138.small world

 言語化するのが苦手だ。

 

 偶然、BUMP OF CHICKEN の small world という音楽ビデオが目に入った。

 最初の 1 小節に勝手に大いに共感した。

 

 ビデオでは明らかに日本の風景が映っているのだが、何故か、フランスのミュージシャンの Jean-Jacques Goldman(ジャン・ジャック ゴールドマン)を思い出した。Jean-Jacques の音楽ビデオだ。

 カメラ回しなのか、画像のフェードアウト・フェードインの手法なのか、登場人物のモチーフなのか、何が似ているから急に思い出したのかわからない。Jean-Jacques の

À nos actes manqués だったか、Quand tu danses だったか、何の音楽ビデオを連想したのかも特定できない。

 なぜ Jean-Jacques を思い出したのだろうか。

 

 言語化できない。

 

 1998 年 7 月 8 日から 1999 年 7 月 7 日まで、夫婦 2 人でフランスのパリに滞在していた。仁科記念財団から海外派遣研究者としての援助を受けて、パリ第 6・第 7 大学、Université Paris VI (Université Pierre-et-Marie-Curie(ピエール・マリー=キュリー大学))・Université Paris VII (Université Denis Diderot(デニ=ディドロ大学))で研究生活を送っていた。キャンパスはセーヌ左岸の Jussieu にあった。今は、パリ第 6 大学は第4大学と合併してソルボンヌ大学と称していて、第7大学の方は第5大学と合併して単にパリ大学と称しているようだ。

 フランス語生活なので、日本語が恋しくなったらいけないと、パリへミスチルとか、日本の音楽 C Dを持って行った。当時、J-POP という言葉はさほど広まっていなかったが、まぁ、J-POP を聞けるようにしていた。

 

 ところが。

 

 当時、フランスのテレビは、TF1、France 2、M6 の 3~4 局くらいしか入らなかった。ARTE が入っていたかもしれない。朝食のときには、割と M6 というテレビ局の番組を点けていた。テレビショッピングの番組やら、音楽のプロモーション・ビデオなどを流していた。

 パリで生活を始めてすぐに、M6 で初めて、Jean-Jacques Goldman の音楽を聴いた。多分、「Bonne idée」が初めてだったと思う。それから、「On ira」とか「Nos mains」とか。

 とっても良くって、フランスのポピュラー音楽を聴くようになった。結局パリの自宅で J-POP は一度も聞かなかった。

 

 パリ大学では、Dominique Vautherin (ドミニク・ボートラン)という先生のもとで理論物理の研究を行っていた。

 1997 年のある時、京都大学の M 先生から突然電話を貰った。M さんの記憶では、私が電話をしたことになっているようだが、そんな大教授に、当時助手、今でいう助教のペーペーがいきなり電話をするわけがない。M さんはそのころ Dominique と共同研究を行っており、その時、Dominique が私の過去の論文を知っており、それが使えるのではということで M さんに私の論文を紹介したそうだ。それで M さんが同じ日本に居る私に声をかけて共同研究しようということになった。97 年の春 1 か月、京都の M さんの下、京都大学基礎物理学研究所に研究員として滞在した。97 年の夏には、フランス、当時パリ市の南、 Île-de-France(イル=ド=フランス)にある Orsay 原子核研究所に所属していた Dominique を訪ねた。 それから、翌 1998 年からパリで共同研究すべく、渡航の準備を始めた。それで、仁科記念財団の海外派遣研究者に応募し、多くの先生方の推薦などのお力添えで選んで頂いて、無事に渡航ということになった。

  2020 年代の今ではあまり考えられないような研究の仕方である。勤務する大学の本務をよそに、国内留学、海外渡航で長期間離れるなんて。

 学生時代、大学での第 2 外国語はドイツ語だったので、フランス語の正規教育は受けていない。本を買って勉強して、日常生活は何とかなるようにした。ときどき、テレビを見ていて聞き取れない言葉を Dominique に聞いたりしていた。「プレザンポクトンってよく聞くけど、何?」と聞いたら、しばらく考えてから、「それは très important (トレザンポルトン(?))だろう。very important ということだ」みたいな。

 1998 年、1999 年のパリ滞在で 2 編の論文を仕上げ、1999 年、2000 年付けで論文は掲載されている。

 

 帰国後もちょくちょく Dominique のところを訪問していたが、2000 年に Dominique に病気が発覚し、2000 年 9 月にパリの自宅を訪問して再会したのが最後となった。Dominique はアイデアがあれば、計算の方向性と共にノートを付けていた。Dimanche 29 Mars 98 (1998年3月29日(日))付の A4 で 3 ページのノートのコピーを貰った。グルオンだけからなるグルーボールと呼ばれる素粒子の質量をいかにして計算するかのアイデアが書いてあった。ノートの日付から 14 年、Dominique が亡くなってから 11 年余り後、ようやく彼のアイデアを理論に載せ、2012 年に論文を完成させることができた。

 

 フランスはかつてベトナムを植民地としていたので、ベトナム系の人やベトナム文化がパリの至る所に入っていた。大学の近くにも洒落たベトナム料理店があり、Dominique とよく行った。店内には漢字が書かれた屏風みたいなものが有り、「読めるか」と言われても、正確には判らないが、漢字だけなので、何となく意味は分かる。

 

 Jean-Jacques Goldman は 1981 年に Taï Phong というバンドでデビューし、1981 年にソロになっている。1990 年から 95 年までは、Frederic Goldman Jones 名義で、3 人で活動し、1997 年にまたソロに戻っている。Jean-Jacques が 1987 年に最後に出したソロアルバム、「Entre gris clair et gris foncé」 以来、10 年ぶりに 1997 年にアルバム「En Passant」 を出したので、私たち夫婦がパリに着いた 1998 年にはJean-Jacques で大層盛り上がっていたようで、しきりとテレビで見聞きした。

 Taï Phong とは、ベトナム語で typhoon、台風のことだ。英語の typhoon は tsunami みたいに日本語の台風から派生している言葉だと思っていた。

 

 が、しかし。

 

どうやら違うようだ。ギリシャの風の神、tuphon から typhoon が来ている。

 

 いや待て。

 

 台風は日本では野分(のわき)と呼ばれていたはずだ。どうも中国福建省あたりで激しい風のことを「大風(タイフーン)」と呼んでいて、それがヨーロッパでは「typhoon」となり、中国や日本では「颱風」となったという説もあるようだ。日本では漢字が代用されて「台風」となっている。

 いや待て。

 

 アラビア語起源という説も有るらしい。アラビア語でぐるぐる回る意味の「tufan」がヨーロッパでは「typhoon」となり、中国では「颱風」となった。

 

 Jean-Jacques は 2001 年に「Chanson pour les pieds」というアルバムを出した。Dominique の居ないパリへ行った時に買って帰った。Jean-Jacques は 2004 年に音楽活動から引き、2011 年には復活の噂を打ち消している。彼と彼の音楽は多くのフランス人に愛されているようで、2012 年、13 年には 2 枚のアルバム「Génération Goldman(vol.1,2)」が出され、Jean-Jacques 抜きで、多くのミュージシャンによって Jean Jacques の名曲がカバーされている。

 

 不安定な熱の出る嵐のような病気とされる発疹チフスは typhus と綴るが、これも風の神 tuphon からきているそうだ。Typhoon もギリシャ語起源の気がしてきた。ついでに、インフルエンザは季節性であり、そのため季節ごとに近づいたり離れたりする星や惑星の動きに影響されて起きると考えられ、影響、英語の influence の語源のラテン語、influentia から採られて influenza となっている。

 

 管理職を拝命してから、紆余曲折を経ながらすでに 9 年目に入った。特に、コロナ禍が始まった 2020 年 4 月からは学部を預かる立場となり、コロナ対策のもとで学生教育をいかに維持していくかなどで忙殺され、自身の研究生活はほとんど止まっている。

 早くCovid-19、新型コロナウイルスも季節性インフルエンザ並みに収まって欲しいものだ。管理職もあと 1 年半で終わる。

 

 そうしたら、Paris へ行こう。

 

        

         Dominique VAUTHERIN (1941-2000)