書ける数は、どんな条件があるのだろうか?

 

   『自然数素因数分解したときに、4 の倍数+3 の素数が現れた時にはその素

    数がすべて偶数乗されているときに限り、2 つの自然数の 2 乗の和で書ける』

 

たとえば、221=13×17 となるが、素因数はともに “4の倍数+ 1” あって、“4の倍数 + 3” は現れていないので、2 つの自然数の和で書けるはずだ。実際、221 = 52 + 142 。では、245 は? 245 = 5×72素因数分解できる。素数 7 は “4の倍数 + 3”、7 = 4×1 +3 と書けるが、2 乗(72 ) のかたちで現れているので、構わない。2 乗はすなわち偶数乗だ。だから 245 は 2 つの自然数の 2 乗の和で書ける。実際、245 = 72 + 142 。では、275 では? 275 = 52 ×11。11 は “4の倍数 + 3”、11 = 4×2 + 3。これが 1 乗、奇数乗で入っているので、上の条件から、2 つの自然数の 2 乗の和では書けないはずだ。

 

 ちなみに。

 

 次のような 3 つの素数の 2 乗の和を考えよう。

 

    72 + 112 + 432

    72 + 172 + 412

    132 + 132 + 412

    112 + 232 + 372

    172 + 192 + 372

    232 + 232 + 312

 

 全部 2019 になる。2019 は 3 つの素数の 2 乗の和で、6 通りの書き方がある。

 

 今年は西暦で 2019 年。

 

 2019 の各数字を足すと、2 + 0 + 1 + 9 = 12 になり、これは 3 の倍数なので、2019は3 で割り切れることがわかる(第16回)。こうして 2019=3×673 と素因数分解できる。673は 大きい数だが素数だ。2019 の素因数分解で現れる 3 は “4の倍数+3”、3 = 4×0 + 3であり、これが一つ、奇数乗として入っているので、2019 は 2 つの自然数の 2 乗の和では書けないことがわかる。

 2019 は4a ( 8b + 7 ) の形には書けない。奇数だから 4が有ってはいけないので、a=0でなければならない。2019 の素因数分解を見ると 3 も 673 も ( 8b + 7 ) の形には書けない。673-7 が 8 の倍数でないので。というわけで、2019 は 3 つの自然数の 2 乗の和で書けるというわけだ。

 

 2019 は素数だけの 2 乗和で 6 通りに書ける不思議な数だ。

87.潮の満ち引き

 第86回では、月が地球から離れているという観測事実から理解できることを見た。

 

 では、なぜ月は地球から離れて行っているのであろうか。

 第86回と同様な状況設定しておこう。

 

 月と地球は万有引力を及ぼしあいながら、共通の重心の周りを回転運動している。月に比べて地球は重いので、ここでは地球は静止していて、その周りを月がまわっていると近似する。月の質量を m、月の中心と地球の中心間の距離を r、地球の質量を M地球、地球の半径を R、万有引力定数を G とする。下の図の通り。

  

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                   図1

 

 月の存在によって地球の各点に万有引力が働いている。地球の大きさを考えると、地球上で月に近い方の有る点を A、地球の中心を B、月の反対側の有る点を C とすると、A、B、C の各点におかれた質量 m の物体に働く月の引力をそれぞれ、FA、FB、FCとすると

 

    FA = G m m / (r-R)2

    FB = G m m / r2

    FC = G m m / (r+R)2

 

となる。一番大きいのは右辺の分母が一番小さい Fだ。力の大きさは FA > FB > FC の順になる。こうして、まず FA - FB >0 より、A 点の方が B 点より月に引っ張られているので、A 点は B 点に比べて月の側に寄る。一方、FC - FB <0 なので、C 点で月から受ける引力は B 点のそれよりも小さく、B 点に比べて月へ引っ張られていない。B 点が月に引き寄せられても C 点は一緒に引き寄せられずに取り残されるというわけだ。

 地球が硬い岩石だけでできているなら、引力の相違は大きく目には見えないかもしれないが、地球は水で覆われているので、月からの引力の相違を受けて、A 点では月に引き寄せられ、C 点では取り残される。こうして、図の様な状況が起きることになる。つまり、海水面は月の側と、その反対側の2カ所で膨らむ。これが満潮だ。月の側と反対側で起きるので、満潮は 1 日  2回起きることになる。もちろん干潮も同じ。潮の干満は1 日に 2 回起きる。

 

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                    図2

 

 ときどき、月の反対側の海水面が膨らむのは、地球と月が共通重心の周りを周ることによって起きる遠心力だと説明したものが見受けられるが、間違っている。地球を固定して考えても月の反対側でも海水面は膨らむので、“遠心力”では有り得ない。

 さて、ここからさらに進めよう。地球は自転している。図は地軸の上方、北極の側から見たものとする。図で地球は反時計回りに回っている。月も地球の自転と同じ方向へ公転している。地球の自転に際して、地球表面と海水の摩擦によって海水は地球の自転に引きずられて、海水のふくらみ部分は若干自転の方向へ引っ張られる。下図のようになるわけだ。

 

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                  図3

 

 逆に、今度は上の図の地球の A 点、B 点(地球の中心)、C 点の物質が月に及ぼす万有引力、fA 、fB 、fC を考えてみる。A 点と月の距離は他の点からの月までの距離より近いので、引力は大きくなる。月が受ける引力を表す矢印 fA は大きい。

 fA 、fB 、fC を取り出して見たのがさらに下の図。fA 、fC の力を、地球に向く成分と月が動いていく公転軌道方向の成分に分けたものが点線だ。地球に向かう力は地球と月の万有引力であるが、公転軌道に沿った成分を見ると fA の公転軌道方向成分 fA の方が fC の公転軌道方向成分 fC より大きいことがわかる。すなわち、差し引きすると、月を公転軌道方向に押す力の成分が残るというわけだ。

    

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                  図4

 

 こうして、月は、自分が進む方向に“押される”。そうすると、(力)=(質量)×(加速度)のニュートン方程式から、月の進行方向に月は加速され、月が地球を回る速さは速くなる。月が加速されるので、月の公転半径 r は大きくなる。自動車でもカーブを大きな速さで回ると外側に膨らむのと同じだ。こうして、地球と月の距離 r が大きくなるというわけだ。

 それが、1 年でおよそ 3.8 cm だというのが観測事実。

 

 こうして、第 86 回に従って、地球の自転は遅くなり地球の1日は長くなる。おまけに、月の公転周期も長くなっていく。

 

 月がもう地球から離れて行かなくなるのは、どういう状況になった時だろうか。地球の自転周期が月の公転周期より速いので、図 3 のような状況が起きるのだった。月が進むより先に地球の自転で A 点が月と地球を結ぶ線分より前に出てしまうのだ。もし、月が地球から離れて行って月の公転周期が遅くなり、地球の自転も遅くなると、いずれ地球の自転周期と月の公転周期が一致してしまうだろう。このときには地球が自転して A 点が月と地球を結ぶ線分の前に行こうとしても、月も同じように進んでいるので、いつも A 点は月の正面にあるはずだ。こうして、最終的に、地球の片側の面と月の片側の面はいつも向き合ってしまい、いつも月が見える側と、いつも月が見えない側に地球は 2分される。

 

 実は、地球よりも軽い月はすでにこの状況が起きている。月も自転しているので、月と地球を入れ替えてみると、月の自転周期と“地球が月を周る公転周期”が一致して、月の片側の半分、うさぎさんのいる側だけを地球に向けているのだ。

 

 潮の満ち引きから色んなことがわかった。

 

 

86.地球と月

 第85回では単位の定義の改訂について触れた。その中で、時間の単位、秒の定義を書いておいた。

 歴史的には、秒の定義はセシウム 133 原子を用いた定義になるまでは、1900 年の平均太陽日の 24 分の 1 の 60 分の 1 の 60 分の 1 を 1 秒として定められていた。太陽日というのは太陽が最高点に達してから次に再び最高点に達するまでの時間、まぁ 1 日のことだ。それを 24 時間に分けてさらに 60 分にわけてさらにさらに 60 秒に分けたものということだ。

 

 でも、地球の自転は遅くなっている。1900 年の平均太陽日と限定してはいるものの、遅くなる地球の自転に基づいた定義では、おさまりが悪い。そこで、セシウム133原子を用いた定義に直されたというわけだ。

 

 地球の自転が遅くなっていることは、地球と月の距離の測定でわかる。アポロ宇宙船で月に行った人類は、月にレーザー光線を反射する“鏡”をおいてきた。そこに向けて地球からレーザー光を発射し、地球に帰ってくるまでの往復の時間とレーザー光の光の速さから、地球と月の距離が測定できるというわけだ。

 測定によると、1年で平均 3.8 cm 月は地球から遠ざかっていることがわかる。

 

 ではなぜ、月が地球から遠ざかっていくと、地球の自転は遅くなるのか?

 

 ちょっと見ておこう。

      

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 地球と月を考える。地球の方が月よりだいぶん重いので、地球は静止していて、その周りを月が円運動していると近似しよう。月が円軌道しているときの月の角運動量を   Lとしよう。角運動量の説明はここでは省略。まぁ、少しだけ説明して見よう。月が円運動しているとして、地球と月を結ぶ線分を考える。左の図のように地球と月を結ぶ線分が、適当に決めた x 軸となす角度を θ とすると、月の運動とともにこの角度が変化していく。短い時間 Δt の間に角度が Δθ 変化した時、(変化した角度)÷(かかった時間)を角速度と呼ぶ。角速度を ω と書くと

 

    ω=Δθ / Δt      ・・・(1)

 

となる。ただし Δt は限りなく小さくとる。

 次に、物体の回転のしにくさ、慣性モーメントを考えよう。原点から距離 r 離れたところにある質量 m の物体の、原点周りの回転のし難さは m r2 となることが知られている。遠くに重いものがあると周りにくいというわけだ。物体の運動量 p が、物体の動き難さである質量 m と、動く位置変化である速度 v の積、すなわち p=mv であるのと似ていて、角運動量 L は物体の回転のし難さである慣性モーメント I(質量 m に対応)と、回転角の変化である角速度 ω(速度 v に対応)の積になる。つまり、L=Iω というわけだ。ということで、地球を回る月の角運動量

 

    L= m月 r2 ω      ・・・(2)

 

と書ける。m月 は月の質量。r は地球と月の距離。月の速さ v は、右図のように月が動いた距離 rΔθ を、要した時間 Δt で割ればよいので

 

    v = r Δθ / Δt = r ω

 

と書ける。ここで、(1)の角速度 ω を用いた。こうして、(2)は

 

    L= mr v      ・・・(3)

 

となる。

 月は地球の引力を受けている。第3回で見たように、質量 M地球 の地球が月に及ぼす引力は GM地球m / r2 となる。ここで、G は万有引力定数だ。第5回で見たように、この引力によって月に生じる加速度は、v2 / r なので、(質量)×(加速度)=(力)より

 

    mv2 / r = G M地球 m/ r2

 

なので、月の速さ v は

 

    v = √(GM地球 / r )

 

となるので、月の角運動量(3)は

 

    L = m√(GM地球) ×√r

 

と書ける。ここで、地球と月の距離 r が Δr 変化したら、右辺の √r を微分したと思って、月の角運動量の変化 ΔL月 

 

    ΔL= m√(GM地球) ×Δr / (2√r )   ・・・(4)

 

と得られる。こうして、地球と月の距離の変化 Δr が月の角運動量の変化 ΔLを引き起こすことがわかる。

 

 月の角運動量の変化は、地球の角運動量の変化と相殺される。角運動量の保存法則から月と地球の角運動量をあわせたものは、時間変化しない。そこで、地球の角運動量の変化を考えよう。地球は自転しているので、自転に伴う角運動量が変化していなければならない。こうして、地球の自転の時間が変化していることがわかる。

 地球は広がりを持った物体であり、中心を通る軸の周りの回転のしにくさ、すなわち慣性モーメントは、地球の半径を R、地球の質量を M地球 として、地球が一様な密度を持っていて、なおかつ“剛体”、つまり変形しない物体であるとすると

 

    (2 / 5 )M地球 R2

 

と計算される(ここではやらない)。実際には中心部が密度が高いので、上の式の慣性モーメントより小さくなり、地球の慣性モーメント I地球 としては

 

    I地球 =K M地球 R2

 

と書くと、K はおおよそ 0.3444 らしい。2/5 = 0.4 より小さいので、重いものが遠くには少なく、中心部近くにあるので、その分、周りやすいというわけだ。地球の自転の角速度を Ω とすると、地球の自転の角運動量 L地球 は、

 

    L地球 = I地球 Ω = KM地球 R2 Ω

 

となる。地球の自転角速度が ΔΩ 変化すると、地球の角運動量は変化し、その変化量 ΔL地球

 

    ΔL地球 = KM地球 R2 ΔΩ   ・・・(5)

 

となる。地球の自転の角速度は良く知っている。1日1回転だ。1日を τ で表し、1回転は2πラジアンなので

 

    Ω=2π / τ

 

なので、角速度の変化 ΔΩ は1日の長さ τ の変化 Δτ と関係がつくことがわかる。微分だと思って

 

    ΔΩ=-2πΔτ/ τ2

 

なので、1日当たり地球の角運動量の変化 ΔL地球 は、(5)より

 

    ΔL地球1日 =-2π KM地球 R2 Δτ / τ2   ・・・(6)

 

なので、角運動量の保存法則から1日当たりの地球、月、それぞれの角運動量の変化から

 

    ΔL1日 + ΔL地球1日 = 0

 

でなければならない。こうして、(4)、(6)から

 

     m√(GM地球) ×Δr1日 / (2√r )  -2π KM地球 R2 Δτ1日 / τ2 =0

 

つまり

 

    Δτ1日 =m τ2 / (4π K R2)×√(G / r M地球)×Δr1日

 

となる。1年たつと

 

    Δτ1年 =m τ2 / (4π K R2)×√(G / r M地球)×Δr1年

 

になる。数値を入れてみよう。

 

    K = 0.3444

    R = 6.37×106  m (地球の半径)

    M地球 =5.98×1024  kg (地球の質量)

    m = 7.35×1022  kg  (月の質量)

    r = 3.84×108  m  (地球と月の距離)

    G = 6.67×10-11   m3 / kg s2  万有引力定数)

    τ = 1 日 = 8.64×104  s   (一日の長さ)

    Δr1年 = 3.8×10-2  m (1年あたり、月が地球から離れる距離、3.8 cm)

 

以上から、電卓叩くと

 

    Δτ1 = 2.027×10-5  s ≒ 2.0×10-5 秒 = 20 マイクロ秒

 

地球の自転は、1 年当たり 2.0×10-5  秒 遅くなっているというわけだ。

 

 月と地球の距離が離れると、月の公転周期に影響を与える。詳しい計算をするとよいのだが、ここでは、ケプラーの第三法則、公転周期 T の二乗は軌道の大きさ r の三乗に比例する、という事実を用いて検討しよう。比例定数を a とすると

 

    T2 = a r3     ・・・(7)

 

となっている。r の変化 Δr が、月の公転周期の変化 ΔT を引き起こす。微分したと思うと

 

    2T ΔT = a ×3 r2 Δr

 

になるので、(7)を使って左辺は左辺、右辺は右辺で両辺割り算すると

 

    2 ΔT / T = 3 Δr / r

 

となる。数値をまた入れてみよう。地球と月の距離 r は既に書いた。月の公転周期 T は27.3 日  =  2.36×106 秒、1 年で地球と月は 3.8 cm 離れていくので、単純に考えると 10 万年では Δr10万年 = 3.8 km 離れるというわけだ。本当は、r も変わるので、逐一計算しないといけないのでこの限りではないが、まぁ、ここは単純化して一定の割合で離れていくとしておこう。こうして、10 万年あたり、月の公転周期の伸び ΔT は

 

    ΔT 10万年 = ( 3 / 2 )×(T / r )×Δr10万年 = 35.03 ≒ 35 秒

 

となる。つまり、10 万年で 35 秒程度公転周期がのびることがわかる。

 

 もし、一定の割合で地球の自転が遅くなり、月が地球から離れているとすると、昔は地球の自転は速く、すなわち一日は短く、月は地球に近い、すなわち夜の満月は今より大きく見えたはずだ。1 年当たり 2.0×10-5 秒 地球の自転が遅くなるということは、100 年で 0.002 秒自転が遅くなるということだ。逆に、10 億年前は

 

    1000000000 ×( 2×105) = 2×104 =5.6時間

 

だけ、地球の自転は速かったはずだから、10 億年前は地球の一日は 18.4 時間だったということになる。地球と月の距離は 3 万 8000 km 今より近かったというわけだ。今は 38 万 4000 km 離れているので、10 億年前は 34 万 6000 km、今の 90 % の距離だったというわけだ。ということで、10 % 余り、月は大きく見えていたはずだ。月の公転周期は10 万年で 35 秒伸びるということは、10 億年前では 350000 秒今より短かかったはずだ。350000 秒 = 97.22 時間 ≒ 4.1 日だから、公転周期は 23.2 日、地球の動きも入れて、だいたい 2 5日おきに満月になっていたというわけだ。

85.単位系の改訂

 第49回で長さの単位の決め方の変遷に触れた。その際、質量の単位の基準がキログラム原器から変更されることに触れた。

 2018 年 11 月 16 日に国際度量衡総会で新しい単位の基準が承認され、2019 年 5 月20 日から施行の運びとなった。

 

 時間と長さの単位の基準については、表現は変わるようだが、基本的には変わっていない。

 

 時間は、“セシウム 133 原子の基底状態の2つの超微細構造の準位間の遷移に対応する放射の周期の 9192631770(91億9263万1770)倍に等しい” という定義であった。要するに超微細構造準位間を遷移する際に放出または吸収される電磁波の振動の回数が9192631770 回起きるのに持続する時間を1秒とする、ということだ。少し条件が厳しくなって、さらに言い換えて、ちょっと勝手にアレンジして書いておくと、

 

『温度が零ケルビンセシウム 133 原子の基底状態の2つの超微細構造の準位間の遷移に対応する放射の周波数が、秒 (s) を単位として 9192631770(91億9263万1770)       s-1(Hz、ヘルツ)と定めることによって秒を定義する』 

 

といった感じになる。正確に引用しているわけではないから注意してね。零ケルビンって、絶対零度には到達しないから、黒体輻射分は考慮してね、ということなんだろうなぁ。ここで、温度の定義を決めないといけないが、それはあとで。

 

 時間が決まったので、「光速度不変の原理」により真空中では一定である光の速さを用いて“光が真空中を 299792458分の1(2億9979万2458分の1)秒かけて移動する距離” を 1 メートルと定義するのであった。これを言い換えて、

 

『真空中の光の速さが299792458 m/s となる長さの単位をメートル (m) とする。』

 

といった感じに表現されるようだ。

 

 さて、ここから。

 

 質量はキログラム原器の質量を1キログラムと定義しているのであった。これを物理定数を用いて定義しなおすことになる。第 8 回でも現れた物理定数、プランク定数 h を定義値として採用し、質量を定義し直す。秒 (s) とメートル (m) は既に定義されたので、

 

プランク定数 h の値を 6.62607015×10-34  kg m2 / s と定めることによって質量の単位、キログラム (kg) を定義する。』

 

 第 49 回では電磁気学に出てくる単位には触れなかったが、従来は電流の単位を先に決めていた。今回の改訂では、電荷の単位の定義を先に済ませることで、電流が決まることになった。したがって、基本は電荷。今度は物理定数である電気素量が定義値として採用される。

 

『電気素量 e の値を 1.602176634×10-19  C (クーロン)として電荷の単位クーロン (C) を定義する。1 秒間に 1 クーロンの電荷を運ぶ電流が1 アンペア(A)となる』

 

というわけだ。

 

 さっき、温度が出てきた。温度の定義も変更される。現在は、“水の三重点の熱力学温度の 273.16 分の 1 を 1 ケルビン(K)と定める”となっている。水の三重点とは氷と液体の水と水蒸気が共存する圧力、温度のこと。これは圧力-温度でグラフを書いたときに、1点になる。この定義を、物理定数であるボルツマン定数を定義値として採用することで変更する。ボルツマン定数は第 10 回なんかで現れている。エネルギーと温度をつなぐ定数だ。

 

ボルツマン定数の値を 1.380649×10-23 kg m2 / (s2 K) と定めることによって温度の単位、ケルビン (K) を定義する』

 

ということになった。

 

 授業で単位の話をすると、決まって、「なぜ、そんな中途半端な数字を持ってくるのか(例えば時間の定義で、9192631770 回の継続時間では無くて 9000000000 回で良いではないか。光が真空中を 300000000 分の 1 秒進む距離を 1 メートルとしたらよいではないか)。」といった質問が来る。でもね、そんなに切りのいい数字を使ったら、これまで慣れ親しんだ時間や長さと、狂ってくるよ。1秒が、今使っている時間で言うと0.979 秒になったり、おまけに 1 メートルが、今使っている 97.8 センチメートルになったり・・・。

 

 というわけで、質量も、定義値としてのプランク定数をあのように取ると、今使っている 1 kg が極めて高い精度で再現されているというわけだ。

 

 知り合いのツイッターを見ていたらリツイートしているものがあった。ある新聞のコラムで、梶井基次郎の小説「檸檬」から、檸檬を手にした主人公が「疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さである」といったことなどを考えるくだりを引用して、今回のキログラム改訂を取り上げ、「物理学の「プランク定数」で記述されるそうだが、直感からは懸け離れている▼時代の要請はよく理解できる。が、物理学の言葉で書かれる新定義に、何ともしれないよそよそしさを感じる。少なくともレモンのあの重さを表現するのには向いていないだろう。2018・11・16」(東京新聞)と結んでいるそうだ。

 「物理学」と聞いただけで「よそよそしい」という反応になったのだろう。

 

 でもね、1 kg を精度よく再定義したのであって、もともとは水 1 リットルの重量を1 kg と定義したことに始まったことには変わりはない。1795 年、10 cm 立方の体積を 1 リットルとし、“大気圧下で氷の融けつつある温度(摂氏零度)での水 1 リットルの質量”を 1 キログラムと定義した。その後、“水が最大密度をとるときの温度での水 1 リットルの質量”と再定義されたが、1799 年にこの質量と同じ質量を持つ“キログラム原器”が造られ、原器の質量が 1 キログラムと定義し直された。1889 年の第一回国際度量衡委員会で、同じ質量に作りなおされたキログラム原器の質量を 1 キログラムと定め、現在に来ている。その定義をさらに精度を高め、原器の重量変化などの問題から自由になる今回の改訂に、“よそよそしさ”は感じられないのだが。日常感覚ではやっぱり水 1 リットルの“重さ”だよ。

 

 それよりも、“レモン”と書かれると、寺町通りの果物屋で買い物をし、丸善で積み上げた画本の頂きにすえ付けた梶井基次郎の“檸檬”のあの香りや重さは感じられないのだが。

 

 でも、まぁ、聖(ひじり)橋から放って各駅停車に噛み砕かすことはできず、聖橋から放ると快速電車の赤い色とすれ違うんだけど。檸檬は。

 

84.太陽が眩しいから

 さだまさし(敬称略)というシンガーソングライターがいる。俳優の菅田将暉さんがさださんの学生時代を演じたドラマを以前に見たことがある。だいぶん雰囲気良い方に寄せてるから演じられたご本人は気分いいだろうなぁ。

 それで、久しぶりにさださんの昔の曲を聴いていると、『転校生(ちょっとピンボケ)』という曲に行き当たった。

 

 なつかしい。

 

 1983年のアルバムに入っているとのことだから、高校3年生の時に聞いた曲だ。

「バスを待つ君の長い髪にBlow in the wind」で始まる。もちろん、「Blow in the wind」は、ボブ・ディランの『風に吹かれて』、Blowin'  in The Windから取っているのだろう。高校3年生の頃にもそのくらいは解っていた。ハロウィーンの日に現れた「君」が恋人に選んだのが「僕」で、うろたえてウィスキーをがぶ飲みして撮った「君」の写真がちょっとピンボケであり、おそらく出会って半年余り後のイースター(復活祭)の後に、「来たときみたいに風のように」帰っていく際に「君」を見送った景色が、ちょっとピンボケ、というストーリーの詩であった。

 

 ついこの間、戦場カメラマンであったロバート・キャパに関する本を立ち読みしていた。『崩れ落ちる兵士』、Falling Soldier、はさすがに知っていた。そのロバート・キャパが、自身の恋愛物語を交えて第2次世界大戦を回想した書のタイトルが、『ちょっとピンぼけ』、Slightly out of focusということを偶然知った。

 

 さださん、やるなぁ。

 

 多くの歌の中にいろいろな引用が隠されているのは楽しい。また、曲名もそのまま何かからとってきたりしていることがある。『檸檬』は梶井基次郎だし、『つゆのあとさき』は永井荷風だし。『魔法使いの弟子』はポール・デュカスのクラシックの曲だし。

 でも、そうやって、さださんの歌から文学なんかに興味が広がったのも事実かもしれない。『あこがれ』という曲では、その歌詩に「あこがれてゆくの ずっとこれからも 心の鐘をひとり打ち鳴らしながら」とあり、たまたま見た若山牧水の短歌、「けふもまた こころの鉦を打ち鳴らし 打ち鳴らしつつ あくがれていく」に行き当たったりした。短歌なんて興味もなかったのに。『飛梅』を聴いて、菅原道真大宰府に流されるとき、自宅屋敷の梅の木に「東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」という歌を詠み、それを聞いた梅の木は一夜にして大宰府まで飛んでいったという逸話を知った。おまけに、「春な忘れそ」、おう、「・・・な・・・そ」、の係り結びではないか。

 

 勉強になっていたなぁ。

 

 早逝した尾崎豊(敬称略)も中学生時代、さださんの歌をギターで弾き語っていたというから、或る世代の人たちには影響を与えていたのかもしれない。尾崎と私は生年が同じだ。

 

 そんなさださんの曲に、『異邦人』というものがある。漢字で書いておいて、「エトランゼ」と読ませる。フランス語だ。Étranger。詩の中に「過ごしたアパルトマン」「マロニエ通りの奥」「洗濯物の万国旗」というフレーズがあり、中学生の頃は勝手に行ったことも無いフランスをイメージしていた。エトランジェはフランス語であるので間違いではないと思う。しかし、後年、パリ暮らしをしたときには、法律で洗濯物は通りから見えるところに乾すことは禁じられており、通りを挟んでアパルトマン同士で洗濯紐を渡してそこに洗濯物を干して万国旗のように見える、なんていう風景は、フランス・パリでは有り得ないことを知る。

 

 この曲は「太陽がまぶしいから・・・」で終わる。

 

 もちろん、『異邦人』といえば、フランスの作家、アルベール・カミュの小説、『L' Étranger』だ。小説とさださんの詩とでは背景が違うが、曲名はカミュから取ったのだろう。

 

 カミュの『異邦人』では、主人公が殺人を犯し、何故殺人を犯したのかと裁判官に問われたとき、「太陽が眩しかったから」と答える。

 

 カミュ自身は、ナチスドイツに協力する政権であったフランス、ヴィシー政権下で、対独レジスタンス活動をしていた。ヴィシーはこの政権が首都に置いた地名。ペタン元帥が首班。ペタンの部下のシャルル・ド・ゴールはイギリスに逃れ、ロンドンで亡命政権、自由フランスを立て、ヴィシー政権ナチスドイツへの抗戦を呼びかけていた。ヴィシー政権下では、フランス革命以来の「自由 (Liberté)・平等 (Égalité)・博愛 (Fraternité)」は降ろされ、「労働 (Travail)・家族 (Famille)・祖国 (Patrie)」に置き換えられる。

 

 なんか、極東の保守政治家が好んで言いそうなスローガンだ(2018年10月現在)。

 

 カミュが実際にレジスタンス活動中にドイツ軍将校を殺したことがあるのかどうかは知らない。しかし、レジスタンスとして自身がドイツ兵に対する殺人を許すことの論理付けとして、カミュ自身はドイツ兵に殺される可能性がある、だから自身もドイツ兵を殺す権利がある、「自ら死のリスクを冒す用意のある者のみが暴力を免責される」という平等性の論理で自身のレジスタンス活動を正当化したようだ(内田、カミュ研究4号(2000年))。自然権としてのジョン・ロックの「革命権 (right of revolution)」もしくは「抵抗権 (right of resistance)」に通じるように思える。ロックの自然権の考え方はおそらく、フランス革命の思想的基礎だったんだろうから。

 しかし、第2次世界大戦後、対独協力のヴィシー政権が倒れた後、対独協力者の粛清が始まる。ある対独協力者の死刑の前に、助命嘆願書にサインしてくれとカミュは頼まれる。自身の命を賭してレジスタンス活動していたときの敵である。しかし、カミュは逡巡した後、助命嘆願書に署名する。すでに相手は獄中にあり、自分を殺す可能性は無い。相手は自分を傷付ける可能性は無いのに、こちらが傷付けることは、レジスタン活動の時の様な平等性の論理が成り立たない。そこで、粛清には反対する。レジスタンス時のように《・・・固有名をもった個人としてカミュと彼の同志たちに敵対していたとき、カミュはそれを罰する権利を自分に許した》が、《しかし、国権が、この一対一の戦いに介入し、「彼らに代わって」、「社会の名において」制裁を下すというのならば、それを許すことはできない》(内田、カミュ研究4号(2000年))と考えた。

 

 ひるがえって、「美しい国」はどうであろうか。全員が罪に向き合って反省していたのでは無いのかもしれないが、伝え聞くところでは多くが反省していた弟子たち12名の死刑を、2日に分けて行った。しかも、政権は、刑の執行後に事実を公表するのではなく、次はどの死刑囚が執行されるのかといった、まさに今からというタイミングで情報を故意にリークし、劇場型執行、いわば見世物にした。文明国と思っている国の、2018年のことである。

 審議の時間だけを盾に、十分に問題点を議論することもなく、「平和安全法制整備案」として集団的自衛権等、議論の残る法律を可決する。戦争の際には情報統制が必要なので、「特定秘密保護法」を制定する。戦争になれば殺されるのは国民一人一人だ。戦争遂行中に当の戦争で殺される国民の中に行政府、あるいは行政機関の長の面々が入っているかどうかは、太平洋戦争の歴史を学んでみるとよい。

 

 ナチスドイツでヒトラーが権力を握っていたときには、何度もヒトラー暗殺未遂があったようだ。1932年の選挙でナチス党が第1党となり、1933年にヒトラー内閣が成立する。他党の議員を逮捕していくことで、憲法改正に必要な3分の2を確保する。同じ年に全権委任法を成立させ独裁への道を進む。1934年に現職の大統領が亡くなると、大統領の権限もヒトラーが握り、いわゆる総統となる。第1次世界大戦の敗戦後に結んだベルサイユ条約で細かく軍備制限されていた軍備を、1935年に再軍備宣言をして無視し、軍備を増強する。1936年にはベルサイユ条約で非武装地帯とされていたラインラント地方へ進軍する。同じ1936年に、国威発揚のため、ベルリンオリンピック開催。ボイコットされずにオリンピックを成功させるために、オリンピック開催へむけて、開催期間前後だけ、ユダヤ人迫害政策を緩め、ヒトラー自身は有色人種差別発言を控える。1939年にポーランド侵攻。第2次世界大戦勃発。その後の狂気は記すまでもない。

 このような動きの中で、1938年には陸軍によるヒトラー暗殺・クーデター未遂が起きる。個人による暗殺未遂も起きる。しかし、ヒトラーは悪運強く、倒されなかった。政権末期の軍によるクーデター計画も失敗している。その時、1944年7月20日の軍によるヒトラー暗殺・クーデター未遂に関与したとして、レジスタンス活動を行っていた一人、エルヴィン・プランク (Erwin Planck) が逮捕され、10月23日の人民法廷で死刑宣告を受け、翌1945年1月23日に処刑されている。ヒトラーが追い詰められて自殺する4月30日から遡る事100日足らず前のことだ。エルヴィン・プランクは、8回、9回、12回なんかで触れたノーベル賞受賞の物理学者、マックス・プランクの次男。(やっと物理に関連する話題になった。かなりピンボケの、『「物理」備忘録』。)

 

 ヒトラー再軍備をし、戦争を仕掛け、結局、第2次世界大戦に敗れる。

 

 戦争がしたければ、「遠からん者は音に聞け。近くば寄って目にも見よ。やぁやぁ我こそは・・・」と名乗りをしてから一騎打ちをして終わらせたら良いのに。

 50 歳過ぎた人間に対して「まだ若いから」で済ませられる脂の乗りきった年齢の大人たちなら一騎打ちの体力くらいはあるだろうに。